2013-09-01(Sun)

キリストの弟子の歩み 2013年9月1日の礼拝メッセージ

キリストの弟子の歩み
中山弘隆牧師

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31章31~34節


 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
マタイによる福音書10章16~25節


(1)キリストに従う者
 わたしたちクリスチャンの生活を端的に現す言葉は何でありましょうか。それは主イエス・キリストに従う生き方であると言えます。
 わたしたちは人生のあるときに、イエス・キリストに出会い、視点を変えればイエス・キリストがわたしたちを探し出されて、「わたしに従って来なさい」と呼びかけられましたので、それ以来キリストに従う者となっています。
 信仰生活の長い人生を歩まれたある方が、わたしは主に忠実でないことがしばしばある者ですが、主はわたしに対して常に忠実な方ですと言われたことは、今でもわたしの心に刻まれています。
 これがわたしたちクリスチャンの共通した認識です。わたしに洗礼を授けてくださった名古屋の金城教会で50年間牧会伝道された樋田豊治牧師は、わたしは信仰の訓練を主イエス・キリストから受けて、多くのことを学んだことは何ものにも代えられない感謝です、と言われました。また、顔をほころばせ、主はこれまで多くの素晴らしいことをわたしにしてくださった。これからもどんなことをしてくださるかと思うと、胸が膨らむ思いがする、と喜びながら言われたことを今でも思い出します。
 確かにクリスチャンは皆主イエスに従って自分の人生を歩んでいる者たちです。わたしたちの先に立ってわたしたちを導いておられるイエスに従い、イエスに見習っている者たちです。こういう面からすれば、「主イエスに見習う」ということが最も重要な視点になります。
 プロテスタントの自由主義的神学が栄えた19世紀には、イエスは父なる神に絶対的な信頼を置き、神の愛を完全に実行された方として、イエスの信仰と愛に見習うということがクリスチャンの生き方であると、盛んに主張されました。
 その一方で、イエスがクリスチャンの罪を贖う救い主であるという点が、実践面では軽視されるかあるいは殆ど忘れられていたことが問題であります。そこに自由主義的神学と信仰の弱点がありました。
 主キリストはクリスチャンにとって見習うべき教師であると同時に、自分たち人間の罪を贖うことによって新しい命に生かす救い主です。このことを信じるのがキリスト教の信仰です。 
 キリストの使徒たちは、キリストの弟子としてキリストとの師弟関係にありましたが、同時にキリストは彼らの主であり、彼らの神でありました。つまり、弟子たちにとってキリストは主であり、教師であるという二つの関係において、キリストに従って行ったのです。

