2013-08-11(Sun)

人間の罪 2013年8月11日の礼拝メッセージ

人間の罪
江田めぐみ伝道師

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
創世記3章1~23節


 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一10章13節



 ただ今お読みいただいた創世記三章は、私達の世界がなぜ今日のようであるかを、明確に教えております。それは、神が救いの道を設けてくださることがなぜ必要となったのか、を語っているからであるのです。人と世界とはどこでおかしくなってしまったのか、神のひとり子が天から地に降って来られることがどうして必要になったかを教えているのです。

 一昨年、三芳教会員で20代の若いSさんの突然死を聞いた時の驚きと共に家族はもちろん関係者は、深い悲しみが訪れました。それこそある日突然の出来事を信じられなく、信じたくないとの思いでも、誰にでも起こりうることなのです。だからこそ真剣に、自分自身について、そして自分が最後を迎える時にはどのようにするべきか、老いにつけ、若きにつけ考えていかなければならないことでしょう。
 命は今どのような状態におかれているか、聖書の語る御言葉にこそ、私たちは思いを向けるべきではないでしょうか。

 創世記1~2章では、神が世界を造られたこと、そして人間を造られたことが記されております。神は人を男と女とに造り、エデンの園に住まわされました。人はそこで生き、神と交わりを保ってくださいました。けれども3章では、違った光景が記されております。
 まず、命そのものが示されております。次にアダムとエバの姿が、神を避け、彼らを捜そうとする神の声から逃れようとします。なぜならば、蛇の誘惑にエバが負け、アダムにも木の実をあげて、食べてしまったからです。それは神との約束を破ってしまいましたので、二人は目が開け、自分たちの裸に気づいてしまいました。
 神との約束を守らなかったことで、神より地に加えられたのろいが告げられました。すると、女性は産みの苦しみをし出産することになり、男性は顔に汗を流して働き、食べ物を得るために苦しむ。更には、いばらとあざみ、病と死もあるのです。そして、神に造られた命があるのです。これが、すべてのことの答えであります。そこには、私たちが共に考えなければならない状態についての説明があるのです。

 人の抱える問題は、自分のうちにあるのであって、自分を取り巻く周囲にあるのではないのです。
 神は人を造られた時に、ご自分との交わりのために人間を創造されました。人は最高の環境の中のエデンの園に住まわせてくださいました。けれどもこのエデンの園を、荒地へと変えてしまうことが起こってしまいました。御言葉は、人の置かれた環境や条件ではないのです。その問題はその人自身のうちにあることを教えております。
 人は神との正しい関係を踏み外してしまいました。その結果、全ては悪しき方向に向かってしまいました。全ては罪に起因するのです。
 主なる神はアダムを呼ばれて「どこにいるのか」と言われると、この時彼は、身をすくめて、隠れてしまいました。ここでの二人の姿は、まさに人が置かれている状態を端的に示しております。ここでのアダムとエバは、自分にとって一番良いことが何かは自分で知ることができると思い込んでしまう過ちがありました。
 この世の悲劇の全ては人間が同じ過ちを繰り返していることにより、語られて示されているにも関わらず、ほとんどの人は、アダムとエバが最初にしたことと同じ事をそのまま行い続けているのです。そう考えますと、創世記三章の出来事が示している問題は、今日でもそのまま生じているのです。

 蛇はエバを誘惑し、神の善を疑わせました。善悪の知識の木をエバに与えない神は厳しく、自分勝手であると、蛇はエバに神の恵みすべてを忘れさせ、神が禁じているものに注目をさせました。私たちも、神が与えてくださっている数え切れない恵みと約束よりも、神が禁じている事柄に気を向けてしまうと、問題に落ち込んでしまうのではないでしょうか。自分にないものについて自分が哀れだと感じる時に、自分が「持っている」ものすべてについて考え、感謝ができる心を持つことによって、疑いが生じても、罪に引き込まれることはないのです。
 蛇は狡猾なかしこさと巧妙さを持って、エバを誘惑するとき「神のように善悪を知るものとなる」ということを言いました。
 神のようになるということは、神になろうとするのではなく、神の性質を反映し、自分の人生における神の権威を認めることであるのです。エバのように、私たちにも日常生活の中で、沢山の誘惑に出会うことがあるかもしれません。
 そんな時にすべての誘惑に打ち勝つ事ができないかもしれませんけれども、そこにはいつでも逃げる方法が記されております。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
 誘惑は、欲しいものを見た時に、すでに始まっています。「若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモテ2:22)

