2013-12-15(Sun)

歴史の中に神が介入される 2013年12月15日の礼拝メッセージ

歴史の中に神が介入される
中山弘隆牧師

 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
イザヤ書40章3~11節


 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
マタイによる福音書13章16~17節


(1)歴史を開く神の言葉
 いよいよ次週はクリスマスを迎えることになります。本日はクリスマスが、神の救いの歴史の中で、いかに大きな意味を持っているかを旧約聖書の預言を通して、知る者でありたいと願っています。
 キリストの到来を預言しているイザヤ書40章から55章までは、今日の聖書神学によりますと、預言者イザヤではなく、彼より約200年後に活躍した無名の預言者によって語られたと見られています。便宜上その無名の預言者は第二イザヤと呼ばれています。
 当時イスラエルの有力者や技術を持つ者たちおおよそ4000人がバビロニア帝国に強制移住させられ、約80年もの長い間、異教の地で過ごすことを余儀なくされました。第二イザヤが活躍した時期はイスラエル民族の捕囚の最後の約15年間であったと推測されています。
 この時期に彼は預言者として召命を受けました。このことは40:6~8から読み取ることができます。
 「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う。何と呼びかけたらよいのかと。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。」
 彼は「呼びかけよ」と言う神の声を聞き、「何と呼びかけたらよいのか」と神に尋ねています。
 彼は自分については少しも語らない預言者ですが、ここだけは唯一の例外で、「わたしは言う」と自分について証言しています。これは彼が神の召命に応答したことによって、預言者として立てられたことを表しているのです。
 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」という言葉は、神に比べて人間の弱さ、はかなさを表しています。特にこの場合はイスラエルの民の悲惨な状態を表しています。祖国滅亡により拠り所を失った民は意気消沈のどん底にありました。
 しかし、神は「草は枯れ、花はしぼむが、わたしの言葉はとこしえに立つ。」と、語られました。
 肉なる人間は弱く、有限で、最後は滅びる運命にありますが、それとは正反対に、神は全能で、永遠に存在し、すべてのものを決定する力を持っておられる方です。
 神の言葉は世界の状況がどのように変化しようとも、不変であり、すべての時代を貫いて働き、それを成就する力を持っています。それゆえ神は「わたしの言葉はとこしえに立つ」と仰せられるのです。
 第二イザヤの時代は、アラブ世界の時代が終わりを告げ、ペルシャ世界の新しい時代が開始する歴史の大きな転換期でありました。そこにおいて、時代の方向を決めるものは神の意志であり、神の言葉でありました。
 このことは今日のグローバル時代にも通用します。人間の未来はすべて神の御手の中にあるのですから、神に信頼し、御言葉に聞くときに、わたしたちの未来が開けるのです。

(2)赦しの時
 それでは、第二イザヤの預言の内容は何でしょうか。
 「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」(40:1~2)
これは第二イザヤの預言の始まりであり、天上における主なる神ヤーウェの御前会議の光景を示しています。
 ここで神の重大な決断が下されているのです。神の計画において、審判の時は過ぎ、今や赦しの時が到来したのです。しかしそれだけでなく、神が最初から計画しておられた究極的な救いを与えると決意し、直ちにそれを実行すると神は御言葉をもって語られたのです。
 ここで預言者はイスラエルの民が「罪のすべてに倍する報い」を受けたと言っていますのは、量的に見て、罪に対する二倍の刑罰を受けたと言う意味ではありません。ここではイスラエルは自分たちの罪のために十分すぎるほどの苦しみを受けたが、今やもっとそれ以上の慰めを受ける時が来た、という意味です。
 ところで第二イザヤにおける「慰めの時」とは終末論的な新しい時代の開始の時であり、それは二つの事柄を意味しています。
 一つは捕囚の民イスラエルがペルシャ帝国の王キュロスによって解放され、祖国に帰還することです。
 もう一つは人類に対する神の究極的な救いとしてキリスト到来の預言です。この二つが二重写しになって神の究極的な救いの内容となっています。


(3)新しい選び
 次に、第二イザヤが預言した究極的な救いは人類の救いという普遍的内容を持っています。
 出エジプトの時は、その出来事を通して、イスラエルが「神の民」として選ばれたという画期的な内容を持っていました。そこに神の栄光が現れました。
 しかし、今回は神に背き、神を捨てたイスラエルが贖われ、民の罪が赦され、「再び」神の民とされるのですから、神の救いはイスラエルに限定されることはありません。今回のそれほど深い神の愛は当然「全世界の民」に向けられているのです。
 「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:5)
 ここで、「主の栄光」の現れを「肉なる者は共に見る」と言っている点が特に重要です。これは「すべての人間」が神の栄光を見るという意味です。ここに神の究極的な救いの普遍性があります。
 以前のイスラエルの歴史を顧みますと、歴史の転換期に神は栄光を現し、幻もってご自身を現わされた神の顕現が数多く見られます。
 最初の神の顕現はアブラハムに対してです。「主はアブラハムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』」(創世記12:7)。
 また燃える柴の炎の中でモーセに現れました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。--神は続けて言われた。『わたしは、あなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」(出エジプト記3:4~6)。
 さらに神はシナイ山において契約を結ばれたイスラエルの民に現れました。「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」(出エジプト記24:11)
 最後に預言者アモス、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが召命を受けたときに、それぞれ神の栄光の幻を見ています。
 それに対して第二イザヤがここで預言している「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。」という内容はこれまでイスラエルの歴史の中で見られた神顕現のシリーズに属しているとは言えないのです。
 正にこれは神がご自身を現わされる終末的で決定的な、世界的な顕現が語られているのです。イスラエルだけでなく、万国の民が共に神の顕現を見るという内容です。
 
