2013-09-15(Sun)

神の愛 2013年9月15日の礼拝メッセージ

神の愛
中山弘隆牧師

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
ホセア書11章1~9節


 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15章11~24節


(1)人格的な神と旧約聖書の契約
 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼らを導き出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。」
(ホセア11:1~2)
 神がイスラエルを選び、ご自身の民とされたのは、先ずイスラエルに神と共に生きる生き方を教え、さらにイスラエルを通して全人類に神と共に生きる生き方を教えるためです。神の究極的な目的はすべての人間が神との人格的な交わりの中で生きることです。
 このような神の遠大な計画を実現するために、神はイスラエルを先ず選び、ご自身の民とし、神と民との関係を契約によって設立されました。それではどうして神と人間との関係を設立するために、「契約」が必要なのでしょうか。
 それは同じ生き物の間でも、人間は特別に「人格」を与えられているからです。創世記で「神は御自身にかたどって人間を創造された。」(創世記1:27)と言われていますが、これは人間が人格を持つ者として造られたと言う意味です。人間は動物と違って、自分の良心と理性を持っており、すべての事柄を自分で理解し、判断し、自分の意志で行動する者であり、それゆえ自分で責任を持つ者です。
 神様がイスラエルと契約を結ばれたのは、神と人間との関係は決して自然的な運命的なものではなく、人格的な関係であることを示されたのです。
 神がイスラエルをご自身の民とされたのは、神の愛に基づく神の自由意志による選びであります。従ってイスラエルが神の民となったのは、神の選びを感謝して受け入れるイスラエルの人格的な承認によって成立しました。従って、一旦契約が成立した以後は、神とイスラエルの双方には契約を忠実に守る責任が生じたのです。神はイスラエルに対して神の側の責任を忠実に果たし、イスラエルの側でも民としての責任を忠実に果たす生き方をするはずでした。
 それゆえ、神はイスラエルを神の子として取り扱い、親が幼子を育てるように、神と共に生きる人間の生き方を教え、導き、守り、必要なものをすべて人間に与えられて来ました。実に神の側は契約に対して常に忠実であったのです。
 「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らを癒したことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。」(11:3~4)
 神はイスラエルの歴史を通して、愛の絆で教え、支え、守り、癒し、導いて来られました。この契約に対する神の忠実さを理解し、イスラエルも契約を忠実に守り、神に従う生きかたをする責任があったにもかかわらず、イスラエルは責任を果たさなかったのです。 
 理由は神がイスラエルを人格的な相手として取り扱いて来られた神のすべての導きが、神の「無償の愛」によることをイスラエルが本当に理解していなかったからです。イスラエルは神の心を理解できていなかったゆえに、自分の利己的な利益や欲望を追求し、神に従おうとはしませんでした。
 これは実に契約を結んだ相手に対する不信行為であり、民の側から契約を破棄したのと等しいのです。もちろん、イスラエル自身は契約を自分に与えられた特権と誤解していましたので、自分で契約を破棄したとは毛頭考えていませんでした。しかし契約を忠実に守って来られた神を裏切ったと言う事実は厳然としてそこに横たわっていました。
 預言者ホセアはイスラエルの背信を知って驚き、契約を破棄したイスラエルに対する神の審判は最早避けられなくなったことを知り、イスラエル滅亡の預言をしました。