 蛇はエバに「決して死ぬことはない。」(創3:4)といい、エバを誘惑しましたが、蛇は「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創2:17)と神のいましめの心理を否定するのです。それから蛇は彼らが神の知恵にあずかり、神のようにならないために、木からとって食べることを禁じられたのだ、というように持ちかけました。けれどもエバはその禁じられている実をとって食べたいと思うのです。なぜならばそれは、目には美しく、食べるにはよく、賢くなるには好ましいからです。したがってエバは蛇の誘惑に抵抗できず、神の言葉にそむいてしまいました。蛇はエバを誘惑に導きその仕事をなしとげてしまいました。疑いと拒否は、不従順と死とへ導きました。人間は悪なるものに降伏してしまったのです。
 禁じられていた木の実を食べると、「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづりあわせ、腰を覆うものとした」(創3:7)のです。
エバは罪を犯すと、その誤った行動にアダムを誘いました。これを見ると、罪の特徴は周囲に影響を及ぼしていくことがわかります。
 私たちは罪を犯すと、誰かを巻き込んで、罪悪感から逃れようとするのではないでしょうか。
 罪を犯した後、アダムとエバは自分が裸でいることに罪悪感と恥を感じて、神から逃れました。二人の中に罪悪感を感じる良心は、間違いを犯した時になる警告として神があなたの内に置かれたものであるのです。一番悪いのは、罪の原因を取り去ることなく。罪悪感を感じないようにしようとすることなのです。

 神と人間との関係は、ここで破られていました。人間は罪の意識と、神に従う事の無力さとによって、永遠に追いたてられて自分の道を行かなければならなくなってしまったのです。
 神は「どこにいるのか。」(創3:9)との問は、神と人間との交わりが破られてしまったことを示しております。それに対しての答えは、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創3:10)と恐れて神から隠れてしまいました。けれども神は、厳しく問いかけられたので、そこでアダムはついにその罪を認めるのですが、女に、また神ご自身にすらも、罪をなすりつけようとしてしまうのでした。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創3:12)ということは、アダムは責任転換をしてしまいました。このようなことは、自分に都合が悪くなってしまうと、誰でもしてしまいがちです。
 神との交わりと、人間の間の交わりは、罪がこの世に入ってしまうと不可能になってしまいました。

 次に、女に神は質問しました。「なんということをしたのか。」すると女は「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創3:13)と、自分をあざむいた蛇に罪を押し付けてしまったのでした。すると神は、蛇に向かって「お前は、生涯這(は)いまわり、塵を食らう。」(創3:14)と呪いの言葉を言うのでした。
 罪は、女を通して、蛇から男へと行きました。神の問いかけは男から始まり、女へと進み、次に蛇に移るのです。神の裁きは、蛇から、女、そして男へと降るのです。
 蛇は神から直接呪いを受け、生涯地を這いまわることになりました。

 神は、また女に言われました。「お前のはらみの苦しみを大きなものとする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」(創3:16)とは、産みの苦しみと、男に依存する女は、女が不従順のために支払う代償でありました。

