2013-08-18(Sun)

自己を越えていく 2013年8月18日の礼拝メッセージ

自己を越えていく
中山弘隆牧師

 なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。」
エレミヤ書15章18~21節


 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マルコによる福音書8章31~36節

(1)キリストのもとへ近づく
 人間は交わりを通してお互いに知り合うようになりますが、わたしたちがキリストを知るようになるときも同様です。そこで人がキリストへと導かれる場合にはいくつかの段階が考えられます。
 キリスト教について何らかの印象を持ち、普段はキリスト教について深く考えていない人でも、キリストのことが何となく気になっている人々がいます。例えば、友人の中にクリスチャンがいて、キリスト教はああ言うものかと遠くから眺めていたり、あるいはキリスト教の映画を見たり、音楽を聴いたりして、キリスト教について何らかの興味を覚えている人々がいます。このような人たちはキリストとの交わりの最初の段階にいると言えます。
 次に教会の特別伝道集会に誘われたり、また自分から進んで礼拝に出席したりする人があります。それは他の人を通してではなく、自分の目と耳を通してキリスト教に触れると言う段階です。
 実はこういう段階にある人々のことが、聖書の中にたくさん出てきます。従いまして、自分で直接キリスト教に触れたいと願う人は、聖書の中に出てくる人々の中でも、特に弟子たちの立場に自分を置いて、キリストの言葉を聞く必要があります。
 まず、聖書の中に登場する群衆は、主イエスの教えを聞いて非常に大きな感銘を受けました。主イエスは神様の意志を実に簡潔明瞭に語られましたので、神様はイエスによって、本当にわたしたちの所に「入って来られた」のだという畏敬の念を抱きました。
 これはガリラヤの丘の上で、イエスが群衆に教えられたときの様子です。彼らの受けた感銘を聖書は次のように記しています。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29)
 また、イエスが中風で長年苦しんでいる人を癒された時、先ず初めに、イエスは中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と語られた場面に居合わせて、人々は肝が潰れるほど驚きました。なぜならば、罪の赦しは神様だけが与えることのできる神の権能に属する事柄であるからです。しかし、イエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられると、不思議にもその人は、その通りになったのです。
 このことを目撃した人々は驚き、「このようなことは、今まで見たことはない」と言って、神を賛美しました(マルコ2:12)。
 このような段階にある人々は、主イエスに直接触れています。しかし、そこでは未だ主イエスとの人格的な関係には至っていません。そのために、さらに一歩踏み出す必要があります。この段階で主イエスはこのように仰せられるのです。
 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34)
 これは主イエスの中に神の力が働いていることを知り、また主イエスが語られる神の愛に心を惹かれ、慰められる者は、そのことだけで満足してはならないと言うのです。救われるためには主イエスにどこまでも従う決意が必要であると言うのです。

(2)生ける神の子キリスト
 クリスチャンは皆この主イエスの御声を聞いて、従って来た者たちです。真剣に主イエスを求めようとする人は、誰でも聖書を読みます時に、このイエスの御声が他の言葉よりも一層重みを帯びてきます。そしてしばらく日が経ちますと、自分は最早この御声を聞き流しにしておくことはできないと思い、御声に応えようと決意するに至ります。
 とりわけ、弟子たちはイエスの御声に聞き従って、イエスにどこまでも付いて来た人たちです。
 そして弟子たちはイエスの言動と性質をよく見ることによって、主イエスの人格と出会い、この方は心の中が「真実」であり、父なる神に対して全く従順な子なる神であることが段々と分かって来ました。
 もちろん主イエスは最初から神であり、「子なる神」ですが、マリアから誕生した「真の人間」として、人間の歴史の中に入って来られた方です。そのような方として神を知り、神に対して従順な、「真実な人間」として歩まれました。その姿を目撃した弟子たちはイエスを「神の子」と呼んだのです。
 なぜならば、「子なる神」の本質は、父なる神に対して従順であることです。子なる神は自ら進んで、喜んで父の御心を実行し、父なる神に栄光を帰せられる方です。その「子なる神の性質」を持っている「真実の人間イエス」を弟子たちは「神の子」と告白しました。
 それゆえ、弟子たちはイエスに対する信仰を次のように告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)

 他方イエスは律法学者の偽善を厳しく糾弾されました。なぜならば、父なる神に対して徹底的に従順である「神の子」として、人間に命じられた神の命令である「律法」の本当の意味を理解し、それを完全に実行しておられる方でありますので、律法学者たちの偽善に我慢できなかったからです。
 律法学者たちは自分の考えによって律法を解釈し、律法の意味を曲げて、人間の様々な規則を作り、しかもその煩雑な規則によって、神の命令の本当の意味を不鮮明にしてしまいました。
 その現状はイエスから見れば、神に対する彼らの不従順と彼らの欺瞞によるものであることが、よく分かったからです。彼らには神に対する信頼と従順という「真実な心」が欠落している点を暴露されました。
 他方、弟子たちは主イエスこそ、人間に対する神の命令である律法の意味を完全に理解し、それを完全に実行されている方であることを知りました。そのような方として、主イエスこそ本当の意味で人間を生かす「命の源泉」であるであることを理解したのです。
 それゆえ、主イエスに従っていた人たちの多くが、伝統的なユダヤ教の教えとは異なっているので、イエスが「メシア」であるかもしれないという彼らの期待を失い、イエスから離れ去りました。
 そのとき、イエスは弟子たちに対して、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられましたので、シモン・ペテロは弟子たちを代表して次のように申しました。
 「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)
 十二弟子たちは主イエスに対して「あなたは永遠の命の言葉をもっておられる方です」と告白していますが、これは主イエスこそ「永遠の命を与える言葉」であると言う意味です。言い換えれば、主イエスこそ「永遠の命の泉」であると言う意味です。

