2014-01-05(Sun)

目標を目ざして走れ 2014年1月5日の新年礼拝メッセージ

目標を目ざして走れ
江田めぐみ伝道師

 犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。
詩編22篇17節 

 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
フィリピの信徒への手紙3章10~21節           

 新しい年を迎えました。皆さんは一年の抱負(目標)をたてられましたか。世の中は、景気低迷から少しずつ景気を取り戻しつつ、アベノミクスにおいて、当面は景気回復を再優先としていますが、それでも多くの人々が苦しい生活を余儀なくされております。そんな中でも新しい年を迎え、それぞれにどんな年にしようかと、希望を持って大きな夢に向かって、歩もうとしております。

 受験シーズンが近付いています。多くの受験生たちが、それぞれの目標の学校に向かって心を一つにして準備を続けていることと思います。受験には2月なり3月なり、試験日があって、その日に合わせて体力、コンディションを整えてゆくわけですが、人生には、そのようなラストスパートを何時かければよいのか、目標を定めるのはいつなのか、なかなかわからないようです。

 本日お読みいたしましたフィリピの信徒への手紙は、フィリピ教会の人たちに宛てたパウロの手紙です。この手紙は多分、パウロがローマの牢獄につながれていた時に、書いたものと考えられています。獄中書簡とも呼ばれています。このフィリピ教会とパウロとは深い関係がありました。フィリピ教会は、パウロの第二伝道旅行の際に建てられた教会です。そして、パウロがヨーロッパにおいて建てた最初の教会でもあります。従って、この教会は異邦人の多い教会でもありました。それにもかかわらず、この教会員たちは、パウロの伝道活動を支え、どんな時にもパウロを援助してきて、非常に密接な間柄であったのです。この手紙も、パウロの牢獄での生活が少しでも過ごし良くなるためにエパフロデトに金品を託して届けさせた事に対するお礼なのです。その礼状の中で、パウロは愛する教会員たちの信仰生活について励ましを与え、福音にふさわしい生活態度をとるようにと勧めているのです。
 キリスト者というのは、どういう生き方をしたらよいのか、私たち自身良く分らないのではないでしょうか。禁欲、謹厳、何か近寄りがたいものを考えたり、キリストは自由を得させるのだからと、自由奔放な生き方をしている人も、フィリピ教会にはいたようです。そんなことを伝え聞いたパウロは、何を準備して生きるか、と言う事を知る事なのですと言っているのです。

 パウロは、イエス・キリストによって救われる前は、熱心なパリサイ教徒でした。だから律法の知識を得ることと律法を守る事に特に命をかけて努力しておりました。ところが、キリストに救われてみて、そういう人間の力や業が、みんな空しいものであることが分かったと言うのです。それで、今までこの世を生きて行く上で、最も大切なものと思い、大切にしてきた律法の知識等を、今では「糞土(いやしむべきもの)」のように思うようになったと言っております。キリストを信じることによってキリストと一つになる時、私たちはキリストを死者の中からよみがえられた力を経験するのです。その同じ大いなる力は、道徳的に一新され再生された生活をおくることを助けるのです。活かし、新しい命の道を歩む前に、罪に死ななければならないのです。キリストの復活が、キリストのために生きるため、私たちにキリストの力を与えるように、キリストの十字架上の処刑は、私たちの古い罪深い性質が死んだ印であります。
 
