2013-09-22(Sun)

聞かれる祈り 2013年9月22日の礼拝メッセージ

聞かれる祈り
中山弘隆牧師

 さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
サムエル記上1章9~18節


 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
マルコによる福音書11章20~25節

(1)祈りの力
 本日の聖書の箇所は、わたしたちに祈りについて教えています。祈りはクリスチャンの生命線であるとよく言われますが、ともすればわたしたちは祈ることを忘れており、またその場だけの形式的な祈りになりがちです。このような熱くもなく、冷たくもない中途半端な信仰の状態はいけないと、わたしは自分自身を顧みて思うのですが、そこから脱出方法は何でしょうか。最も効果的な方法は、祈りが必ず聞かれると言う信仰による確信ではないでしょうか。
 わたしは東京教区の西南地区の委員をしていましたとき、中高生のワークキャンプで、浜松にある聖隷社会福祉事業団に属する浜松十字の園に行ったことがあります。
 「十字の園」は日本で最初に設立された特別養護老人ホームです。そこには120名の病気を持つ高齢の方々が入居されていました。脳卒中の後遺症、動脈硬化症、脳軟化症、老人性痴ほう症などのために半身不随、言語障害などに苦しみ、常時介護を必要とする人たちであります。入居しておられる方々は介護、診療、看護、リパビリテーションを通して、職員との温かい人間関係の中で、とても明るく過ごしておられます。
 わたしたちは廊下のワックスがけや庭の草取り、ごみ置き場の掃除などの作業をしながら、入居しておられる方々と交わりの時が与えられ貴重な体験をさせていただきました。
 また信仰にしっかりと立って、事業を推進しておられる人たちから、創立者たちの熱い祈りと深い愛について教えられましたので、非常に大きな感動を受けました。
 ドイツの「母の家」から日本に派遣されたデアコニッセであるハニ・ウォルフさんが、近所の寝たきり老人の訪問看護を続けておられて、ホームの必要性を痛感されました。当時、聖隷福祉事業団の理事長であった長谷川保先生に、「これからは神様がホームを造るように命令しておられるのです。さあやりましょう」と決意を促されたことがその発端でした。
 そのために祈り、ハニ・ウォルフさんはドイツに行って献金を集め、聖隷福祉事業団は土地を無償で提供して、ホームが建設されました。その後、福祉関係の人たちが十字の園を見学に訪れ、日本でも方々にホームが造られるようになり、ようやく法律も整備されたのです。このような開拓者たちの献身と努力は、まことに神の愛に押し出されたものであり、祈りの力の現れです。
 十字の園の入り口には、「夕暮れになっても光がある」と刻んだ石が庭に置いてあります。これは口語訳聖書の旧約聖書ゼカリヤ書14:7に「そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これは昼もなく、夜もない。夕暮れになっても、光があるからである。」という御言葉の引用です。
 実に人生の夕暮れを迎えても、神の永遠の恵みの中で、明るい希望をもって過ごすことができると言う意味で、この御言葉はホームが存在する意義を示しています。

(2)信頼して神に告げる
 主イエスは弟子たちにこのように言われました。
 「神を信じなさい。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:22~24)
 このように自分の祈りがかなえられると確信して、祈ることが大切であると言われますと、わたしたちはどうのように考えるでしょうか。それは何が何でも自分の祈りが叶えられると強引に思い込むことでしょうか。もしそうだとすれば宝くじが必ず当たると思い込んで、宝くじを買うのと似たものとなるでしょう。主イエスはそんな意味でこのように仰せになっているのではありません。
 先ず、祈りで問題になることは、わたしたちが求める事柄の一つ一つではなく、わたしたちの祈りの対象である神がどういう方であるかと言うことです。
 祈りとは、人が祈る場合に神が本当に存在するかどうかを議論するのではなく、祈ることによって実際に生ける神ご自身と関わるのです。わたしたちは自分の目では見ることのできない神に対して祈る場合、決して空虚な壁に向かって自分で独り言を言っているのではありません。
 実に隠れた所におられ、わたしたちのすべてをご存知である神と対面しているのです。そして神はわたしたちが祈る事柄をご自分の問題として受け止めてくださいます。その上で神様の判断によって一番善いようにしてくださるのです。なぜならばいかなる場合でも神の御心が行われることが人間にとって最良の道であるからです。
 ラザロの姉妹であるマリアとマルタは、ラザロが重い病気を患ったとき、イエスのもとへ人を送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(ヨハネ11:3)と伝えました。
 その理由は、姉妹たちがこの重大な人生の危機を主イエスに伝えさえすれば、主イエスが最善の方法で助けてくださることを知っていたからです。

