2010-08-29(Sun)

喜び・祈り・行う 2010年8月29日の礼拝メッセージ

喜び・祈り・行う
中山弘隆牧師

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
詩編23篇1~6節

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
テサロニケの信徒への手紙一5章16~24節

(1)2010年度の標語とわたしたちの進路
 本日の礼拝は教会修養会にあたりまして、2010年度の標語につき、考えてみたいと思います。その標語は、「主にあって歩もう」であり、その副題は、「喜び・祈り・行う」です。この副題は標語の具体的な目標を提示しています。
 これからの三芳教会が、将来の展望を持つために、今なすべき最も必要なことについて、皆様とともに考え、共通した理解を持ち、目標に向かって進んでいく者たちでありたいと願っています。
 そのために、わたしたちは教会形成について、伝道について、そして奉仕について、今一度聖書に基づいて根本的に考え直す必要があります。ともすれば外面的な形や活動に関心を寄せてそうしているならば伝道ができると考えがちですが、大切なことは伝道の仕方より、伝道の霊的な力です。外面的な事柄に熱心であることよりも、2000年の歴史の変化と荒波を貫いて、存続し、その時代で活発な伝道を行い、絶えず霊的な生命を発揮してきた生ける教会に注目することです。そして生ける霊的な教会とは何か。そして教会に連なり、その伝道の業を担い、信仰を証してきた霊的なクリスチャンの喜びと確信が何か、ということを聖書に基づいて明らかにすることが何よりも大切です。
 霊的な意味での教会とは何であるか。その働きは何であるか。そこに連なるクリスチャンの生活と信仰の証は何であるか。最も大切なこの根本な的な霊的な事柄はすべてのクリスチャンに共通している事実です。従いまして、今必要なことはこの共通している霊的な事実を、教会員一人一人が理解し確信するようになることです。そしてその内容を一人一人が自分なりに、自分の言葉で言い表すことが必要なのです。そうするならばクリスチャンは自分なりに信仰を証しているのです。そうなって初めてに教会全体の伝道する力が湧いてきます。
 霊的な意味での教会とは何か。それは復活の主イエスの生命共同体であります。人類の罪のために十字架について死なれた主イエスを父なる神は復活させ、人類の救い主キリストとして立てられました。その結果、復活の主イエス・キリストは聖霊を通して、信仰者の中に、そして信仰共同体の中に臨在されています。そのようにして、クリスチャンを主イエスとの交わりの中で生かし、救いの完成へと導いておられます。この霊的な現実が教会なのです。霊的な現実とはこれ以外にはないのです。
 マタイによる福音書18:20で主イエスはこのように言っておられます。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 これが復活の主イエス・キリストの約束であり、主イエスはこの約束に基づいて、教会の中に臨在されるのです。ここには教会の大小の区別や差別はありません。二人または三人が主イエスの名によって集まるところが教会なのです。
 「主イエスの名」とは、生ける主イエスの存在と力と働きを意味しています。
 「集まる」ということは、第一に礼拝を意味しています。第二に共同体を意味しています。
 礼拝において、聖書の言葉を通して、聖霊を通して、主イエスはご自身を示し、ご自身の意志と性質を新しく啓示されるのです。礼拝者一人一人が生ける主イエスに直面し、主イエスは一人一人と出会われるのです。そのことにより、神の愛がわたしたち信仰者の心の中に注がれ、新たなる恵みがわたしたちの中に働くのです。その主の働きは、わたしたち信仰者の側の応答を引き起こします。
 主イエスの名とは主イエスの生ける現実でありますので、それは主イエスについての単なる知識と教理に対する信仰者の同意ではありません。それは日々新しく神としてわたしたちに出会われる主イエスであり、その都度わたしたちの新しい応答を引き起こされる方です。
 従いまして、生ける主に対してわたしたちが日々新たに応答しているかどうかがクリスチャンとして重要な事柄なのです。
 そこで重要なことは、わたしたちの応答は自分の意志や力ではできません。あくまでそれが可能なのは、わたしたちが「主イエスにあって」「主イエスに結びついて」という条件であります。
 「主イエスにあって」ということは、「主イエスが聖霊によってわたしたちの心の中に臨在され、わたしたちの中で主イエスが働き、ご自身の意志を知らせ、ご自身の命を与え、わたしたちが喜んで、自ら進んで、主イエスの意志を実行するように働かれるのです。」
 従いまして、わたしたちは主イエスにあって、神の御心を知り、主イエスにあって、感謝と喜びを持って、自発的に神の御心を実行するのです。
 次に、「主イエスにあって」ということは、聖書の御言葉を通して、主イエスがわたしたちと対面し、出会っておられ、わたしたちに使命を与え、実行すべき事柄を命令されるとき、実は主イエスはわたしたちの心の中に臨在しておられるのです。
 主イエスは十字架の死において、ご自身をわたしたち罪人のために与えてくださいました。このことにより、復活の主はわたしたちの心の中に与えられたのです。わたしたちは人格を持つ人間として、自己の判断と意志と行動との主体性を持っていますが、正にわたしたちの人間としての主体性の中に神の御子主イエスが与えられているのです。
 聖書の御言葉を読み、聖書の御言葉に聞き従うときに、実は主イエスがわたしたちに直面し、わたしたちに命令しておられるのですが、同時にわたしたちの心の中に働いておられるのです。
 この霊的な事実をわたしたち一人一人が自分の事柄として確信することが最も重要です。
 わたしたちの心の中に臨在しておられる復活の主イエス・キリストはわたしたちの土の器の中に盛られた「無尽蔵の宝」です。しかしこのことがキリスト教の教理としての一つの知識にとどまっているならば、折角いただいた宝はその値打ちを発揮しません。日々わたしたちが御言葉への応答を通して、祈りを通して、決断と、実行へと立ち上がり、行動することが必要なのです。キリストがわたしたちの心の中にインストールされていますが、それだけでなく、インストールされているキリストがわたしたちの心の中に働かれるようになるためには、わたしたちがキリストに応答することが必要なのです。

