2014-03-02(Sun)

イエスの十字架への道 2014年3月2日の礼拝メッセージ

イエスの十字架への道
中山弘隆牧師

 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。
レビ記17章10~12節

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20章20~28節

(1)イエスの決意
 今週の水曜日からレントの期間に入ります。この時、わたしたちは主イエスの苦難の意義を心に深く受け止める者でありたいと願っています。マタイによる福音書20章17節には、「イエスはエルサレムに上っていく途中、十二弟子たちだけを呼び寄せて言われた。」と記されています。
 ここでもイエスは十字架の死に向かって行く救い主の使命を語っておられます。これは三度目であり、イエスが明確な自覚とその使命を果たそうとする堅い決意をもってエルサレムに向かって行かれたことが分かります。マタイによる福音書はマルコによる福音書に基づいているのですが、マルコ福音書ではこの場面がもっと生々しく描写されています。
 「一行がエルサレムに上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32)
 ここで先頭に立って決然と前を向いて進んで行かれるイエスの顔にはただならぬ決意がみなぎっており、弟子たちはイエスの気迫に圧倒されて、恐怖を感じたと言うのです。
 実にイエスの態度には、勇気がありました。そこには父なる神への従順がありました。父の意志に従い、十字架の死の苦い杯を最後まで飲み干そうとする従順な思いがありました。そこには贖罪愛がありました。神と人への愛のために自己の命を献げて死のうと言う愛の決断がありました。
 マルコ福音書のこの描写の行間には、イエスの行動の「自発性」がはっきりと読み取れます。
 すべてイエスの自発的な決意によるのでなければ、イエスはガリラヤに戻り、そこで落ち着いて、神から遣わされた教師として長年教えることもできたでありましょう。そのような安全な道を選ぶことは、合理的に考えれば正当化できるでありましょう。しかしそれでは、神から与えられた救い主の使命を果たすことはできません。今イエスは人生の岐路に立ち、神の意志に反しても合理的な道に行くか、それとも神に従う危険な道に行くかの選択を迫られたのです。ここでイエスは人間の知恵に従う代わりに、神の意志に従い、自分の生命を放棄する道を選ばれました。

(2)弟子たちの無理解
 それでは弟子たちはどのように考えていたのでしょうか。彼らはこの場に及んでも、イエスの使命についてまだ理解していませんでした。それはイエスが初めて弟子たちに十字架の死を告げられたとき、弟子たちはイエスに猛反対をしたことから推測できます。マタイによる福音書では16章22~23節に次のように記されています。
 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ、あなたはわたしに邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
 このようにペトロは厳しい叱責を受けました。それは救い主が十字架の死を受けなければならない、それが神のご計画なのだと言うイエスのお考えに猛反対したからです。
 なぜなら弟子たちは、伝統的な「ユダヤ的」メシア像、すなわち政治的、軍事的、文化的な権威者としてのメシアと言う考えに捕らえられていたからです。彼らは救い主たる者は、この世的な権力の頂点に立つべきであると言う考えに慣れていました。
 従いまして、イエスは御自分がエルサレムに上って行って、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、言われた深い意味が理解できませんでした。
 イエスはそうすることが父なる神のご計画であるから、必ず実現すると言う神の必然と、同時に神から使命を与えられた者としての自己の責任とを弟子たちに教えられたのです。しかし、この二つのことは弟子たちに全く理解できませんでした。
 その理由は弟子たちの側にありました。それは彼らが世俗的な考え方に捕らわれていて、甚だ利己的であったからです。
 本日の聖書の箇所がこの点をよく示しています。
 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と、一緒にイエスのところに来て、平伏し、何かを願おうとした。」と、伝えています。子を思う母親の気持ちと言いましょうか、しかし純粋な愛ではなく、自分の子供たちだけ出世して欲しいと言う思いです。
「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れると仰ってください。」(20:21)
 これはイエスが名実ともに神の国の支配者となられるとき、二人の息子をナンバー・ツーとナンバー・スリーになるように先約してくださいと、いう強引なお願いです。
 これに対して、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(20:22)と二人の弟子に仰せられました。
 それは彼らの思いが十字架に向かって行かれるイエスの思いと全く異質であり、正反対の野望であったからです。当然、二人に対して他の弟子たちは皆憤慨しました。しかし彼らも二人と同じ野望を抱いていたからです。
 要するに、このような事情を考慮しますと、主イエスが教えられた救い主の使命について、弟子たちの理解は大よそ見当違いで、彼らの考えが根本的に改められなければなりませんでした。彼らの自己中心的な野望は神に対する反抗であり、罪の正体なのです。
 天地の創造者である全知全能の生ける神は、人間をご自身との人格的な交わりに入れることを欲せられました。それはひとえに人間に対する神の愛によるのです。そのため、神は御子においてご自身を人間と結び合わされました。そして神は御自身の内部で、父・子・聖霊の愛と平和の交わりを持っておられるのですが、神の御子イエスを通して、その神の内部にある交わりに人間を招き入れようと欲せられたのです。
 しかし、人間は高慢であり、また神に反逆的な罪人でありますから、そのような人間の罪が先ず贖われなければならなかったのです。
 実に、御子イエスによって人類の罪を贖うことが、人間を神との交わりに入れるために神が定められた唯一の手段なのです。
 それゆえ、主イエスが明確に認識し、自覚しておられた救い主の使命は、わたしたち人間が考え出したものではなく、父なる神が御子イエスに啓示されたものであることが分かります。