(2)民の罪を贖う神の愛
 他方、ホセアはそのとき民に裏切られた神の心が怒りに燃えていることが分かったのですが、それ以上に神の愛は深いことを知らされたのです。それは彼の妻の裏切り行為に出会った時のことです。
 ホセアの妻ゴメルはもともと娼婦の気質をもった女性でした。この女性と幸福な結婚生活をして、三人の子供が生まれたのですが、その後ゴメルはホセア以外の男性を慕い、ホセアのもとを立ち去りました。しかし、しばらくするとゴメルは情夫に捨てられ、奴隷の悲惨な境遇の中にありました。
 ホセアは妻の裏切りに対して激しい怒りを覚える半面で、なおゴメルに対する憐れみとゴメルを見捨てることはできないと言う愛情を感じたのです。しかし、彼はそのようなゴメルを愛することは、自分の価値が下がるように思われ、ゴメルを愛そうとはしませんでした。そのとき、神は次のように仰せになりました。
 「行け、夫に愛されていながら、姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干し葡萄の菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(3:1)
 ここで「主」とはイスラエルを選び、契約を結ばれたイスラエルの神であり、主とは「主権者である神」と言う意味です。
 この御言葉を意訳しますとこのようになります。
 「ホセアよ、お前を捨てて情夫のもとに立ち去ったゴメルを愛し続けよ。お前は愛することが許されている。お前は彼女を愛さねばならない。全く同じように、わたしはイスラエルを愛している。」
 そのとき、ホセアはゴメルに対する彼自身の「愛の神秘的な強制力」を知りました。その愛に促されて、ついに不忠実な妻ゴメルを奴隷の状態から身代金を払って贖い、家に連れ戻したのです。
 この体験を通して、ホセアは背信の民を贖われる神の無限に深い愛を熟慮することができ、神の愛の圧倒的な力を知らされたのです。
 神はその愛の強制力を「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。----わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」(11:8)と仰せられました。
 ここに神がイスラエルに対する契約の愛のレベルを遥かに越えて、背信の民イスラエルを愛しておられる神の「無条件の愛」の力が語られています。
 「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」(11:9)
 このように仰せられる神の無条件の愛の深さ、高さ、大きさを知って、ホセアは神が必ずイスラエルを贖われることを信じたのです。

(3)放蕩息子の譬え
 旧約聖書の時代のイスラエルに与えられた古い契約が、背信の民イスラエルの罪が贖われ、「古い契約の成就」としての「新しい契約」に更新されたのは、実に主イエス・キリストを通してであります。
 従って、新しい契約の民は決して罪のない者になったのではなく、罪人であるままで、神によって和解させられた者たちなのです。さらに、キリストによって神と和解させられた者とはイスラエルだけでなく、異邦人も含まれています。それゆえ、新しい契約の民はキリスト教会なのです。
 それでは神がキリストを通してご自身と和解させられた罪人とはどういう者たちなのでしょうか。一口で言えばそれは心を入れ替えた者です。この点に関して、キリストは一つの譬え話をされました。
 悔い改めた放蕩息子が父の家に戻ってきたとき、父は喜んで迎え入れ、改めて「養子」として取り扱い、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って祝宴を開いたと言う内容の譬え話です。
 息子は自分の権利を主張して、父親から相続することになっている財産の自分の分を受け取り、家を出て遠くの地で自分の欲するまま放蕩な生活をしました。金を全部使い果たしたとき、その地方で飢饉が起こり、彼はある主人の農場で豚を飼う仕事をしましたが、主人は冷酷な人で、彼はその日の食べ物に事欠く悲惨な状況に陥りました。
 こうなって初めて、父親の使用人に対する公正で恵み深い態度を思い起こしたとき、父親に初めて尊敬の念を抱くと同時に、自分は父親の温かい愛を裏切った罪深い者であることに気付いたのです。生涯の中で初めて良心に目覚め、自分の姿を反省したとき、利己的な自分の中に何の正しさもないことがわかり、自分は父親の子と呼ばれる資格のないことを知るに至りました。
 他方、父は憐み深い人であることが身に染みて分かり、父親のもとに帰って、使用人の一人として、置いてもらいたい、そのようにして父親に仕えることが自分にとって一番幸せであるという明確な考え方をするようになりました。
 今や放蕩息子の心は以前とは全く入れ替わったのです。自分ではなく、憐み深い父に信頼を置き、父親のもとに帰り、自分自身の欲望ではなく、父親の考えに従う新しい人生を歩みたいという心に入れ替わったのです。その一途の思いをもって家に帰る一大決心をしました。しかしこの心の変化が可能になった最大の原因は、憐み深い父親が放蕩息子を既に赦していたことです。
 父親は息子が帰ってきたことを喜び、迎え入れました。そして、ぼろを身にまとっていた息子に、晴着を与えました。さらに指に「養子の身分」を表す指輪をはめました。
 この譬え話の中の「晴着」は、神と和解させられた罪人に与えられる主キリストの義と命と清さを「象徴」しています。無条件の愛をもって受け入れられた神の前に、罪人はそのままの姿で立つことはできません。なぜならば神は愛であると同時に、聖なる方、義なる方であるかです。それゆえ神と和解させられた人間にはキリストの義の衣が与えられ、その人は「義の衣」を身にまとって、神との人格的交わりに入れられるのです。
 自己中心的であり、自分の力を頼って生きようとし、自己の正しさを誇っている高慢な思いと態度を捨て去り、自分の罪を自覚し、自分の中に正しさは皆無であることを認識し、最早自分自身に頼らず、無条件の愛によって、罪人を赦し、罪人を受け入れられる神を信じ、すべてを神に依存し、神に仕えることを唯一の願いとし、喜びとする「心」を持つことが、神と和解させられた人間なのです。
 しかし、罪人がそのような従順な心を持つことができるのは、神の側ですでに究極的で最早撤回不可能な罪の赦しがあるからです。それが主イエス・キリストの十字架の犠牲による罪の贖いによる基づく赦しです。さらに心を入れ替えた人間が神の子として神との交わりの中で生きるために必要な義と聖と命を、神様は主イエス・キリストの中で既に備えてくださったのです。
 そのように入れ替わった心と、神様が与えてくださる義の衣を身にまとっている罪人が神の新しい民なのです。