(2)恵みに応答する
 この恵みに応答することとして、非常に具体的に、喜び、祈り、実行をわたしたちは本当に自分のものとして体験し、各自の体験に基づいた理解をわたしたちが互いに共有しながら、教会形成と伝道、福音の証の使命に向かって日々前進する者たちでありたいと思います。
 先ず「喜び」とは、わたしたち一人一人が神様から愛されていることを知る喜びです。これは聖霊が主イエスの十字架の贖いを通して達成された主イエスの自己譲与により、神様がわたしたちを極みまで愛してくださっているということの感謝と喜びです。この喜びがわたしたちの心に満ち、わたしたちの人生のすべての日々を支えるのです。この喜びこそ、聖霊により、わたしたちの心の中に燃えている火であり、わたしたちの心に注がれる神の愛の働きです。

 次に、このようなクリスチャンは、神が日々わたしたちの祈りを主イエスによって聞きあげてくださることを確信しますので、日々神に祈る者であります。祈りにおいて必要なことは、主イエスにおける神への信頼と確信です。祈りが聞かれるという確信がなければたとえ敬虔な言葉による整った祈りであっても聞きあげられません。確信があれば、貧しい言葉の祈りであっても聞きあげられるのです。
 同時に、祈りにおいてわたしたちに出会っておられる神様の御心を知り、御心に沿った事柄を祈り求めることが必要です。神様の御心に沿わないことをいくら熱心に祈っても、その祈りは長続きしません。それでも信仰と信頼を持って祈っているならば、聞きあげられない事柄が、利己的な求めであることを知り、自分の思いを改め、神の御心に沿った事柄を祈るように導かれます。
 わたしたちは、自分たちに必要なことで、神様の御心に沿った事柄を信頼と確信をもって、忍耐強く祈ることが必要です。そうすることによって、わたしたちは目的を実現することができるのです。
 このことが「主にあって」祈るということに他なりません。