(3)価値観と人生観の転換
 次に、「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 この命令は何を意味しているのでしょうか。人が神から与えられる「真の命」に生きる道を歩むために、次の点が必要であることを示しています。
 第一は、根本的な価値観、言い換えれば自分の人生観を転換することです。
 誰でも有意義な人生を歩みたいと欲しています。そのために、将来自分は何をしようかと考え、自分で価値あると思うことを決め、それを実現するため、学校で学び、社会に出てからも努力を続けています。もちろんこの点は社会の中で自立して生きいくに必要不可欠です。しかし、これはこの世に生を受けた人間の本当の意味を決めることとは別です。
 なぜならば「人生の本当の価値」とは、人間の創造者であり、救い主である神様が決めてくださる事柄です。しかもそれだけでなく既にこの価値を「主イエスの中」で実現してくださったのです。さらに詳しく言えば、その価値とは「主イエスご自身」なのです。
 しかも神はわたしたち罪人を愛して、「主イエスに中に」既に備えられている本当の価値を無償で、わたしたちに提供されます。
 従いまして、必要なことは、主イエスをそのような方として信じることです。さらに主イエスに従う決意をすることです。
 第二は、主イエスの命令はそれを実行することができる力をわたしたちに与え、わたしたちがその力を用いて、実行する環境を既に備えているということを知ることです。
 なぜならば、主イエスは御自分が行わないことを、人々に行わせようとは決してなされないのです。これは人々が従っていくことのできる指導者の特質です。
 ファビウスという有名な古代ローマの将軍は、困難な地点をどのように攻略するかを参謀たちと考えていました。ある参謀は一つの作戦を示して、これを行うためには数人の犠牲者を出すだけで十分であると言いました。そのときファビウスはその参謀に、「あなたが進んでその少数者になれるか」と問いただしたと言うことです。
 主イエスは自分が背後の陣営にいて、部下の命を将棋の駒のようにもてあそぶような指導者では決してありません。主イエスに従う道はたしかに困難であり、犠牲を払うことが必要でありますが、それは真の命を得させるためであり、何よりも先ず主イエスご自身がその道を歩まれた方であるからです。
 第三に、十字架の死を全うされた方として、主イエスはわたしたちに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せられるのです。
 しかし、わたしたちが「自分で負う十字架」は人類の罪を贖うために「ただ一度限り」十字架について死なれた「イエスの十字架」とはその意味が全く異なっています。
 たしかに十字架を負うと言うことは様々な困難やそれに伴う苦しみを経験するという意味です。しかしそれだけではありません。
 それは高慢な、利己的な自分に対して「否」と言うことを意味します。罪深い自分の様々な思いと行動を捨て去ることです。
 同時に神の御心に対して、「はい、そうです」と心から賛同し、それを実行することです。その際に父なる神に喜んで、自ら進んで従われた神の御子イエスの性質を自分のものとして、神の命令に従うのです。

 また、自分の安全と楽しみを重要視する自然的な人間の思いを捨て、神の御心を実行するために、言い換えれば、隣人に対する神の愛を実行するために、自分の思いと時間と労力を費やすことが必要です。言い換えれば、「愛の労苦」は神が与えられる「命に生きる」ことなのです。

(4)主イエスの中に生きる
 最後に、わたしたちは生まれながらの人間としての罪に束縛され、神に反する低い思いに生きていた者が、主イエスに従うことによって、自己を越え、主イエスの性質を映し出す「神の子」としての思いと行いに生きるのです。逆に言えば、そのために絶えず、自己を乗り越えて行くのです。そのことが主イエスに従うことです。
このとき人はパウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と、言えます。
 なぜならば、人類の救い主として、地上の人生を父なる神の御心にどこまでも従順であり続け、また人類を愛し、その罪の贖いのためにご自身を献げて、十字架の死を全うされた「神の子イエス」を父なる神は死人の中から復活させ、人類の救い主である「主イエス・キリスト」とされたからです。そしてわたしたちが神の子として生きるためにわたしたちの「新しい存在と命」を父なる神は「主イエスの中」に置かれたのです。
 今や主イエスは人間の持っている時間と場所の限界を越えて、神として、いつでもどこでも臨在し、御言葉をもって語り、人と出会い、ご自身を示し、「命を得たいと思う者は、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と命じられるのです。
 同時に、「聖霊を通して」わたしたちの中に、ご自身の義と命を供給し、聖霊を通して、わたしたちの中で働かれる方です。

 これこそわたしたちが「主イエスの中」に既に備えられている自分たちの「新しい存在」に生きるため、絶えず自己を越えていく歩みです。



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