2014-02-16(Sun)

主にあって共に歩む 2014年2月16日講壇交換礼拝メッセージ

主にあって共に歩む
中山弘隆牧師

 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピの信徒への手紙3章8~14節


(1)主にあって
 本日は埼玉地区で行っています交換講壇により、町田さとみ先生に三芳教会で礼拝の説教をしていただき、わたくしが初雁教会で説教の奉仕をさせていただくことなり、まことに感謝です。わたくしは山岡 磐先生と長い間、親しい交わりを頂き随分お世話になりましたが、その時はまだ地区では交換講壇を行なっていませんでした。しかし、互いに主にある教会でありますからこの企画は大変良いと思っています。
 本日の聖書の箇所として選びましたフィリピの信徒への手紙3章8~9節で、キリストの使徒パウロの信仰者としての最大の関心すなわち、唯一の関心と彼の姿勢が極めて明瞭に表されています。
 「わたしは主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それは塵芥と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」
 ご承知のように、パウロは復活のキリストに出会い、福音の使徒としてキリストに選ばれる直前までは、キリストに敵対していた熱心なユダヤ教徒でした。新進気鋭の律法学者でありました。彼は律法を落ち度なく実行していましたので、律法の業による自己の義を持っており、それに寄り頼み、神の国に入ることができると確信していたのです。
 ところが、復活の主イエス・キリストに出会った時に、初めて自分の義に寄り頼んでいる生き方は正に滅びに至る道であることを知らされたのです。他方、自分が求めている神の救いを得る唯一の道は、神が主イエス・キリストを通して実現された神の恵みによることを知らされました。それゆえ、パウロはキリストにおける神の恵みの前では、自分の義、功績、業はすべて空しいことを悟りました。
 実に人間の「救いの根拠」は人間の功績ではなく、神の御子イエスが人類のために人類の代理として人類の責任を取り、神がイエスの中で全人類を裁かれ、イエスが死に至るまで神の御心に従順でありましたので、人類に対する「神の真理と義が貫徹した」ことです。それゆえ「神の裁き」「人類の救い」となったのです。
 ここで注目すべきことは、生まれながらのわたしたちはアダムの子孫としての罪人です。しかしわたしたちが神の御前で生きるようにするため、神は主イエス・キリストの中でわたしたちを既に新しい人間、神の子と呼ばれる人間として「再創造」して下さいました。 
 このことを神はキリストを復活させることにより、啓示されました。パウロは復活のキリストと出会うことにより、神の啓示を受けたのです。その「啓示」の内容が「福音」なのです。

(2)人を義とする信仰とは何か
 従いまして、神ご自身が人間のために御子イエスにおいて実行し、判決された「神的事実」は人間を「救う神の力」を持っています。パウロは「十字架の言葉は滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一、1:18)と言っています。
 このようにイエスの十字架と復活を通して神が人間に下された判決は、「神の主権」に基づいた決断でありますから、人間の業に先行し、人間の為すこと為さないことに制約されない人間を救う力を発揮します。その神の主権に寄り頼むことが「聖霊による信仰」です。
 実に神ご自身が人間のために実現された主イエスの十字架の死と復活、この神的事実を信じ、それにだけ寄り頼むことが「聖霊の働き」としての「信仰」です。人はその信仰によって、罪人である「にも拘らず」、「神の義」を与えられ、神に「受け入れられる」のです。
 まことにこれが聖霊の働きとしての信仰です。わたしたち自身の敬虔な業としての信仰ではありません。
 従って信仰は極めて「単純な信仰」です。聖霊による信仰は決して難しい信仰ではありません。からし種一粒のような信仰です。幼子が親を単純に信頼しているように、主イエスを信頼することです。
 パウロは復活の主イエスに出会って神が主イエスの十字架の死と復活を通して実現してくださった事実こそ、救いの「唯一の根拠」であり、また「救いのすべて」であることを単純に信じ、生涯を通して寄り頼みました。
 一編の讃美歌260番(讃美歌21では449番)も、この神的事実を信仰者の寄り頼む「千歳の岩」と歌っています。
 イエスのなされた譬え話の中に高価な真珠を探していた商人の話があります。一個の価値ある真珠を見つけ、それを得るために自分の全財産を売り払って、その真珠を喜んで買い入れました。同じようにパウロはイエス・キリストを知る価値のゆえに、これまで自分の価値であった律法の業による自己の義をすべて投げ捨て、キリストの僕となったのです。
 このように主イエスを自分の救い主として信じるときに、人は神が「自分を受け入れて下さった」ことが分かり、言葉では言い尽くせない喜びに満たされます。神が自分を喜んでくださる「神の喜び」に与って、心の中から溢れ出る喜びです。どのような試練の中でも最早この喜びは取り去られないのです。これが信仰の特徴です。
 また、聖霊による信仰は神が主イエスにおいて実現してくださった神の決定を受け入れ、それに「完全に服従」することです。従って信仰は神に対する「完全な従順」でありますから、その意味で「信仰は完全」なのです。

