2013-10-20(Sun)

世に勝つ者 2013年10月20日の礼拝メッセージ

世に勝つ者
中山弘隆牧師

 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
創世記32章25~31節


 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
ヨハネの手紙一 5章1~12節

(1)世を支配する力
 この世界に平和がいつまでたっても来ない原因は、争いと暴力が憎しみと復讐心を生み出し、それがまた争いと暴力をエスカレートさせるという悪循環を繰り返すことです。さらにその奥には利己主義と他を支配しようとする野望が働いています。
 大江健三郎氏は次の時代を担う中高生のために書いた「新しい人間の方向に生きる」と言う本の中で、「イジメにあって悩んだり、苦しんだりするときに、イジメや嫉妬はマイナスのエネルギーで、そこからは何も生産的な力は湧いてこないということを弁えると、それが苦にならなくなる。人は何かを生み出すプラスのエネルギーを持つものに向かって、努力していかなければならない。」と語っておられます。
 このことを良く考えますと、わたしたちは自分の持っている時間や命を闇の力に支配されて、マイナスの方向に用いるか、それともそれに打ち勝って建設的な方向に用いるかが、実に自分の人生の歩みを意義あるものとする上で、重要な問題となります。

(2)闇の力に勝利する
 闇の力は人を惑わし滅亡をもたらしますが、他方人を教え生かす力は愛です。人を愛することは闇の力に打ち勝つことであると言えます。もちろん人を殺す愛もあります。それは利己的な愛で、ストーカーを働くような自己本位の愛です。
 神様が人間に命じられる愛は、自分を愛するように他を愛することです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)という一句によって、神の戒め全体は全うされると聖書に書いてあります(ガラテヤ5:14)。
 これは自分と同じように他を愛するという意味です。ところで自分を愛するということは健全な人間の心です。それと同じように他を愛することが闇の力に打ち勝って生きることなのです。
 しかし、自分が一番可愛いから、人から自分に良くしてもらいたいので、人に良くするのだという人がいるかもしれません。人に良くする、人に自分のものを与えるということは、そこに肯定できる積極的な働きがあります。しかし動機が甚だ疑わしい場合には良くないと言えます。
 神が人間に命じられることは、自分と同じく他を愛することでありますので、そこに共同で何かを造りだすという積極的で前向きの生き方があります。

(3)愛することは可能か
 しかし、実際問題として、人は自分と同じように他を愛することが可能であるかという根本的な問いがあります。アダムにおいて神に背いた人間は、原罪を身に負っている存在でありますので、他の人を自分のように愛そうと努力しても、不可能であるという厚い壁に突き当たってしまいます。
 それゆえ、主イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」という旧約聖書の戒めを新しい神の戒めとするために、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言い直されました。 
 ヨハネによる福音書15:12で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と弟子たちに仰せになっています。
 正にここに愛の可能性が主イエスによって提供されているのです。クリスチャンはこの主イエスが与えられた掟を「自由の律法」と呼んでいますが、その理由は主イエスがわたしたちを愛してくださったという事実に基づく命令であるからです。
 それは真の愛が主イエスにおいて現されたという歴史的で霊的な事実です。真実な愛とは何か、それは自己愛であるか、それとも他を愛する愛であるかという議論がありますが、それが抽象的な議論である限り、いくら議論を重ねても実行することは不可能です。
 従いまして、「神の本質は愛である」ということは聖書的な言い方であり、このヨハネの手紙一は「神は愛だからです」(4:8)と言っています。しかし、その逆は成り立ちません。なぜならば「愛は神である」という言い方は抽象的であるからです。それは愛という概念が初めにあって、その概念に人間も神を当てはめようとしているからです。
 わたしたちにとりまして、この世に打ち勝ち、そこに命があり、隣人と兄弟たちと共に生きることを可能にする愛とは、さらにその愛を実践することは、「その本質が愛である神によって生かされる」ことに他なりません。
 従いまして、現代カトリックの代表的な神学者であるカール・ラーナーは「人は他を愛する愛の実践において、そのような愛の可能性、保証、根源として神を体験し、理解する」と述べています。
 これは実に的を射た深い洞察であると言えます。