 古いイスラエルは自分自身を頼りとして、自分の力で義を達成し、救いを獲得しようと志していました。実は、その思いと生き方が神の愛を知らず、神に敵対することでした。それは神を知らず、異邦人が様々な罪を犯し、神に敵対していたのと根本的には同じであり、その点、ユダヤ人と異邦人とは何ら変わらないのです。
 従って、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、自分自身に寄り頼み神に反抗していた者が、悔い改めた放蕩息子のように神のもとに立ち帰るならば、神と和解された人間として、神との人格的な交わりに入れられます。
 イエス・キリストの譬え話で、放蕩息子が父の家に帰ってくることができたのは、無条件の愛をもって父親が息子の帰るのを待っていてくれたからです。すでに放蕩息子を赦し、晴着と指輪を用意して、息子を養子にする備えをしていてくれたからです。
 それゆえ、神は御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪人の神への帰還が可能となる道を備えておられます。
 すなわち、イエス・キリストは神の無条件の愛をもって、ご自身を人類と連帯化させ、人類のために罪の告白をし、その責任を取って罪の結果である死を引き受け、死を通して神への従順を全うされました。この結果、神は決定的に永遠に罪人を赦されたのです。そして罪人が神と共に歩むために必要な義と聖と命をキリストによって与え、和解された罪人がそれを使用することができるためにキリストの中に保管しておられるのです。
 このようにしてキリストの愛による犠牲の死が、罪の赦しを与え、罪人が抱いている神に対する敵意を取り去るとき、人は利己的で、自分の力を頼りに生きている高慢な思いを捨て、悔い改めた放蕩息子の心を持つようになります。ところで悔い改めた放蕩息子の心とは実は主イエス・キリストの心なのです。
 しかし、わたしたちはクリスチャンになっても依然としてわたしたちの中には罪が働いています。それにも拘らず、今や神と和解させられているので神は常に罪の赦しをもって出会ってくださいます。ここにクリスチャンの喜びと将来に対する確かな希望があります。
 つまり、それは神と和解させられた人間が「キリストにあって」生きることです。「キリストと結ばれて」生きるのです。



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