2010-08-22(Sun)

深い淵より叫ぶ 2010年8月22日の礼拝メッセージ

深い淵より叫ぶ
中山弘隆牧師

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。
詩編130篇1~8節

 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙7章13~25節

(1)今日の状況
  今日のわたしたちの社会環境は、実に憂慮すべき状態であります。身勝手な自己主張と利己主義、生命の尊厳に対する自覚の欠如、他に対する思いやりと優しさの欠如、勇気と忍耐との欠如。そして人を馬鹿にして楽しむような軽薄な娯楽の流行、他方人間らしさや道徳また共同体としての社会のあり方を、何気なく自然な形で伝える健全な情報の不足は、児童や青年の成長に悪い影響を及ぼしています。
従いまして、これからは平凡でも良き社会人となることを第一として、自分の将来に希望を抱いて、一歩一歩と着実に努力する子供や青年が育つような社会でありたいと思います。
 
(2)パウロの人間理解
それでは使徒パウロは人間の現実をどのように理解しているでしょうか。この点について、ローマの信徒への手紙7章9節~11節の箇所で、次のように自分自身の体験から語っています。
「わたしは、かつて律法とかかわりなく生きていました。しかし掟が登場した時、罪が生き返って、わたしは死にました。そして命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして掟によってわたしを殺してしまったのです。」
このパウロの体験は、人間の現実の深刻な問題を現しています。人間をよくするために、道徳教育が最も重要である、と多くの人々が考えていますが、それだけでは不十分なのです。人間の罪は道徳教育によっては、取り去ることのできない闇の力なのです。
パウロが「わたしは、かつて律法とかかわりなく生きていました。」といっているのは、彼の少年時代のことです。自分の思いのままに行動していた時期でした。そのとき、彼は悪を行わなかったというのではなく、自分の行動の善悪について少しも気にせず、生きていたというのです。
しかし、彼は神が定められた人間の守るべき道徳、すなわち律法を学び、これから自分が人間として生きていくために、律法を守ることの大切さを自覚するようになりました。すると全く予期しなかったことが起こったのです。これまで眠っていた罪が目を覚まし、律法を行うためには罪と戦うことが必要になったのです。そしてその戦いの中で、自分は敗北し、ついに罪に支配される哀れな人間になってしまったのです。
「しかし掟が登場した時、罪が生き返って、わたしは死にました。」と告白しているのは、そうした状況を指しています。
この状況を詳しく説明するために、彼は「そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして掟によってわたしを殺してしまったのです。」と言っています。
これはどういうことかと申しますと、律法はそれを実行する者に命を約束します。しかし、自分の中に住み着いている罪が、律法を実行することを阻止するのです。それだけでなく、パウロを律法に対する不従順へと導き、その結果、命に導くはずの律法が、かえって彼を死に導いたというのです。
ここに心の深刻な問題があります。人は良き人間として造られた神様の被造物です。しかし、人間は自分に与えられた心の自由を、神様に従う方向ではなく、反抗する方向に用いたのです。そのときに人間の罪が発生しました。そのようにして、一旦罪を犯した人間はそれ以後、自分の犯した罪に支配される結果となったのです。これが神様から最初に造られた人間であるアダムの罪です。つまり人間の原罪です。しかし、今日のわたしたちもアダムと同じように、自分で神様に反抗して罪を犯すことによって、自分の犯した罪に支配される結果となっています。
パウロは、自分を支配している罪がどのように発生したかは、説明していません。アダムの罪が人間の原罪として彼の中に存在していたのか。それとも彼自身がアダムと同じように罪を犯したために、彼の中に罪が入り込んだのかについては、何も語っていません。
彼が語っていることは、罪が自分の中に入り込み、「自分の本心」「内なる人」と戦いを挑んでいる、と言っています。パウロは人間を「内なる人」と「体」との二つの部分から構成されていると見ており、そして罪は自分の「体」、あるいは「五体」、または「肉」に入り込み、そこを根城にしていると言っています。
しかし、パウロの「内なる人」「自分の霊」「自分の本心」もパウロ自身であり、他方「体」「五体」「肉」もパウロ自身なのです。したがいまして、パウロ自身が持っている二つの要素、すなわち「内なる人」と「体」とが互いに相反することを考え、実行しようとしているという事実が、パウロの思いと行動を分裂させるのです。「内なる人」は、神の律法を喜び、それを実行しようとしているのですが、他方で「自分の五体」または「自分の肉」を根城にしている罪が、それを阻止し、結局自分の欲していない悪を行っている、というのがパウロ自身の現実なのです。
このパウロ自身の姿を、7章22節~24節で次のように語っています。
「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」
ここで、「内なる人の中に働く心の法則」と、「五体の中に働く罪の法則」が互いに対立しているのです。しかも罪の法則が心の法則より強力でありますので、人間は本心の欲することを行わず、欲しないことを行うのです。つまりこれは、人間の「自己分裂」です。
正に、この状態こそ、罪のもとにある人間の姿であります。

