2014-02-02(Sun)

出会いの冒険 2014年2月2日の礼拝メッセージ

出会いの冒険
中山弘隆牧師

 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
ヨシュア記2章1~7節


 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
マルコによる福音書10章17~27節


(1)自分の行く道を選ぶ
 人との出会いは一生の方向を決定するほど強い作用を及ぼすことがあります。将来自分はどのような方向に進もうかと進路について思いめぐらしているとき、自分のしたいことがあっても、未知の世界に対する不安から決心がつかない場合に、たまたまその仕事をライフワークにしている人と出会って話したことがきっかけとなって、自分の行く道が決まることがあります。しかしそれはまた冒険です。特に、青年時代は何よりも人格が形成されるために大切な時です。真理の探究に対してチャレンジしながら、真理を学ぶ真剣な態度を身に着け、また他の人とのコミュニケーションの大切さを知り、人を人格として尊敬し、人々と協力する態度を培うことが重要です。
 そのためには人間に人格を与え、信頼に値する人格の麗しさや尊厳さを与えておられる神がおられることを知り、恵み深い神に対する信仰に目覚めることが必要です。そうするならば、毎日の生活の中で惰性に流れ、欲望に溺れることをせず、自分を成長させ、正常に成熟させるに必要な時を十分持つことができるでありましょう。
 それでは、人生の根本目標は何でしょうか。社会の中で名誉を受けるに相応しい仕事をし、職場で業績を上げ、収入を得て富を蓄積することでしょうか。健康的で、明るい家庭を造ることでしょうか。確かにこれは必要であり、幸いなことです。しかし、これらの価値は人生の根本目標とするには、あまりにも儚い夢に過ぎません。天下を取り、権勢を誇った豊臣秀吉の辞世の句は、「難波のことは夢のまた夢」でした。
 神によって創造された人間の心は永遠なるものに憧れます。旧約聖書のコヘレトの言葉3章11節で次にように記されています。
 「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。」
 このコヘレトの言葉は、恵み深い全能の神は、時と永遠の支配者であることを語っています。人間を創造し、救済される神の究極目的は人間に「永遠の命」を与えることであります。
 人間がこの世に生を受け、人間として成長し、社会の中で、色々な関わりをもって働き、人と共に生きるのは、それ自体が目的ではなく、その時宜にかなった働きの中で、永遠の生命を芽生えさせ、成熟させ、刈り取るための手段なのです。
 さらに、神は人間の心に永遠を慕う心を与えられただけではなく、人間の歴史と深く関わり、神は歴史の出来事を通して語られた御言葉によって、ご自身が恵み深い支配者であることを示されました。
 その中で人間の実行すべき神の命令を与え、神の国と永遠の生命を約束して来られました。それがアブラハムから始まった神の救いの歴史です。 
神はアブラハムに与えられた約束を忠実に守り、その約束を実現するために人類の歴史を導き、今や「時が満ちて」神の御子イエスをこの世界に遣わされたのです。