(3)人の子の主権
 ここで、イエスはこのことを弟子たちに分からせるため、弟子たちを身近に呼び寄せ、次のように仰せになりました。
 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:25~28)
 この短い言葉は、実に主イエスの全生涯を総括する意味を持っています。この世の価値観、原理、支配とは全く異なり、むしろ正反対である神の国の価値観、原理、支配をもたらすために、イエスは人類にご自分を与えるのであると、仰せになっているのです。
 御子イエスがご自身の内に持っておられる父・子・聖霊の交わりは、先ず父なる神が御子を愛し、聖霊を通して、ご自身のすべてを御子に与えられたことであります。次いで御子は父の愛に応え、父の栄光を求め、自己の栄光を求めず、父の御心に従い、聖霊によって父の御心を実践されました。そのようにして神の愛は、父なる神から聖霊を通して御子に至り、その愛は聖霊を通して、御子から父なる神に戻るのです。その循環の中に唯一の神は存在し、働いておられます。そして聖霊は神の愛の働きそのものなのです。
 実に、神が罪人をご自身との人格的な交わりに入れるためには、その交わりに入る資格の全くない者のために、御子イエスがご自身を与え、その罪を贖い、高慢な、貪欲的な、反逆的な心を取り去り、その代わりに謙遜さと、自ら進んで神に従うことを喜ぶ従順さと、それ以外の何物も要求しない純粋な心を与えるために、すなわち御子の心を与えるために御子はご自身を罪人に授与されたのです。
 罪人が神を知り、神に従うことのできる霊的認識と生命と力を与えることが人類の救い主としての御子イエスの使命でありました。そのことをイエスは多くの人から仕えられるためではなく、多くの人に仕えるために自分は来たのである、と仰せられたのです。ここで「多くの人」とはヘブライ的な表現で、それは「すべての人」という意味です。
 さらにイエスの十字架の犠牲が、人類を罪の束縛から解放する神の力を持っているかどうかの「試金石」は、実にイエスの明確な自覚にあります。
 もしイエスがご自身の十字架の死が果たす特別の使命について自覚がなく、ただ運命的な必然性によって十字架につけられて死んだというだけだとすれば、その死は人類の罪を贖うことはできません。なぜならその死は非人格的で、愛を持たない行為となるからです。 
 この点で旧約聖書の礼拝における罪の贖いの儀式は、清い動物の血を携えて、大祭司が年に一度、聖所の奥にある「至聖所」に入り、その中に安置されている「贖罪所」と呼ばれる場所、すなわちそれは契約の箱の「金で出来た蓋」ですが、そこに注ぐことでした。
 しかしこれは終わりの時に出現するキリストの犠牲の血を「象徴する」ものであり、贖いの実体ではなく、その陰に過ぎません。
 ヘブライ人への手紙は、次のように言っています。
 「牡牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないのです。」(ヘブライ10:4)。その理由は、動物の血は非人格的な血であり、そこには自覚がないからです。
 「ところが、世の終わりにただ一度、ご自身を生け(いけ)贄(にえ)として献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。--キリストは多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:26、28)
 ここでキリストの犠牲は繰り返されることのないただ一度限りの犠牲であると強調しています。なぜならそれは完全な罪の贖いであったので、永遠の効力を持っているからです。
 「まして、永遠の“霊”によって、ご自身を疵(きず)のないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9:14)。このように聖書はただキリストの血を通して、人は真の神を礼拝することができると教えています。

 最後にイエスはご自身を呼ぶ名称として「人の子」と言う表現を用いられました。これは旧約聖書のダニエル書7:13に記されている「人の子」をご自分に当てはめられたのです。
 「人の子」は地上から出た普通の人間ではなく、天から下ってくる人間であり、神から主権を委ねられた者と言う意味です。イエスは御自分を人の子と呼ばれたことにより、ご自分がそのような者であるとの深い自覚を持っておられたことが分かります。
 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」とのイエスの言葉は、神の国の支配者として、ご自分の使命を明確に認識しておられたことを如実に物語っています。
 この明確な自覚に基づいた人類に対する深い愛と、父なる神に対する御子の従順とが、自発的で、人格的であったからこそ、イエスの十字架は霊的な永遠の意味を持っているのです。
 わたしたちは聖書を読むことによって、歴史上実在したイエスが、「人の子」すなわち天から下ってきた人間である神の御子であると言う明確な自覚を持って、十字架の死の意義を熟知し、自ら進んで十字架の死を全うされたことを信じなければなりません。
 これほど尊い死は他にはありません。この死によってわたしたちは真の命に生かされるのです。このことを信じなければなりません。なぜならば信じることにより、わたしたちはこの事実を体験し、認識し、生かされるからです。
 このキリストの死によってわたしたちは罪を赦され、神との交わりの中で生きるようにされているのです。そして最終的な救いに入れられるのです。復活の主は常に罪の赦しを以てわたしたちと出会われます。そのとき、わたしたちは主が地上の生涯を十字架の死によって全うされた方と同じ性質の方であることが分かります。
 それゆえ、わたしたちは全存在をもって、復活の主イエスに従いたいと切に思います。自分の考えと言葉と行動を主イエスの思いと一致させるように祈り、そうなるために努力したいと願っています。
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