(4)神の直接的な統治
 次に第二イザヤの預言は神の終末論的な救いとして、神の直接的行為と支配を語っています。
 「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。--主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ40:10~11)
 これまで神はイスラエルを治める者としてダビデ王朝を起し、ダビデは神に従い、神から与えられた務めを忠実に果たし、羊飼いが自分の羊を養うようにイスラエルの民を守り、導き、統治しました。
 しかし今や、神ご自身が人間の歴史の中に入って来られ、人間の罪を贖い、人間を直接的に統治されることを御言葉によって啓示されました。このことの実体は歴史の面で言えばペルシャの王キュロスによるイスラエルの民のバビロン捕囚からの解放であり、人間の存在と内面に関して言えば、イスラエルの神、歴史の支配者である主を信じる者に「聖霊」が与えられるということです。
 言い換えれば、神は人間を罪の束縛から贖い、聖霊を人間に授与することによって、人間が神を知るようになり、神に対して絶対的に依存し、自ら進んで神の意志と命令に従うことを喜びとする新しい人間としてくださるのです。
 聖霊の授与については、44:2~3において「恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。--あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」と主は仰せになりました。また罪を赦されたイスラエルは祖国に帰還し、神の民として歴史的に新しく形成されるという神の救いについて、神はそれを実現する手段としてペルシャの王キュロスを興し、彼に油を注いだと仰せになったのです。
 従いまして、キュロスによる解放と聖霊の授与が終末論的な新しい事柄なのです。それゆえ主は48:6で「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。」と仰せになりました。
 この二つのことは神の意志決定として、間もなく実現すると神は仰せになりました。それは人間がこれまで一度も体験しなかった事柄、想像さえしなかった全く新しい事柄なのです。それは本質的に、神の良き知らせとして、全人類に告げられるべきものなのです。これが「福音」です。「良い知らせを伝える」と言う言葉は、第二イザヤが好んで使用しました。またこの言葉は新約聖書では「キリストの福音」と呼ばれています。

(5)苦難の僕
 最後に、第二イザヤの預言の中で一番重要なのは「苦難の僕」に関する言葉です。「主の僕」は終末論的な新しい時代に登場し、人類の罪を贖い、異邦人を神の契約の民に加える働きをするという預言です。それは52:13~53:12で語られている「苦難の僕」の歌です。
 「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちは平和が与えられ 彼の受けた傷によって わたしたちは癒された。」(53:5)
 「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。」(53:10)
 実にこの預言は主イエスによって成就しました。それゆえ「苦難の僕」の歌は「キリスト預言」として最も重要な神の言葉です。
 しかしそれは神の御子がマリヤから人間性を自らの内に取り入れ、まことの人間となられたイエス・キリストが第二イザヤの預言をどのように読み、理解し、実行されたかに一切がかかっています。
 言い換えれば御子イエスが「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコによる福音書10:45)と仰せられたのは、第二イザヤの「苦難の僕」の預言を神の言葉として聞き、自己の使命を父なる神が示されたものと理解されたからです。その確信に基づいて、人類の罪を贖うために十字架の死を全うされたのです。
 イエス・キリストの十字架の死により第二イザヤの預言は実現し、同時にその預言は神の言葉となったと言えます。なぜならば、第二イザヤの預言全体を詳しく読めば分かるように、また彼の神学を理解するならば明らかのように、彼は「苦難の僕の使命」は一人の個人ではなく、イスラエルの民に与えるものと考えていました。
 さらにイスラエルの伝統的な考えによれば、「苦難の僕」と「メシア」とは同一人物ではなかったのです。実に、神の御子イエスが苦難の僕とメシアは「ご自分の使命と運命」を表していると理解し、苦難の僕として十字架の死によって人類の罪を贖われてことにより、御子イエスは名実ともにメシアとなられたのです。そしてメシアとなられた御子イエスが神の国の統治者となられました。
 さらに、旧約聖書では預言者の語った言葉が神の言葉であるか否かの判断の基準について、申命記18:22は以下のように教えています。「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。」
 確かに神は人類救済の目的と計画を第二イザヤによって予告されました。しかしそれは第二イザヤ自身が考えたようにではなく、実に彼の預言を神の御子イエス・キリストが自己の使命を示す神の言葉として理解し、使命を果たされたことの中で、神の栄光が現れたのです。
 それゆえに、クリスマスの夜、羊飼いたちが聞いた「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2:14)と歌った天使たちの歌声は、神の御子イエスの降誕を神の栄光の顕現としてたたえています。
 わたしたちも天使と共に、イエスにおける神の栄光の現れを心から賛美しましょう。



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