 次に、実行するとき、「主にあって」実行するならば、忍耐して実行することが必要です。困難な日々にも気を弱くしたり、あきらめたりしないで、動揺することのない、しっかりとした逞しさをもって不屈の精神をもって、実行することが必要です。
 ローマの信徒への手紙5:3~5でパウロは次のように言っています。
 「そればかりでなく、苦難を誇りとしています。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 クリスチャンの業は、主イエスがわたしたちの中に働き、ご自身の生命を与え、霊的な力を現してくださいますので、苦難を回避せず、むしろ苦難に雄々しく立ち向かう勇気が与えられるのです。その勇気は単なる強がりではありません。どこまでも、苦難に耐える勇気です。その忍耐が練達を生むとパウロは教えていますが、この「練達」というギリシャ語は、また「忍耐」とも訳せる言葉です。それは「しっかりとした逞しさ」、「堅固であり不変である心」、「不撓不屈の精神」です。そのような忍耐と不変不屈の精神を持って、伝道と教会形成に努めるときに、その目標が必ず実現するという希望が与えられるのです。
 パウロはその希望は決して失望に終わることがないと言っています。その根拠は、聖霊によって、心の中に神の愛が注がれているからであると強調しています。なぜならば、主イエスにある神の愛の働き、霊的な現実が常に忍耐と練達の中に力強く働いているからです。

 わたしたちは互いに主の御名によって、教会に集められた者たちです。教会の形成と伝道の使命と、クリスチャンとして現代の社会の中で、生活し、逞しく生きることによって、福音を証する使命を与えられています。
 先ず、一人一人が福音を証する使命があります。それは貧しさと困難な状況の中で、喜びを心に持ち、神の愛と霊的な力に溢れて、生活することです。そういう意味で、一人一人がキリストの手紙なのです。キリストはクリスチャンが豊かになり、豊かな生活をして、伝道しなさいとは命令されていません。
 むしろ、マタイによる福音書6:24で神と富の両方の主人に信仰者は使えることはできない、と警告されました。
 「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなた方は神と富に仕えることはできない。」
 現代社会は貧富の格差が拡大する傾向にあります。この傾向の中で、本当に希望を与えることは貧しさや様々な困難の中で、霊的な力と心のあふれ出る喜びと愛を持って、逞しく生きることです。正にこれがクリスチャンの証すべき事柄です。
 そこで、現代社会の中で、クリスチャンが確信すべき事柄は、神の摂理です。ハイデルベルグの信仰問答の中で、すなわち問27とその答えは次のように教えています。
 神の摂理は、神の全能なる今働く力であると言っています。神は天地の創造者として、すべての事柄を支配しておられる恵み深い父であります。「それゆえ、食べることも、飲むことも、健康も、病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からでなく、父としても恵み深い御手によって、われわれに来るのであります。」
 それゆえ、わたしたちは神の摂理に信頼して、貧しさの中で、逞しく、謙遜に、明るく、自由に生きることが信仰の証になります。
 さらに、クリスチャンの確信は、神の摂理は、万事を益としてくださることであります。ローマの信徒への手紙8:28でこのように宣言しています。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 クリスチャンの特徴はこの積極的で、明るい確信を自分の生涯を通して持っているということです。

 次に、教会形成と伝道の業は、わたしたちが神の愛に応答して、促されて、それゆえ、自ら喜んで、進んでするということです。自分の名誉のためでなく、自分の利益のためになく、人から強制されてするのではなく、キリストの愛に応えることが福音の伝道です。この点について、使徒パウロは自分の心境を証しています。コリントの信徒への手紙二、5:14~15で次のように言っています。
 「なぜなら、キリストの愛がわたしを駆り立てているからです。わたしはこう考えます。・・・・その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
 と言っていますように、キリストの愛に迫られ、駆り立てられて、キリストの福音を宣教しているというのです。これはパウロだけでなく、すべてのクリスチャンの生き方なのです。このことをクリスチャンが自分のこととして自覚し、実行することが教会の伝道です。
 最後に、このキリストの愛に応答することによって、伝道し、教会を形成することは、クリスチャンの共同の業です。共同の業を担い、忍耐し、練達し、希望を共有して、進んでゆく中に、キリストが臨在されるのです。
わたしたちが今なすべきことはこの希望と愛とを共有しながら、共同の業を担い、将来の教会の発展の基礎を作ることです。それは「霊的な財産」としての「生ける教会」を次の世代の人たちに手渡すためです。そして次の世代の新しい前進と発展に希望を託することです。そのために、わたしたちは共に喜びを持って、努力したいと願っています。

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