(3)愛に生きる在り方
 次に信仰によって、主イエスと結ばれたクリスチャンは、主イエスの義と命と自由を受けて、言い換えれば主イエスを通してクリスチャンの中に働く神の愛によって、神の愛を実行する者となります。
 この働きも、また新しい人間の生き方です。しかし、この新しい人間の働きは、信仰のように完全ではなく、地上の生涯の中では未完成に終わります。しかし、「日々新たに」愛の業を為すことがキリストに従うクリスチャンの歩みです。
 この点で、先ほどの8節と9節にありますように、パウロの生涯の目的は、「キリストを得る」ことと、「キリストの内にある者として認められる」ことです。「キリストを得る」とは、キリストとの人格的な交わりの中で、復活の力を与えられ、キリストの御心をますます強く、鮮明に実行できるようになることです。「キリストの内にある者として認められる」とは、救いが完成する日に、自分がキリストの内にある者として、キリストの御前に「現れる」ことです。
 従いまして、10節、11節で次のように言っています。
 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
 パウロはキリストに仕え、福音を語り、教会に仕えるための労苦を担い、キリストの復活の命に生かされながら、「キリストの死の様」に等しくなろうとしました。そのことによって彼は死人の中からの復活に達したいと切に願っていると言っています。

 しかし「愛の業の未完成」に関してなされたウエスレイとツィンツェンドルフとの対談がそのことをよく示しています。
 ウエスレイは「信仰による義」についてツィンツェンドルフから大きな感化を受けました。ツィンツェンドルフはギリシャ語の新約聖書の文章に節と章つけて、新約聖書を読みやすくした聖書学者でもあります。ウエスレイは「信仰義認」により、主イエスの愛がクリスチャンの中に働くから、クリスチャンはこの地上の生涯の中で既に愛の完成に至ると主張しました。しかし彼はこの点で多少不安を感じていましたので、ツィンツェンドルフに尋ねたのです。
 ウエスレイは「わたしはキリストの霊が本当のクリスチャンの中で働いて、クリスチャンに完成をもたらすと信じます。」と言いました。それに答えてツィンツェンドルフは言いました。「決してそうではない。わたしたちの完成はすべて、キリストの中にあります。キリストの血潮を信じることが唯一のクリスチャンの完成です。わたしたちはキリストにおいて完成している。わたしたち自身の中では決して完全ではない。」
 またウエスレイは尋ねました。「それでは本当のクリスチャンは清められているのではないですか。」、ツィンツェンドルフは「確かにそうです。しかし、彼はキリストにあって清い。自分自身の中では清くない。」と答えたのです。
 両者の会話はあくまで平行線を辿りましたが、ツィンツェンドルフの答えは明らかにパウロの生き方です。
 しかし、この点を説明する前にもう一つ別の新しい人間の生き方について、すなわち希望について知ることが必要です。