(3)夏目漱石の人間理解
次に、日本における近代文化の代表者でありました夏目漱石は、「こころ」と題した小説を書きました。
彼はその本の中で、「孤独となってしまった近代人が、自分を嫌悪すべき状態から救おうとすれば、どうすればよいか」という問題を提起し、一つの回答として、その小説を書きました。
作品の中で、エゴイズム、すなわち利己主義のために他の人を愛しえなくなってしまった孤独な近代人の姿を掘り下げています。そこで罪に支配された人間の生き方を分析し、解決の手段は、人間の心を蝕んでいるエゴイズムをいかに克服するかという問題に掛かっている、といいます。そして彼は必死にエゴイズムを乗り越えようとします。
漱石は小説の中で、医者から見放された妻の母を愛をこめて看病している自分の姿を描き、次のように言っています。
「これは病人のためでもあり、愛する妻のためでもあったが、もっと大きな意味からいうと、人間のためでもあった。そのとき、わたしは罪滅ぼしという一種の気分に支配されていたが、幾分でもいいことをしたという自覚を得た。しかし、わたしは人間の罪というものを深く感じた。」と言っています。さらに、その様子を次のように説明しています。
「その感じが、わたしを毎月友人の墓に墓参させ、その感じがわたしに妻をやさしくしてやれと命じる。しかし、わたしがそうするために立ち上がろうとすると、どこからともなく恐ろしい力が現れ、わたしを縛りあててしまします。そして『お前は何もする資格のない男だ』というその一言で、わたしはぐったりと萎れてします。わたしは歯をくいしばって、なんで人の邪魔をするのかと、怒鳴りつけると、不可思議な力は冷ややかな笑い声で、『自分でよく知っているくせに』という。するとわたしは再びぐったりとする。」
このような小説を書きました漱石は、外面的には何の波乱もない単調な生活を続けていました。しかし彼の内部にはこのような苦しい戦いがあったのです。その苦闘の中で、彼はエゴイズムに捕らえられている自分に死んだつもりになれば、エゴイズムを克服できるだろうと考えていたのです。しかしもはや、そうすることは不可能だ、と分かりました。
そこで、彼に残された唯一の手段は「自殺する」ことでありました。その小説の中の「先生と遺言」という文章で、自殺を決行するに当たり「遺言」を記しています。
しかし、漱石のいう「自殺」とは、首をつって死ぬことでも、切腹して命を絶つことでもなく、明治の時代精神であった「反エゴイズムの精神」によって、自分のエゴイズムを克服し、新しい人間になるという意味なのです。それゆえ、エゴイズムによって生きていた自分は今日からもういなくなる、という意味での遺言なのです。この決意をもって、漱石は小説を終えています。

(4)自己分裂からの救い
それではパウロの場合はどうでしょうか。パウロは利己的な人間の深刻な問題を、「自己分裂」として理解しています。そのことをもう一度考えますと、21節~23節でこのように言っています。
「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」
パウロの「内なる人」「本心」は善をなそうと思うのですが、五体の中に根付いている罪が「利己的な思い」を働かせ、パウロの本心は利己的な思いに負けてしまうので、結局パウロは善ではなく悪をなしてしまうと、告白しています。
実に、パウロの深刻な悩みの原因は「内なる人」が弱い、「本心」が弱いという点にあることが分かります。彼は24節~25節の前半でこのように絶望的な叫びをあげています。
「わたしはなんというみじめな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるのでしょうか。わたちたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」
罪のために「死に向かって進んでいる体の利己的な思い」が、本心の働きを無力にしているのです。この現実に直面して、パウロは「自分はなんという惨めな人間なのだろか」と絶叫しています。
それでは、救いとは何でしょうか。救いはどのようにして与えられるのでしょうか。それはわたしたちが主イエスを信じることによって、聖霊がわたしたちの心の中に与えられ、わたしたちの「本心」が神の力によって強くなることです。
その結果、本心の思いが、利己的な思いに打ち勝つのです。聖霊を通して、わたしたちの心の中に主イエスの思いが働くときに、わたしたちの本心は利己的な思いに打ち勝つのです。
主イエスを信じることによって、主イエスとつながり、主イエスと人格的な交わりに入れられることを、パウロは8章9節~10節で、聖霊に導かれ、「霊の法則」によって生きる新しい生き方と呼んでいます。
「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」
ここで、「霊は義によって命となっている」ということがパウロの「勝利の叫び」なのです。
「霊」とは聖霊のことではなく、「わたしたちの本心」のことであり、すなわち「内なる人」のことです。主イエスを信じる信仰により、罪を赦され、神との交わりの中で、神の命である愛を「わたしたちの霊」に、すなわち「わたしたちの本心」に受けることです。
そのことにより、「内なる人」は五体に働く罪の思いに勝利し、神の律法を実行し、義の実を豊かに結ぶことができるという、勝利の証しなのです。
パウロはクリスチャンになっても、自分自身の体験として、内なる人の思いと五体に働く罪の思いの対立と戦いを知っています。その中で、パウロは主イエスを信じる信仰によって、自分の霊の中に、本心の中に主イエスの命と神の愛を受け、罪の思いに勝利し、神の御心に従って善き行いをすることができました。
深き淵より助けを求める「人間の霊」、「内なる人」、「人間の本心」は信仰により、聖霊によって、主イエスと結びつき、主イエスの命と力を受けて、勝利と感謝と喜びの道を歩むのです。
パウロはそのような信仰による勝利の人生をコリントの信徒への手紙一、15:9~10で、次のように証しています。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしとともにある神の恵みなのです。」
このように、パウロ自身の本心は、罪の思いに負けてしまう弱い本心ですが、信仰を働かせることにより、罪の思いに勝利し、神の恵みに応答し、神に仕える力を発揮することができたというのです。

要するに、わたしたちクリスチャンは何をするにしても、主イエスを信じる信仰を働かせることが必要です。自分は信仰を持っていると考えていましても、なにか課題に直面したときに信仰が働いていなければ、力は発揮しないのです。信仰の働きによって、わたしたちの内なる人が強められ、神の意志に従い、良き業をすることができるのです。勝利と感謝の道を歩むことができるのです。
信仰を働かせることによってのみ、人間は内なる人が強められ、自分の体に染みついている利己主義を乗り越えて、隣人と出会い、互いに理解し、協力し、何か生産的な良きものを作り出すことができるのです。
このようにして、わたしたちは神様の栄光を現す人生を歩むのです。



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