2013-12-22(Sun)

御子はなぜ人となられたか 2013年12月22日クリスマス礼拝メッセージ

御子はなぜ人となられたか
中山弘隆牧師

 それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み。その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7章14節


 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書1章1~18節


(1)インマヌエル
 本日わたしたちはクリスマスの喜びを共にしながら、礼拝を守っています。クリスマスの人智をはるかに越えた恵みの根本は「インマヌエル」であります。
 イエスの誕生を巡って、マリアと婚約をしていたヨセフは処女マリアの身に起こった不思議な受胎に衝撃を受け、ひそかに離縁しようと決心したのですが、主の天使が告げました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20~21)
 さらにマタイによる福音書はこの出来事こそ預言者イザヤを通して主が語られた「インマヌエル」の成就であると言っています(マタイ1:23)。この「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味のヘブル語です。
 実に、主イエスは神である御子がマリアより人間性を取り入れ、「人間となられた神」なのです。この事実によって、イエスは人間として「わたしたち人間」と「共におられる神」なのです。
 他方、旧約聖書の民イスラエルも「神われらと共にいます」と信じていました。しかしそれは本当の意味でのインマヌエルではありません。なぜならエルサレムの神殿の至聖所の中に安置されている「契約の箱」はその中に十戒を刻んだ二枚の石の板が収められておりましたが、それは神が「民の間」におられることの象徴でした。
さらに契約の箱の蓋は金で出来ており、その上の空間が「贖罪所」と呼ばれ、そこに神が「黒雲」の中で臨在される「聖なる場所」でした。従って、これは空間的な意味で神の民との関わりです。
 また神殿を建立したソロモン王は、神は天にいます「超越者」であり、またどこにでもおられる「遍在の神」であるゆえ、民がどこからでも「エルサレムの神殿に向かって」祈るならば、神は天にあって、その祈りを聞き上げてくださると言っています。
 このような事情を考慮しますと、イスラエルの「民の間」に神が共におられると言う信仰は、神ご自身が民の存在と深く関わる仕方で共におられると言う意味でないことが分かります。

(2)神である御子が人間となられた神秘
 従いまして、わたしたちの「人間存在」すなわち人間の思いと言葉と行為の全体を含めて、人間の性質と深く関わる仕方で神が共にいますという意味での「インマヌエル」は、世界の万民の中でただ一人イエスの人格の中に実現しました。言い換えれば「神であり」同時に「人間である」イエスの人格そのものが「神われら人間と共にいます」という霊的現実なのです。
 本日のヨハネによる福音書1:14はこのことを証しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
 言葉は神の自己伝達であり、言葉は神である「御子」なのです。それに対して「肉」とは「霊である神」とは本質的に異なる「人間」を意味しています。
 1:14は「言(ことば)が肉となった」と告白しています。言い換えれば「言(ことば)の受肉」を証しているのです。神の御子である「神の言葉」が「人間イエス」となったと言う意味です。
 しかし、それは人間イエスが神であることを廃止したと言うのでは決してありません。そうではなく人間イエスは「同時に」神なのです。旧約の預言者たちは、聖霊を通して神の言葉を語りましたが、それに対して、「イエスご自身」が「神の言葉」なのです。
 それゆえ、神が人間となられたインマヌエルの第一の目的は、神がご自身を人間に完全に示されることです。
 この点に関してイエスはヨハネの福音書14:9で次にように仰せられました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」
 わたしたち人間はイエスを見ることによって、神を見ることができるのです。その深い理由をイエスはまたヨハネによる福音書14:10で次にように証しておられます。
 「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」このように御子イエスはご自身の人格と性質を通して、父なる神をわたしたち人間に示されました。ここに神の啓示があります。
 さらに、ヨハネによる福音書1:14は次のように証しています。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 ここで「恵み」とはギリシャ語で「カリス」と言いますが、それは「憐れみ」または「無償の好意」と言う意味です。すなわち、それを受けるに値しない者に示される神の好意なのです。
 次に、「真理」とは神がご自身の性質に対してどこまでも忠実であることを意味しています。
それゆえ言(ことば)が受肉した「イエス自身」が神の恵みと真理なのです。

 また1:14は「わたしたちはその栄光を見た。」と証しています。この意味は次のように説明できます。
 神の御子イエスは自己の栄光を求めず、ひたすら父の栄光の現れることを求め、ご自身は貧しい、飢え渇く、弱い、さらに知識においても制限を持つ人間でした。その中で父に対する従順を全うされたのです。
 人類の罪を贖う父の目的に従って、十字架の死を自ら引き受け、ゲッセマネの園での祈りによって父から霊的力を受けられたので、イエスは人類の罪を贖う使命をまっとうされたのです。
 実に、父と御子イエスとのこの親密な関係、父と子との親密な交わり、それと十字架の死に至るまで父に従われた御子の従順こそ、「御子イエスの栄光」なのです。
 しかし、御子の栄光は聖霊の働きを心に受けて、聖霊によって心を照らされた信仰者たちだけが見ることのできる栄光です。
 そのようにしてイエスの栄光を見た者たちが第一にイエス・キリストの使徒たちであり、第二に使徒的な教会であります。それゆえ彼らは共に「わたしたちはその栄光を見た」と証言しているのです。

 讃美歌256番1節は次のように主イエスの恵みを賛美しています。
 「まぶねのかたえに われは立ちて、 受けたるたまもの ささげまつらん。命の主イエスよ、わが身も心も とりて祝したまえ」
 さらに5節では主イエスの栄光を称えています。
「この世の栄えを 望みまさず、われらに代わりて 悩みたもう。
 とうとき貧しさ 知りえしわがみは いかにたたえまつらん。」
    