(4)希望に生きる在り方
 これはどういう意味かと言いますと、クリスチャンは今すでに聖霊を通して、キリストの復活の命に生かされています。しかし生まれながらの人間の身体は、まだ復活していません。
 信仰者がキリストとの完全な交わりに入れられ、自分がキリストの内にある者として認められるのは、自分が復活させられキリストの体のような霊的身体を与えられるとき可能なのです。これが最終的救いです。この時、クリスチャンは復活のキリストを「直接見る」ことができるのです。同時に、「自分の姿」がキリストの内にある者として「見える形」で現れます。その時、すべての者がキリストの内にある者として現れ、キリストの性質を映し出し、そこに愛と平和による大きな調和が実現し、共に神を賛美するのです。
 これが神の国の完成であり、すべての人間は名実ともに神の国の市民となります。すべての者がキリストの内にある者となります。
 この最終的救いは未だ地上に来ていませんが、クリスチャンは神の主権による約束が実現し、すべての人間が救われると「確信して」います。パウロは次のように言っています。
 「わたしたちは、このような希望によって救われています。--わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:24~25)
 それゆえ、最終的救いはまだ来ていません。クリスチャンはパウロのように切望しながら、「体の贖われる」ことを呻きながら、忍耐して待つことが重要です。
 従って、神がそれぞれのクリスチャンに与えられた人生の最後の日が訪れれば、主イエスが最後の息を引き取られた時、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)と言われたように、クリスチャンもそう言って生涯を閉じるのです。或いは、殉教したステパノのように、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」(使徒言行録7:59)と主イエスに祈って死ぬのです。
 このような希望の担い手であることが、新しい存在の働きです。それゆえ、「信仰、愛、希望」は聖霊により、主イエスと結ばれたクリスチャンの「新しい存在の三つの局面」です。しかしその中でも神への完全な従順である信仰によって、人は神の子とされ、新しい人間とされ、主イエスの内にある者として神の御前に生きるのです。

(5)後ろのものを忘れて
 最後に、パウロはキリストをますます深く知り、自分の体の復活を求めて、信仰の生涯を歩む姿勢を次のように表明しました。
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようとしているのです。自分がキリストに捕らえられているからです。--なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、--目標を目指してひたすら走ることです。」(3:12~14)
 これはどういうことでしょうか。後ろを振り向いた瞬間に、ランナーは脱落します。そのように、クリスチャンは自分が「どれだけ聖化され」、「キリストの完全な姿にどれだけ近づいたか」ということに関心を抱き、自分の状態を確認することが後ろを向くことです。パウロはキリストに従っていく者は後ろのものを忘れて、キリストに従い、前進すると言っています。
 主イエスが「施しをするときは右の手のすることを左の手に、知らせてはならない。--そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:3~4)と教えられたのは、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けている」というパウロの姿勢を意味しています。
 新しい人間の為す愛の業は主イエスの中に隠され保存されているのです。なぜならばクリスチャンの為す善い業は、すべて主イエスがクリスチャンの中に働かれることにより可能なのですから、すべては主イエスの内に「隠され」「保存されて」います。
 しかし、わたしたちが主イエスの命に生かされ実行する善き業は、「最後の日」に「わたしたちの業」となって現れるのです。その日に「主ご自身の働き」が「わたしたちの業」として認められるのです。それゆえパウロは次のように言っています。
 「わたしの愛する兄弟たちよ、こういうわけだから、動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励みなさい。主と結ばれているならば自分たちの労苦は決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(コリント一、15:58)
 パウロはわたしたちに向かって、「あなたがたはこのことを知っているはずです。」と言っています。
 このようにわたしたちもこのことを共に認識していることが特に重要です。わたしたちはそのことを自覚し、共に主イエスに従い、ただ一つの目標を目指して歩み、共に愛の労苦を担い、主イエスの復活の力を受けて、日々前進する者たちです。



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