 事実、イエスはラザロの病気をご自身の事柄として受け止め、神の栄光が現れるためにラザロの死後四日経過してから、姉妹のもとに到着されました。待ちわびたマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。
 そのとき、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。このことを信じるか」と仰せになり、ラザロの墓に行って、墓の入り口を塞いでいた石を取りのけさせ、天を仰いで父なる神に祈り、既に死んでいたラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。するとラザロは復活しました。このようにして神は主イエスを通して、マリアとマルタの祈りに答えられたのです。
 ここで重要な点は、主イエスが神の御心を知って、御心に適うことを祈られたからです。従いまして、わたしたちがどうしてよいか分からない難しい問題に遭遇して、最も肝要なことは、神を信頼して、すべてを神の御前に差し出すことです。さらに何よりも自分自身を神に差し出すことです。
 その際に必要なことは、神に対するわたしたちの信仰と信頼です。主イエスはあるとき、弟子たちに向かって「人にできることではないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」(マルコ10:27)と語られましたが、それは父なる神に対するイエス自身の信仰と信頼を言い表しています。
 ゲッセマネの園で、イエスは「アッパ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と必死になって祈られました。
 そこには父なる神へのイエスの徹底した信頼と従順があります。また、父なる神と主イエスとの間に神の愛による親密な交わりと一致があります。
 この主イエスの気持ちが分かるようになることがわたしたちの祈りに必要なのですが、それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。実にそれは、生ける真の神がわたしたちの主イエス・キリストの「父」であることを知ることです。
 神はわたしたちを罪の束縛から解放し、神との人格的な交わりの中で、永遠の命に生かすために、神の御子イエス・キリストを犠牲として十字架の死に渡されました。
 これほど大きな犠牲を払ってくださったのは、わたしたちに対する神の愛がどれほど大きいかを示しています。この愛は神が良き賜物をわたしたちに与えてくださると言う程度とは比較にならないほど大きいのです。すなわちそれは神がご自身をわたしたちに与え、わたしたちの存在と心と行為の中で神として働いてくださることです。言い換えれば、聖霊をわしたちに与え、聖霊を通して主イエスがわたしたちの中に臨在し、わたしたちの中で働いてくださると言う途方もなく大きい神の恵みです。
 それゆえ、神はわたしたちの祈りを必ず聞き上げてくださるのです。祈りが聞かれるのは、決して自分たちの功績によるのではありません。主イエスが聖霊を通してわたしたちの中に臨在しておられるからです。
 要するにキリスト教の祈りは、神の御子であるイエス・キリストの父に向かって「我らの父よ」と呼びかけるのです。キリストを通して「わたしたちの父なる神」となってくださった神に祈るのです。そしてわたしたちの祈りを神が聞き上げてくださると言う信仰を持って祈るのです。

(3)聖霊による祈り
 また、この祈りは聖霊がわたしたちの祈りを支えてくださっていると言えます。わたしたちの祈りを支え、聖霊が父なる神に執り成しの祈りをしてくださるのです。そのことにより、聖霊の思いがわたしたちの中に働きます。
 一編の讃美歌308番は、「祈りは口より、いでこずとも、まことの思いのひらめくなり。祈りは心の底にひそみ、隠れる炎の燃え立つなり。」
 このような心の閃きと炎とは、聖霊によって主イエスの思いが閃き、神の愛が心の中で炎のように燃え上がり、聖霊によって信仰が強められ、心が強められ、神の意志を知り、神の意志を実行して生きるということを表しています。
 このことにより、聖霊の働きは祈っている間だけでなく、つねにクリスチャンの中に働き、聖霊を通してクリスチャンが自分の中で働いておられる主イエスの思いを熟慮し、神の御心をはっきりと知るようにし、神が自分に命じ、それを為させようとしておられる神の御心が分かるようにしてくださるのです。そこからクリスチャンは行動へと送り出されるのです。
 それゆえ聖霊による祈りは、クリスチャンが自分の中に住み、働いておられる主イエスの思いと行動を熟慮し、認識し、それに従って行動すると言う主イエスとの人格的な交わりへ移行していきます。それが聖霊の執り成しの祈りに支えられ、聖霊の導きに従って生きるクリスチャンの生き方です。そのような生き方の一つの局面をパウロは次にように言っています。
 「肉ではなく、霊によって歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:4~6)
 「肉」と言うのは、生まれながらの人間が自分の思いと力で自己実現のために生きている生き方です。
 「霊」というのは聖霊のことです。「霊に従って歩む者」とは「聖霊の思い」を規範と力として考え、行動することです。しかし、聖霊の働きは抽象的な道徳的原理や力という漠然としたものではありません。それは明確な人格を持っています。その人格とは主イエス・キリストに他ありません。
 主イエスの思いと行動とその性質を考えて、主イエスを知り、主イエスが今わたしたちに何をするように命じておられるかを理解し、そして主イエスの義と命と自由をわたしたちの中に受けて、主イエスに従い行動することが、霊に従って思い、霊に従って行動すると言う意味です。
 ここで、聖書は「霊の思いは命と平和である」と言っています。主イエスのことを考え、それを実行するために、熟慮し、理解し、判断し、決断し、忍耐をもって行動し、わたしたちの行動を通して、主の御心が実現されると信じ続ける過程が命と平安であると言うのです。そこには神から与えられる心の平安と喜びがあります。

(4)一人一人の魂を求められる主イエス
 福音の伝道とはわたしたちが日常接している一人一人が主のものとされるために、福音を語り、その人のために祈ることです。
 しかしそれだけではありません。そのことを通して、十字架の死によってご自身を罪人に与え、復活の命を与えることによって新しく生きるようにしてくださる主イエスご自身が、一人一人を探し出し、出会い、聖霊を与え、信仰を与え、その魂を捕らえようとしておられるのです。
 それゆえ、神からわたしたちに与えられた使命は、一人一人のために祈り、自分自身も福音に生かされていることを確認し、福音を証することです。
 それゆえわたしたちは、知人、友人、家族など身近な人たちが自分から主を求め、主に心を開き、神の愛を知り、主イエスの中にある自分を生かす「命に溢れた霊的現実」に目が開かれるように祈り、配慮し、仕えることです。
 このことが地域に置かれている教会の使命です。神様はわたしたちにその使命を果たすようにしてくださると信じて、祈りつつ、互いに努力してまいりましょう。



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