(2)特殊な師弟関係
 それゆえ、主キリストとわたしたちクリスチャンの師弟関係は、一般的な師弟関係ではなく、全く特殊な関係なのです。
 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ10:24)
 普通の師弟関係であれば、良くできた弟子は師にまさることがあります。「出藍の誉れ」と言う言葉がありますが、藍から採った青色は藍より青いので、師から学んだ高弟が師を越えると言う例えです。
 それに対して、主キリストは「弟子は師にまさるものではなく、師のようになれば、それで十分である。」と仰せられます。
 つまり弟子は師にまさることはないと言うのです。しかし、師のようになる可能性はあるのです。しかも師のようになれば十分であると言うことは、師のようになると定められているという意味です。
 このような特殊な師弟関係にキリストはクリスチャンを入れて下さっております。従いまして、この特殊な師弟関係の基礎はあくまでも、クリスチャンは自分の中に主キリストの生命を受け、主に見習うようにされていると言うことなのです。言い換えれば、主キリストの贖いによって、キリストの生命がクリスチャンの中に働きますので、クリスチャンは主イエス・キリストに見習うことができるのです。
 さらに、最後はクリスチャンが主イエスのようになると言うのは、クリスチャンが決して救い主となると言うことではありませんし、ましてクリスチャンが神になるということではありません。
 そうではなくて、クリスチャンは最後に主イエスの性質に似る人間となると言うことです。そういう意味で、神との人格的な交わりを持つ「神の子」となるのです。
 なぜならば、その根拠は主イエスの贖いにより、すべての人間は神と和解させられていることです。すなわち主イエスの中で、すべての人間は罪のない者、穢れのない者、純潔な者として神の御前に存在しているからです。
この点につきましては、パウロは次のように言っています。
 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の身体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、疵のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:21~22)
 キリストにあって、クリスチャンはすでに神の御前にキリストの性質を映し出す聖なる者として、存在しています。しかし、終わりの時にキリストが再臨されるとき、救いが完成し、クリスチャンもそのような者としてキリストと共に現れるのです。
 それゆえ、この歴史の中で、クリスチャンはキリストに従うことによって、そのような新しい自分に向かって前進して行きます。言い換えれば、クリスチャンの人生はキリストに従うことによって、キリストにあって既に与えられている新しい自分になっていく過程であると、言えます。
 逆に言えば、キリストに従い、神の御心を実行しなければ、既にあるところの新しい人間が自分の中に、自分の人生の中に現れないのです。自分は具体的に現実的に新しい人間とならないのです。
 従いまして、そのようなクリスチャンの人生を聖書は「キリストと結ばれて」あるいは「キリストにあって」と呼んでいます。これはキリストの義と命と自由に生きる信仰者に共通している在り方です。
 「キリストと結ばれる」とは、キリストを信じることによって与えられる「聖霊」がわたしたちをキリストと結びつけることを言い表しています。
 その結果、「キリスト」は聖霊によってわたしたちの中に住み、働かれるので、わたしたちはすでにキリストの中に与えられている新しい人間として現実に歩むことが可能なります。
 ここにクリスチャンとキリストの師弟関係は、特殊な師弟関係であることが明らかにされています。それはユダヤ教徒が神の救いを得るためにラビ(ユダヤ教の律法学者)と師弟関係を持っているというのとは全く異なっています。

(3)主キリストの支配と導き
 それゆえ、キリストと弟子たちとの特殊な師弟関係は、主キリストの十字架の死と復活によって、言い換えればキリストが人類の罪を贖い、神に敵対していた罪人を神と和解させ、キリストにおいて自ら喜んで神に従う「新しい人間」とされたので、今や完全に確立しました。
 それは復活し、生きて働いておられる主イエス・キリストが福音の御言葉を通して、いつでもどこでも人間と出会い、信じる者に聖霊を与え、聖霊によってクリスチャンをご自身と結び合わせ、キリストに従う人生を歩むようにされるのです。 
 今や復活して神の力を持って働いておられる主キリストは、天地の支配者であり、教会の頭であり、教会はキリストの体であり、クリスチャンはキリストの体の肢体となっています。この基礎の上で、キリストとクリスチャンの師弟関係が成り立っています。
 次に、信仰者を主イエス・キリストと結び合わせる聖霊の働きは何でしょうか。
 聖霊の第一の働きは、主イエスの義と命と自由をクリスチャンの中に与え、信仰を強め、御言葉を実行するようにすることです。
 このことは聖餐式の中で明らかにされています。主イエスは聖餐式を守っている信仰共同体の中に、神として臨在し、クリスチャン一人一人と出会われます。
 そして、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ26:26~27)と命じられます。
 主イエスの命令に従って、パンを食べ、葡萄の杯を飲む者は、聖霊の働きによって、主イエスの命を受けるのです。パンと葡萄液はあくまでもキリストの体と血を表す象徴です。しかし、主イエスの言葉に従って、それらを受けるとき、聖霊が働いて、主イエスの中にわたしたちのものとして既に与えられている主イエスの命と体(人間性)がわたしたちの心の中に与えられるのです。これが聖霊の働きです。
 聖霊の第二の働きは、主イエスの思いをクリスチャンの心の中に与えることです。それによって、クリスチャンは主イエスの思いを知らされ、理解し、自分の置かれている環境の中で、主イエスの思いに従って、判断し、決断し、実行するのです。
 言い換えれば、聖霊は神を「父」と呼んで祈るキリストの心と、父なる神に従い、御心を喜んで実行しようと欲するキリストの意志をクリスチャンに与えられます。
 聖霊の第三の働きは、主イエスにおいて、特に十字架の死において啓示された神の愛をクリスチャンの心の中に注ぎ、クリスチャンが隣人に対して、神の愛を実行するようにされるのです。また救いの完成に対する希望と確信を与えるのです。
 聖霊の第四の働きは、クリスチャンを終わりの時に復活させ、キリストの姿に完全に似る者へと変貌させるのです。
 これが聖霊の働きでありますが、要するに聖霊の働きは、主イエス・キリストの恵みの中でクリスチャンを生かし、主イエスの恵みがクリスチャンの中で現実化することです。
 従って、聖霊の働きの内容と実質は「主イエス・キリストご自身」なのです。聖霊は主キリストを信仰者の中に臨在させ、主キリストは聖霊を通して信仰者の中に働かれるのです。