 「私たちは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フリピ3:10-11)「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と、パウロは半信半疑や疑いをほのめかしていたのではないのです。パウロは自分がよみがえることを疑わなかったが、その到達は神の力のうちにあり、彼自身の力のうちではなかったのでした。主イエス・キリストを知り、獲得することはどんな効果をもたらすのか、またキリストへの信仰によって救われるとはどんなことなのか、説明されています。それは知ることであります。では何を知るかといえば、キリストの復活の力、すなわちキリストの苦しみにあずかることです。ですから、キリストを知るのです。
 「復活の力を知る」とは、キリストの復活に直接あずかる形での人間の復活は終末的な出来事であるから、今はキリストの復活の「力」、すなわち復活の効果を体験すると言う意味で言われているのです。キリストの復活への参与としての「死者の中からの復活」は、希望の対象として、なんとかして達したという願望形で願い求めています。また、知ることの対象として、「キリストの苦しみ」が掲げられています。ここでの「苦しみ」は、「苦しみへの参与」を知るとなっています。ですから、キリストの苦しみに、「あずかる」という形で知ることになるのです。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」(フィリピ3:12)ここで、パウロが使徒たちに意見していることは、これまでとは異なるもう一つの考え方を持つ人々を念頭において述べられたものと思われます。これまでは、救いの根拠を律法の厳守に求めようとするユダヤ主義者たちに反論をする教えを述べてきました。これからは、キリスト教生活の目標をすでに達成してしまっていると思いこんでいる人々を念頭において意見を進めています。
 「捕らえようと努める」姿勢は自分から生じるのではなく、すでに彼を捕らえているキリストから与えられるというのが、パウロの考えであります。
 そして、キリストに捕えられ、動かされている信仰者のとるべき姿勢は、競技場の走者であり、なすべきことはただ一つ、過去を振り向くことなく、目標を目指して前進し続けることであります。全身を向けつつという表現は、まさに全力疾走するランナーの、姿ではないでしょうか。走ると行っても、みさかいなく勝手に走るのではありません。しっかりとした目標を目指しての前進をすることです。つまり、到達点で授与されるはずの賞を得るための疾走です。この賞とは、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞なのです。
 キリストから 捕えられているが故に、捕らえようと努めているパウロは、神から上へと召されているが故に、その招きに応じて走り続け、神の備えて下さる賞を追い求めるのです。
 
 「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:15a)という表現は、パウロのことを指して言っていることであろうと考えられます。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」(フィリピ3:15b)「そのこと」は何を指すかはあいまいです。文脈からみれば、「完全な者」についての正しい見解であると思われます。または、「自分たちの考えが間違っているとの反省」と取ることも出来るでしょう。

 「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(フリピ3:16)「到達したところ」とは、目指してきた方向に基いて進むべきですということです。それは、自分は正しい路線を走っているのだ、というパウロの確信を示しています。それは、進む方向と道の正しさについて確信しているということです。時には、完全なクリスチャン生活を送ろうとすることが非常に難しく、疲れて落胆する場合もあります。
 
 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(フィリピ3:17)パウロは、自分の手本にならうことによって、キリストに似た者となることを追い求めなさいと、フィリピの人たちを促しました。パウロが人々に自分の模倣に倣うよう命じることができたことは、パウロという人物を証明しているのです。目標を目指して進むことがどのような生活を要求するものであるかを、それとは逆の立場を示しながら教えています。まだ達してしてはいないとの自覚のもとにひたすら走り続ける姿勢と、パウロの路線に沿って、同じ方向を目指して走る点であるのです。

 さらにパウロは、「何度も行ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者がおおいのです。」(フィリピ3:18)と、この世のことしか考えていない人々の誤った考え方に対して、キリスト者の抱くべき正しい考え方を述べています。
 「涙ながらに言いますが」とは、声をあげて泣き叫んでいるという姿で、十字架の敵をみて 感じる心痛な激しさが感じられます。「キリストの十字架にて敵対して歩む」とはどういうことでしょうか。それはキリストの十字架(神の恩恵)にではなく、律法の決まりに救いの根源を求める人、既に得た、完全になったと、うぬぼれて前進しようとしない人、キリストの復活にあずかるかたちでの復活に目を向けない人、この世のことしか考えない人々のことであります。パウロにとっては、「十字架につけられたキリスト」こそ救いの源、救いの根拠であるのです。

 「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:19)彼らは腹を神としの腹を、食物とか、食物規定とか広く欲望とからみる解釈があります。ここでは、この世のことと理解し、そういう事柄に救いの神として頼ろうとする愚かなことを、パウロが戒めていると考えるのが道理にかなっているのではないでしょうか。恥ずべき者を誇りとしということも同じことが言えます。