(4)永遠の命
 従いまして、ヨハネによる福音書、そしてこのヨハネの手紙は福音を「永遠の命」という視点から語っています。つまり、信仰者が「永遠の命に生きる」という視点から語っています。
 ヨハネの手紙一は1:2で次のように言っています。
 「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証し、伝えるのです。」
 ここで「永遠の命」とは人間を本当の意味で生かす「霊的な命」であり、それゆえ人間を永遠に生かす命なのです。正にその永遠の命は神と共にあるのです。永遠の命は神が所有しておられるのです。
 言い換えれば永遠の命とは生ける神の「現実」なのです。この永遠の命は、この世界から出た命でもなく、人間が自分で所有している命でもありません。しかし今や永遠の命を神は主イエスを通して与えられるのです。
 この世界に人間が登場し、文化が始まった有史以来、すでに約一万年も経過していますが、イエス・キリスト以前にはまだ永遠の命は人間に与えられていませんでした。それは神の御子イエス・キリストがこの地上に到来された時から現れたのです。
 福音の素晴らしさは正にこの点にあります。人間を本当の意味で生かし、かつ永遠に生かす永遠の命が主イエスによって、主イエスにおいて今や啓示されたのです。
 それゆえ、神から永遠の命を受けるのは、主イエスを信じることによるのです。なぜならば神は主イエスを通してご自分が真の神であり、この世界と人間の恵み深い唯一の統治者であることを表されたからです。神が人間をご自身との人格的な交わりに入れることを欲し、そのためにご自身が人間と深く関わってくださったからです。 
 神との交わりの障害となっている人類の罪を贖うために、神の御子イエスは十字架の死の犠牲を全うされました。死に至るまで従順であった御子イエスを父なる神は復活させ、天地の支配者とされました。この神の御子、主イエス・キリストを信じる者に、神は永遠の命を与えられるのです。
 さらに1:3でこのように言っております。
 「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
 ここで主イエスを信じる者は神との人格的な交わりに入れられることを表しています。
 信仰者はその信仰によって、父なる神と御子イエス・キリストとの人格的な交わりに入れられ、そのことを通して、永遠の命が信仰者の中に働くのです。
 同時に、これまでアダムの子孫であった者が、「イエスはキリストである」と信じることによって、神の子となるのです。この点に関して、本日の聖書の箇所5:1は次のように宣言しています。
 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」
 ここでメシアとはヘブル語ですが、ギリシャ語ではキリストです。つまり、十字架の死を全うしたイエスを「キリスト」(救い主)と信じる者はだれでも「神から生まれた者」すなわち「神の子」になったという意味です。
 勿論、神の御子イエス・キリストは本来的に神の子でありますので、ヨハネの手紙ではギリシャ語で「フィオス」すなわち「息子」という言葉を使用し、クリスチャンが神の子であるのは「テクノン」「子供」という言葉を使用して両者の違いを明示しています。
 それにしましても、クリスチャンは「神の子」の性質を「潜在的に所有している新しい人間」に生まれたのです。
 5:1~5では、信仰、神の子たち、愛の実践、この世の誘惑に対する勝利が簡潔な言葉で一つにまとめられています。内容の面で言えばパウロの福音と同じですが、その表現の仕方の面でヨハネの手紙の特徴が表れています。
 要するに、神から生まれた信仰者は、アダムの子孫としての人間ではなく、神の子たちであるということを非常に重要視しています。
 なぜならば神の子たちの特質は、「神を愛すること、神の掟を守ること、それゆえ信仰者は特に互いに愛し合い、さらに隣人を愛することであるからです。」
 ここで注目すべき点は、3節で「神の掟は難しいものではありません」という言葉です。
 なぜならば神から生まれた子たち、すなわち新しい人間は神の掟を実行する力が与えられているので「実行可能」であるからです。
 もちろん、完全に実行できるという意味ではありませが、不完全であるにしても現実的に本当の意味で実行できるというのです。ここに福音の力が顕れています。
 ところで、信じること、神の子としての新しい人間になること、キリストとの人格的な交わりを持つこと、愛を実行すること、互いに愛し合うこと、これらすべては不可分離に結びついています。
 なぜならば、それらは皆聖霊の働きによっているからです。それゆえ、聖霊の働きとしての信仰について、ヨハネの手紙が5:1で特に強調している理由があります。
 それは何かと申しますと、ただ神を信じるというだけではなく、「イエス」を神の御子メシアとして信じることなのです。
 原始キリスト教の信仰告白は、イエスを「主」と告白することでした。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
 これがキリスト教の中心的な信仰告白です。しかし、ヨハネの手紙が書かれた西暦125年ごろになりますと、異端の問題が発生しました。ここでヨハネが対決している異端は「キリスト仮現説」と通常呼ばれています。
 その異端の教えは「神の御子キリスト」とマリアから生まれた「人間イエス」とを人格的に区別する見方です。神の子としてのキリストはイエスが十字架に架けられたとき、イエスを離れて天に昇り、残されたイエスだけが死んだという見方です。従って神の御子としてのキリストはただ人間イエスの姿を取って仮に現れたという仮現説です。
 このキリストではなく、ヨハネの手紙の信じる救い主は「御子イエス・キリスト」であり、十字架について死に、復活して神の右に坐し、父なる神の栄光と力を譲与された方です。
 それゆえヨハネの手紙は、イエス・キリストは「水と血とによって来られたのです」(5:6)と言っています。
 そしてこのことを証する方は聖霊であると言っています(5:8)。
 
(5)最後の勝利の確信
 最後にヨハネの手紙は、世に打ち勝つ者とは誰かという問いを出し、それは神の御子イエス・キリストを信じる者である。その信仰によって、神の子として生まれた新しい人間である。神から生まれた者は、神の掟を守る力が与えられていると、答えています。
 従って「あなたがたは闇の力に勝利することができる」と力強く励ましています。
 ところで、現在におけるキリストとの交わりは、復活のキリストの姿を目の当たりにすることができないので、わたしたちはキリストの性質と栄光の一部分しか理解できないという制限があります。
 しかし復活のキリストは、神としての働きにより、直接わたしたちの心に語り、ご自身を示し、霊的生命に満ちた交わりを与えてくださいます。このことにより最後の勝利が確信できるのです。
 宗教改革者マルティン・ルターは、クリスチャンは心の底から明るく笑うことができると言いました。最終的な勝利がキリストにおいて与えられていることを確信しているので、現在どのような悪魔の攻撃にさらされていようとも、クリスチャンは笑うことができると言いました。ここに確信のもたらす喜びがあります。



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