(4)地上におけるキリストの歩みの意義
 最後に、地上におけるキリストの歩みはただ一回限りの出来事ですが、キリストの生涯は神の御心に完全に適った唯一の出来事です。それゆえ、永遠の意義を持っています。
 キリストは旧約聖書の時代に、神の民に神の言葉を語った預言者とは異なり、究極的な神の言葉を語られました。その理由はキリストが「御子なる神」であり、本来的に「神の言葉」である方が「人間」となられた方であるからです。従って、キリストは旧約聖書の律法やその他の教えに対しても主権者としての立場で、何が本当に神の言葉であるかを明らかにし、その他の教えは既に過ぎ去った不完全なものとされました。
 さらに、キリストはご自身の言葉を実行されましたので、実行に裏付けされたキリストの言葉がわたしたちを生かすのです。特に、キリストの性質と態度は神の性質を完全に啓示しています。
 真実なキリストは自らの正しさを誇る偽善者の生き方を徹底的に否定されましたが、それでもなお神に敵対する者を赦し、彼らの贖いのためにご自身を十字架の死に渡されたのです。そこに敵を愛し、罪を赦す神の思いと態度が現されました。
 このように一度限りのキリストの生涯において、神は御自身を人間に完全に啓示され、他方で人間は神を知り、神に祈り、神に従うという現実がそこに存在するのです。それゆえ、キリストの地上の生涯は決して過ぎ去らない永遠の効力を持っています。
 最初から人類の救いに対する神の計画は、地上の人生において信仰を完成し、人類の救いを達成されたキリストが、死人の中から復活して、聖霊を通して一人一人の人間の内に働かれることでした。
 そのことによって、キリストの救いが実際に人間生活の中で具体的に現れるのです。今や神のご計画に従って、キリストはわたしたちの心の中に臨在し、わたしたちの存在全体を通して働きいておられます。 
 それゆえ、わたしたちには絶えず二者択一の決断が必要です。わたしたちの内に聖霊が与えるキリストの思いと、この世の低い思いとのどちらを選ぶか、わたしたち自身が決断をすることが要求されます。
 つまり、キリストの思いを繰り返して考え、自分が直面している問題の中でキリストはどう考えておられるのかを熟慮し、理解し、実行することが必要なのです。それを実行すると言う仕方で、わたしたちは地上で歩まれたキリストの歩みを自分たちの歩みの中で、追体験し、確認し、模写することができるのです。そのことによって、キリストにあって既に与えられている神の子の自由の意味が分かるのです。
 なぜならば、神が与えてくださった自由とは決して、人間が自然と善い行いだけをし、自然と悪い行いはしなくなると言う種類の自動的に機械的にはたらく自由ではなく、あくまでも自分でよく考えて判断し、キリストの思いに従って決断し、実行する自由であるからです。それは神が人格的な神であり、神と交わる人間も人格的な人間とされているからです。
 クリスチャンはキリストが地上で実現された歩みを、自分の歩みの中で、追体験し、確認し、模写することによって、キリストの性質を映し出す新しい人間として生きるのです。



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