 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)信仰者の(国籍)は、目に見える世界を越えたところ、すなわち天にあるということです。しかし、天そのものが究極の到達点とされているのではありません。そこから来られる救い主キリストが、待たれているのです。パウロは、キリストの十字架以外に救いはないと主張し続けているのです。
 救い主キリストを待つということは、すでに得ている、完全になっていると考える人々の姿勢とは正反対の態度であります。このキリストは、万物を支配下に置くことさえできるお方であり、その力によってわたしたちの体を、御自分の栄光ある体と同じかたちに変えて下さるのです。「わたしたちは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」(フィリピ3:10)というように、そこでは、キリストの死と同じ形にされ、その死の姿にあやかりながら、と同じ語が用いられていても、一方はキリストの死に、もう一方はキリストの復活体に関連づけられています。
 「キリストの体と同じ形に変えられる」ということは、11節の「死者の中からの復活に達する」という表現と同じ内容を意味しています。

 わたしたちも、この世の様々な業の中に望みを抱いております。その営みによってこの世の生活が楽しくなったり、物理的に豊かになったり、他者に語れる喜びを持ったりします。
 しかし、その生活を充分果たすことが目的になっていていいのでしょうか。
 パウロが「律法による自分の義ではなく」と言っているように、自分は正しく律法を守る力があると神に対して正しさを主張するのではなくて、「キリストを信ずる信仰による義」という、キリストが十字架で罪人のために死んで救いを与えて下さったのだと言う事。私たちは本当は、罪人として死すべき人間なのに、キリストが私たちの身代わりになってくださり、そのことによって、正しい人と認めてくださっているのだ、と言う事を知る事が根本なのです。だから自分に力があったり、偉かったりするのではなくて、キリストがそうして下さっているのだと言う事を知る事が大切なのです。9節の「キリストのうちに自分を見いだす」と言う事は、キリストと共に在る自分、キリストによって平安を与えられ、生かされている自分を発見することが、キリストに救われる事なのだと言っているのです。そして、それはキリストの復活の力を知る事なのです。罪の中にあると言う事は、死ぬことなのです。罪と死の中にあった私たちが、キリストと共に、古い罪の自分を十字架で滅ぼし、そういう古い自分が死んで、新しい命に生きる者とされるのが、復活の力に与ると言う事なのです。
 「死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)とヨハネは言っています。このことによって私たちは、この世の生だけが人生で、その先は真暗闇と言うような人生ではなく、神の賜物として永遠の命を与えられた者となったのです。ですから、私たちが救われたという事は、神さまの賜物であることを忘れてはならないのです。私たちが救われてクリスチャンになったという事は、このような素晴らしい恵みの中にあるのです。

 救われた者の信仰生活と言うと、私たちは立派なクリスチャンの生き方を、自分たちもしなければならないと思います。しかし、そういう事を自分ができないと、ダメなクリスチャンだ,と思ってしまいがちです。しかし、完全な姿の証し人などは、イエス様以外にはいないのです。ですから私たちはむしろダメでいいのです。
 ですから私たちはイエス・キリストと言うお方にすがり、このイエス・キリストを追い求めて生きて行くのです。けれども追い求めたからと言って、完全なものになどなる事はできません。この世の様々な醜い出来事の中にかかわり、苦しさや、悲しみの中で、自分の弱さに苦しみながら、キリストを追い求めているのはなぜかと言うと、私たちは、キリストに捉えられているからなのです。ですからこの苦しみの中にあっても信仰を捨てないんです。自分の力によるのではなく、キリストの力によるのです。それは、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだをのばす」ようにして目標を目指して走る事なのです。
 その目標と言う事は、キリストが向けてくださった救いの完成という方向に向かって歩む事です。そのためには、後のものを忘れて、ひたすら前を見つめて走らなければなりません。
私たちの人生は失敗だらけです。いつも、過去のことや、失敗にとらわれていては前進できないのです。これは失敗を恐れず生き生きと行きなさいと言う事です。そして、やがて終わりの日に、神のみ前に立つ時、神さまから賞与を与えられるために、完成を目指してかけてゆくのが、クリスチャンの信仰生活なのです。それは現実の生活の場で証ししてゆくことでもあるのです。 証しとは、自分の生きざまを見てもらう事ではないでしょうか。

 私たちは、自分の力には何一つ誇るものもなく、弱さを自覚する時、ただひたすらにキリストに依り頼むことができるのです。
 新しい年を迎え、この三芳教会でも、一人一人小さく弱いものたちです。けれども、全能者キリストを知ることにより、私たちの人生の価値基準をイエス・キリストにおいて一歩一歩、歩んで、しっかりと立って信仰生活を続けて行きましょう。



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