(2)主イエスとの出会い
 主イエスが弟子たちを伴って、町の表通りを進んで行かれましたとき、一人の青年が走り寄り、主イエスの前に跪き、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。
 この青年は実に見所のある青年で、自分の人生の意味を深く考え、永遠の生命を得ることを人生最大の目標にしていました。その真面目さと善良な性質が目に見えるような青年であったと推測されます。 
 主イエスは彼に向かって「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神お一人の他に、善い者はだれもいない。」(10:18)と仰せられました。このイエスの言葉に人は細心の注意を払う必要があります。
 つまり、人間にとって、「善なる者」は神だけである。実に神は人間を生かす命の源であり、人間に必要な善とは「神ご自身」であると言う意味がここに込められています。従って永遠の生命に至る人生を送るようになるのは、ただ神の恵みによるのだという意味です。
 同時に、主イエスは神の戒めであるモーセの十戒から次の掟を採り挙げられました。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』と言う掟をあなたは知っているはずだ。」(10:19)
 ここに戒めと永遠の生命との深い関係が示されています。両者は不可分離です。しかし、それは人間が神の戒めを実行するから、その報酬として永遠の生命を受けると言うのではありません。そうではなく、永遠の生命は神の恵みとして人間に無償で与えられるのです。そのようにして永遠の生命を与えられている者だけが、本当の意味で神の戒めを実行することができるのです。
 永遠の生命を得るために、戒めを実行すると言うのが律法主義で、それはファリサイ派や律法学者たちの生き方です。律法主義は神の恵みの性質と全く正反対です。
 この青年も律法主義の考え方をしていて、戒めを少年時代から忠実に守ってきました。しかし、自分にはまだ永遠の生命が与えられていないと感じ、この思いが彼を悩ませていたのです。しかしこの青年は自分の思いを正直にイエスに述べました。
 イエスは青年の正直さを認め、喜ばれました。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」(10:21)と記されていますが、この「イエスの眼差し」はいくつかの意味が込められています。
 一つは、そこに神の愛の訴えがあります。イエスは神の恵みに反抗する律法主義的な生き方をしてきた青年に憤りを感じず、むしろ深く愛しておられました。
 次に、イエスの眼差しには彼を人間としてより高い水準へと引き上げようとする励ましと挑戦が込められていました。それは人からの名誉を受け、自分の体面を繕うことだけで満足している平穏な生活から引き出し、神を信じて生きる真実な人間になろうとする冒険へと招く眼差しでした。
 ところで彼がこれまで生きていた信仰の世界は、律法主義的な世界でした。律法主義を要約すれば次のように言えます。
 それは人に害を及ぼさないと言う一言に尽きます。有名な律法学者ヒルレルについてこのような逸話があります。ある異教徒が彼のもとに来て、「もしあなたが、わたくしが片足で立っている間に律法のすべてを教えてくださるならば、わたくしはユダヤ教に改宗します。」と言いました。
 そこでヒルレルは「あなたがして欲しくないことを、人にもしてはならない。これが律法のすべてであり、あとはその説明である。あなたは行ってこのことを学びなさい。」
 多分、青年はこのような観点に立って行動して来ましたので、何のためらいもなく自分はすべての戒めを守っていますと答えたのでしょう。
 それに対して、イエスは黄金律と呼ばれている愛の戒めとして、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)と仰せられました。
 神の律法は、「あなたが人に自分のできる善を行ないなさい」と命じる神の意志です。この青年の場合に、神の律法の問いかけは非常に鋭い問となります。「あなたの所有する富を使用して、貧しい人々をどれだけ助けたか。貧しい人々を力づけ、励ますためにあなたの富をいかに用いたか。」と問うのです。
 ここで、イエスはさらに一歩を進めて、次のように仰せになりました。
 「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10:21)
 イエスはこの青年の欠乏の急所を見抜かれました。それは恵み深い主権者である神に対する信仰と理解が不足していたのです。
 彼は恵み深い神を自分本位に考えており、神の戒めを実行する者に、その報酬として地上では富を、そして神の国では永遠の命が与えられると思っていたのです。それゆえ将来、神の国における永遠の命を受ける確かさを得るために、今どのような神の律法を守ればよいでしょうかとイエスに尋ねたのです。
 それに対して、イエスは恵み深い神の主権は、そのような性質のものではない。恵み深い神は信仰者が自分の全存在を神に委ね、神の意志に従う人生を生きるようにしてくださるのです。
 従って、永遠の命とは神との人格的な交わりの中で生きる「霊的な現実」である。言い換えれば、永遠の命とは神の主権を信じる者の中に神ご自身が働かれることに他ならない。このことは巨万の富に勝る宝であると仰せになったのです。
 視点を変えて言えば、永遠の生命はすでにこの地上で始まっているのだと仰せになったのです。それゆえ永遠の生命に生きるために、あなたが頼りにしている地上の富をすべて貧しい人々に施し、わたしに従って来なさいと仰せられました。
 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10:21)と仰せられました。
 あなたが自分のすべてを神に献げ、「神にのみ」絶対的に寄り頼み、わたしに従って来るならば、あなたは恵み深い「神の主権」を体験するようになるであろう。神の主権はわたしの存在と歩みの中で開始していることが分かるであろうと、イエスに従うことを求められたのです。

(3)聖霊による信仰のジャンプ
 しかし、イエスの要求はこの青年の予想をはるかに超えて途方もないことのように思われ、イエスの仰せになった永遠の命は所詮、自分と縁遠いもののように思われ、顔を曇らせて、イエスの許を立ち去りました。10:22節には次のように記されています。
 「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
 この時、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」と嘆かれました。イエスはこの青年を評価し、愛し、期待をかけられたのですが、結果は失望と嘆きに終わったのです。
 その理由は青年がイエスの人格とその思いと行動の秘密を理解することができなかったからです。なぜならばイエスの思いと行動は神の思いと行動と一つになっている「神的な現実」でありますから、父なる神がこの青年の心に聖霊を与え、彼の心を照らされなければそれは理解できなかったからです。
 去りゆく青年を見送った弟子たちは「それでは一体だれが救われるのだろうか」と互いに語り合いました。
 このように驚く弟子たちを見つめて、イエスは断固とした態度で次のように仰せになりました。
 「人間に出来ることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(10:27)
 人間が神の恵み深い主権を信じ、神の救いを受けると言うことは、イエスにとって、人間の色々な思いや願いに妥協し、人間が納得するような福音を語ることではなかったのです。なぜならば、人間にとって自分たちの気持ちだけを満足させ、慰めてくれるような福音が語られるとすれば、それは神の国の福音でなくなってしまうからです。救い主としてのイエスの使命はあくまでも父なる神に従順であり、神の意志に従い、語り、行動することによって、恵み深い神を啓示し、神の主権がイエスを通して現れることでありました。
 それは福音を聞く人間の心に父なる神が聖霊を与えられることによって可能なのです。
 しかし、聖霊による信仰は決して難しい信仰ではありません。それは極めて単純な信仰です。からし種一粒のような信仰です。その単純な信仰を持って、人は心から喜んでイエスの語る神の国の福音を受け入れました。それはイエスにとっても実に驚くほどでした。
 異邦人の百人隊長がイエスのもとに来て、わたしの僕が中風で、ひどく苦しんでいます。「ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエスに懇願しました。イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことはない。」(マタイ8:10)と仰せられました。
 また、イエスが会堂で罪の赦しの福音を語られた言葉を信じた罪の女は、イエスがファリサイ派のシモンの家に招かれ、食事をしておられてとき、その場に入って来て、イエスの後ろに立ちました。イエスの足もとにひれ伏し、涙を流し、足に接吻し、自分の大切な財産である香油をイエスの足に塗りました。その時、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7:47)と仰せられました。
 
今日のわたしたちにとっても同様です。復活の主イエスは福音の言葉を通して、恵みの挑戦をもって聞く者たちと直面しておられます。そのとき人はイエスに従う人生の中に永遠の生命が働くことを信じるのです。それこそ聖霊による信仰です。



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