(3)神と共にいるわれら
 次に、父なる神はイエス・キリストを死人の中から復活させ、天地の主とし、神の国の支配者である救い主とされました。
 それゆえ、主イエス・キリストは「救い主」であると同時に「救いそのもの」となられたのです。そこには深い理由があります。それは主イエス・キリストご自身が人間に対する「神の自己譲与」であるからです。それは次の三点です。
 1. 地上におけるイエス・キリストの生涯が「神と共なる人間」すなわち「神の子たちとしての人間の歩み」であることです。
 2. 父なる神は人類の罪を贖われた「イエス・キリストの存在と人格の中」に「新しい人間」を創造されました。そして新しい人間を「神の子たち」とされたことです。
 3. イエス・キリストが主となられたことにより、聖霊が教会に与えられました。教会を構成する一人一人のクリスチャンの存在と心の中に聖霊が与えられました。この聖霊の授与により、復活のイエス・キリストは「ご自身を人間に譲与」されたのです。
 それゆえ、神の子たちとされた新しい人間はその存在と命を「自分の中」にではなく、「イエス・キリストの中」に持っているのです。従いまして聖霊の働きによって、イエス・キリストと結ばれて生きるのです。この点に関してガラテヤの信徒への手紙2:20で、使徒パウロは次のように証しています。
 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

 それでは「神と共なるわれら」とはどういう人たちでしょうか。それは主イエス・キリストによる神の救いを受領する人たちです。その救いは最終的な救いの段階と、それ以前のいわば最終的な救いの先取りの段階、この二つに分かれています。
 最終段階の救いとは、例外なくすべての人間が救われ、死人の中から復活し、主イエスと共に永遠にいることです。主イエスが再臨され、すべての人間を復活させ、すべての人間をご自分の性質に似る者へと変貌させてくださるのです。
 この根拠は実に、主イエスの十字架の死が全人類の罪の贖いであったからです。
 しかし贖われた人間はすべてキリストにあって神の内に隠され、保管されておりますので、それは救いの最終段階で出現します。
 それゆえ最終段階ではすべての人間がキリストに似た者となって出現するのですから、その姿と性質は以前の本人とすっかり変わっており、神の国でお互いに出会っても 最初は誰であるか分からないくらいに聖化されています。
 しかし、本人はそのことを熟知しており、共に神の救いに入れられたことを喜び、神を賛美します。

 しかし救われる人々はそれだけではありません。救いの先取りの段階にある人々がいます。聖書を読んで、主イエスの言葉や使徒たちの言葉を通して、復活の主イエスと出会い、信じる人々です。
 神が罪人を贖い、キリストにおいてすでに新しい人間としてくださり、その新しい人間がキリストの内に隠され保管されている「霊的現実」を聖霊による信仰をもって認識しキリストに従う人々です。
 それが歴史の時間の流れの中で、「神と共なるわれら」として生きることです。
 最後にクリスチャンの信仰の生涯を正確に表現すれば、次のように言えます。聖霊を通して、復活の主イエス・キリストがクリスチャンの中に臨在し、クリスチャンの生涯の中でキリストは地上でのご自身の一回限りの歩みを再現されることです。
 なぜならば、キリストの地上における一回限りの生涯が恵みと真理とに満ちている「永遠」の霊的現実であるからです。実にイエス・キリストが死人の中から復活し、名実ともに救い主となられたのはこのためです。
 それゆえ、復活の主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰でも父のもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書13:6)と仰せられます。
 従って、主イエスはわたしたちが永遠の国に向かう「歩むべき道」でありますので、主イエスご自身が一回限り通られた地上での足跡を、クリスチャンは踏みしめて行く必要があるのです。しかし形式的に主イエスと同じ歩みをすることは不可能であり非現実的です。それは自分たちの置かれている現代の状況に適した仕方で歩まなければなりません。だがそれは可能です。
 なぜならば、主イエスにおいては、ご自身の地上での一回限りの歩みと、クリスチャンがそれを新しい仕方で再現する歩みは本質的に結びついているからです。
 ところで、わたしたちの人生は有限です。なぜならば神の御子である主イエスは大工として、教師として、ユダヤ人のメシアとして三十数年の有限の人生を歩まれたからです。
 確かにクリスチャンの生涯は貧しさと人間的な制限と弱さの中にあります。例えて言うならば、それは「土の器」に過ぎません。しかし土の器に「宝を盛る」ように、キリストが御言葉と聖霊とを通して日々クリスチャンと出会い、クリスチャンの日々の歩みの中に働かれるのです。
 それゆえ、わたしたちがキリストの思いと働きを聖霊による信仰によって認識し、わたしたちも自分で決断し、行動するとき、わたしたちの歩みの中で主イエスの恵みと真理が働くのです。使徒パウロの言葉で表現すれば、主イエス・キリストの義と命と自由がわたしたちの歩みの中で働くのです。
 「神われらと共にいます」という主イエス・キリストによって、「神と共に歩むわれら」としてのわたしたちの固有の生涯が与えられているのです。この幸いをわたしたちは感謝し証します。
 「とこしなえの御言葉は 今ぞ人となりたもう。待ち望みし主イエスの民よ、おのが幸を祝わずや」(1篇讃美歌111番4節)
 わたしたちもこの幸いを感謝し、共に神を賛美しましょう。



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