 「神は彼らを祝福して言われた。」(創1:28)それは、人類の増加は神の祝福の結果であるのです。
 アダム自身裁きの直接の言葉を免れました。その裁きは、土に移っていくのです。けれども神は、その土から、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)のです。
 そしてその土が人の食べる食物を造るのです。人と土との密接な結びつきは、今や呪いによって破られてしまいました。その土は、ひとりでに「土は茨(いばら)とあざみを生(は)えいでさせる。」(創3:18)というように、苦しい労役によってのみ、人は必要とする食物を手に入れることができるのです。働く労働そのものは「人がそこを耕し、守れるようにされた。」(創2:15)ということは、罪が労働を苦るしい労働としてしまったのです。それは、神は人間生活の一部としてくださいました。また神はあわれみを持って、人間の不従順なものでも、「土に帰る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創3:19)と人間を殺さず、神の息が人間を去り、人間が生まれてから塵に帰るまで、生きることを許しておられるのです。

 「アダムは女をエバ(命)と名付けた。」(創3:20)彼は彼女をエバと呼びました。それは生きると言うことを意味するのです。彼女は命の源であり、すべて命ある者の母とからである。裁きと死に直面して、アダムは。命が最後は勝利をうるという信仰を言いあらわしているのです。
 罪ある人間に対する神のあわれみは、「神はアダムと女に皮の衣(ころも)を作って着せられた。」(創3:21)と上から与えられた事実によって示されているのです。

 人間はエデンの園から追放について神から告げられます。神のご計画によれば、人間は神の植えられた木の世話をして、神の善に信頼をおいて生き、エデンの園の管理者としてなるはずでした。けれども不従順によって、人間はエデンの園から追放されてしまったのです。アダムは自分の家族を守るために、生計を立てなければならなくなり、自分で、土を耕し、一生生きる限り、働かなければなりませんでした。

 私たちは、いにしえのアダムの失敗を私たちもまた繰り返していることであります。聖書の光に照らした人生を送ろうとするかわりに、人間の考えに従って生きているのです。問題は自分たちのうちではなく回りの環境にあると考えられております。それはそうではないのです。わたしの問題は、神のおきてに従っていないことにあるのです。
 神は十戒を通して、道徳律法、山上の説教を通して、そして福音書と書簡のすべての教えを通して、私たちが何をすることを望んでおられるか、語っているのです。ですから、私たちは神の教えに従って生きようとして、すべてのこと、あらゆることを行なっているか問われているのです。
 人はみな、じっくりと自分自身を見つめ直してみなければいけません。私の人生は、神が示してくださったような人生のあるべき形を間違いなくしっかりと土台にしている、と言えるでしょうか。そう言えなくなった時、あのアダムは恥の感情を抱いて神の前から逃げ去り、木々の間に身を隠すようになってしまいました。


 創造主なる神は、人間をご自身のおきての下に置き、さばきを予告しました。神は人を責任ある存在として造られました。そして神の特質の幾分かを人間に与えて下さいました。ですからおきての下に置かれたのです。責任を与え、それに伴う裁きのあることを予告してくださったのでした。人間は裁きがあるという事実を軽視してしまったからです。そして、裁きを招いてしまったのです。それ以来、人間は自分が蒔いた種を絶えず刈り取らなければならなくなったのです。
 神に聞き従わない道は苦難へと続いてしまいます。人は神を離れては、幸せにはなれません。神は人のところにやって来てくださいました。悪と闘い、悪に勝利しようとご計画下さいました。救いの約束が宣言されました。蛇の頭を砕くと、神はやさしく、人間の裸を覆う衣(ころも)を用意してくださり、神ご自身のひとり子の義と完全さとをもって人を覆い、それによりご自身のもとに、立ち返らせる日の来ることを、予告してくださったのです。

 
今日の世界は不満に満ちております。人は皆、喜びあふれる幸せを求めております。何かを必要としています。神はそんな私たちを知って示唆しているのも、私たちは感じ取ることが鈍くともすれば、語っている神に人は背を向けてしまっているのではないでしょうか。神はあなたに語りかけておられるのです。神は、私たちが耳をすませて聞き、神のメッセージを信じ、あなたの人生を神に委ねることを望んでおられます。神が私たちを恵み、その恵みによって、神が望んでおられるような人生を歩んで行きましょう。


スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR