2013-07-28(Sun)

神との対話 2013年7月28日の礼拝メッセージ

神との対話
中山弘隆牧師

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
創世記18章22~33節


 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
ヨハネによる福音書12章27~33

(1)栄光を受けるとき
 主イエスの生涯におきまして、数人のギリシャ人が主イエスに会いに来たと言うことは、非常に大きな意義を持っていました。
 彼らはユダヤ人の信仰に興味を持つギリシャ人たちで、「過ぎ越しの祭り」に参加するためエルサレムに来た者たちでした。彼らはイエスの弟子でギリシャ語の名前を持っているフィリポのもとに来て、「イエスにお目にかかりたい」と願い出ました。しかし、フィリポはこれまでイエスが異邦人に宣教されたことはありませんでしたので、どうすべきか迷い、アンデレに相談して、二人でイエスのもとに行って、ギリシャ人の願いを伝えたのです。そのとき、イエスは次のように仰せになりました。
 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23~24)
 ここで、「人の子」とは神からイエスに与えられた使命を示す名称です。イエスは常にこの名称を用いておられました。人の子とは「天的な人間」で、神の「主権」を与えられて、神の国を支配するようになる者と言う意味です。
 「人の子」の使命を、ここでイエスは「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことに譬えられました。これは一粒の麦が地に蒔かれて、その姿が消えると、麦が芽生え、多くの実を結ぶように、人の子の運命もそのようになるというのです。
  言い換えれば、人の子はユダヤ人だけでなく世界のすべての人間の中に生きて働き、自分と同じ性質を映し出す人間を造り出すというのです。この働きが人類の救い主の使命であると言われたのです。

 人の子が栄光を受ける時が来たと言う意味は、このような主権が今やイエスに与えられることです。すなわち、神の御子イエスは自分が十字架の死を神への従順として全うするならば、その後に自分と人間との関係が全く新しくなり、自分はすべての人間の中に働き、自分の性質に似た人間を造り出す時が、今や直ちに来ると仰せになりました。
 しかし、これは人間の思いを遥かに超えた偉大な神の事実です。非常に逆説的な出来事ですが、人間の目に最も屈辱的に映る十字架の死の中で、人の子の栄光が現れると言うのです。
 なぜならば、神の栄光が現れるとは、神ご自身が人間のために決定的な行動を取られることです。すなわち、人間に代わって人間の責任を神が負ってくださることによって、神がご自身を人間に与え、人間の中に働いてくださるという出来事であるからです。
 その神がご自身を人間に与えられるという永遠の事実は、人類を罪から解放するために、神の御子が人類に代わって、罪の必然的な結果である死を引き受け、しかもなおその死において、神への従順を全うされることです。そのことによって、神の前に通用する人間の義と聖と命を達成してくださることです。
 しかし、ここで深く心に留めなければならないのは次の二つの点です。
 第一は、神の御子イエスにとって、ご自身の十字架の死が人類を罪から救う神の業であるということは、わたしたち人間と同様に信仰によって理解されたのです。明確な自覚に基づいて、しかも自ら進んで、十字架の死を引き受けられたという点です。
 実にイエスの信仰による自覚と自発性は、イエスの死が人類の罪を贖う神の出来事となるために、必要不可欠であるという点です。
 第二は、イエスの十字架の死と復活は父なる神の業であり、イエスにとってそれは自分に与えられた運命なのです。
 それはイエスの死後、父なる神がイエスを復活させ、イエスの中に新しい人間の存在を創造し、イエスを新しい人類の頭とされたと言うことです。同時にイエスを天地万物の主権者である主イエス・キリストとされたことです。
 それゆえ、イエスが名実ともに全人類の救い主となられたのは、イエスが何を認識し、自発的に何を実行されたかという面と、イエスの死と死後において、何が起こったかと言う面です。
 従って、その二つの面で力を持って働いたのは、父なる神の意志です。それゆえ、自ら「人の子」であるという自覚をもって行動しておられた「神の御子イエス」にとって、重要なことは「父なる神」の意志を知り、実行することに徹するという一事でありました。

(2)イエスの祈り
 次に、人の子の栄光が現れることを確信しつつ、イエスはどのような状態の中にあったのでしょうか。
 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12:27~28)。
 この箇所の祈りは他の福音書に記されていますゲッセマネの園での苦闘に相当する内容です。イエスが十字架の死を避けたいと言う極めて人間的な願いとの苦闘が記されています。誰でも33歳の若さで死ぬことを願いません。しかも十字架の上で最も屈辱的な死をもってこの世を去ることを願いません。イエスの神への従順が容易く、何の苦闘なしに出来たとするならば、そこには本当の意味での尊さはなかったでありましょう。
 本当の勇気とは恐れないと言うことではありません。そうではなく、極度の恐れの中にありながら、なお為すべきことを為すことであります。それこそ、イエスの勇気でした。そこには自己の死の恐怖と神への従順の熱情とが出会っていたのです。
 しかし、そこにおいてイエスは祈られました。そして確信に到達されました。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られた時には、不動の確信に達しておられたのです。
 イエスは自分が十字架の死に突き進んでいくなら、悪の勢力を滅ぼす何かがきっと起こること、罪の力に対して永久に勝利することを確信しておられました。さらに、イエスの十字架の死は、イエスを人々の中に永遠に住まわせることを可能にする神の出来事が起こることを確信しておられました。
 それではそのような確信はどこから来たのでしょうか。それはイエスの祈りに答えられた神の御声によるものです。
 これまでも、主イエスの生涯の展開は、祈りとそれに応えられた神の御声によってなされました。言い換えれば、イエスの生涯そのものが祈りでありました。すなわち父なる神との対話でありました。
 それはイエスが置かれた歴史的状況を心に深く止めて、思索し、そうすることにより、父なる神の計画と自分に与えられた使命を自覚されたのです。
 さらにそこから決断と実行とが生まれました。そして献身と苦労の日々が、すなわち愛の労苦の業が祈りそのものであったのです。つまり神との対話でありました。
 従いまして、イエスの為された祈りは単なる言葉ではありません。実行の伴わない空虚な言葉ではありません。あるとき、イエスは弟子たちに対して、「くどくどと祈るな」と命じられました。
 「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(マタイ6:7~8)
 イエスはご自身の祈りにおいて、父なる神の御心と自分に与えられた使命を知ることが課題であったのです。しかもそれを単純明快にすることを求められました。なぜならば神の愛とその働きは無限に深く、人智を遥かに超えたものですが、しかしそれは理論ではなく、実践すべきものですから、実に単純明快なものである筈です。
 これはわたしの想像ですが、イエスが実際に祈られたのは、すなわち祈りの言葉として口に出されたのは、ごく短い言葉だったのではないでしょうか。しかし、その短い祈りと次の短い祈りとの間には、実にイエスの思索と実践とが横たわっているのです。イエスは思索しつつ、実践し、神の御心を求める苦闘の中から、それらの労苦の結晶として、短い言葉にまとめられた祈りが出てきたのでありましょう。その短い祈りの言葉の中には、それまでのイエスの思索と実戦による経験が凝縮されているのです。それゆえ単純明快な短い祈りの言葉には無限に大きい意味と力が宿っています。
 このようなイエスの祈りに対して、神は常に明快な答えを与えられましたが、イエスがご自分に与えられた使命を果たすために決定的に重要な時点で、神は特に答えられました。
 それはイエスの生涯に三度ありました。
 最初は、イエスが洗礼者ヨハネから受洗された時のことです。そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の御声が天から聞こえて来ました(マタイ3:17)。
 次は、イエスが三人の弟子を伴って高い山に登られたとき、三人の目の前でイエスの姿が変貌し、神の御声が聞こえて来ました。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました(マタイ17:5)。
 この時、イエスは十字架に至るエルサレムへの道を選ぶ最終的決断をされたのです。
 そして今、十字架の試練を前にして、神の助けによって強められなければならない時に、神のみ声が聞こえてきたのです。
 「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」(ヨハネ12:28)。

(3)語られる神
 実に、神は沈黙される神ではありません。神はイエスに対してなされたことを、またわたしたちにもされる方です。
 人生の緊張が重くわたしたちを圧するときに、神は使命を達成させるために、語られます。そして神の御力をわたしたちの中に働かせられます。
 しかし、わたしたちに神の御声が聞こえないのは、神が語られないのではなく、わたしたちが十分に耳を傾けていないからです。
 神の言葉は音声としてわたしたちの耳に聞こえるのではなく、聖霊を通して、直接わたしたちの心に神の意志を知らせる言葉であります。このことを良く認識しつつ、神に聞こうとする姿勢を持っていることが肝要です。
 従いまして、わたしたちは祈りつつ、実践し、神がわたしたちに与えられた使命を果たす人生を歩むことが大切です。この点について、宗教改革者カルヴァンは次のように教え、祈りに三つのルールがあると言っています。
 第一のルールは、神への畏敬の念です。

 神は人間の思いを越えて、恵み深い、真実な、全知全能の神であります。神はわたしたちの隠れた所をすべてご存知であり、祈る前からわたしたちに必要なことをすべてご存知です。従って、わたしたちは畏敬の念をもって、正直に、信頼をもって、簡潔に祈らなければなりません。わたしたちは自分の思いを集中させ、何を祈るかを明確にしなければなりません。さらにそのためには、神がわたしたちに与えられること以上のものを求めないことが重要です。
 第二のルールは、わたしたちは神の御前に生きるために最も大切なものを自分の中に何も持っていないことを自覚している点です。 
 そのような貧し者を神は主イエスを通して、わたしたちを愛してくださる恵み深い父でありますから、わたしたちに対する神の御心を知ることを求め、さらにそれを実践する力と命と自由を求めることです。同時に実践することです。
 第三のルールは確信に満ちた希望を持って祈ることです。
その確信の根拠は主イエス・キリストです。「キリストはわたしたちの義となり、聖となり、贖いとなられました」(コリント一、1:30)。このキリストがわたしたちのために、神の御前に立っておられことが、祈りが聞かれる保証です。

 それゆえ、神は罪深いわたしたち、しかも祈るべき言葉も知らないわたしたちでありましても、つねに罪の赦しを持って、わたしたちと出会い、豊かな恵みを与えてくださるのです。
 最後に神が祈りを聞き上げてくださることは、主イエス・キリストがわたしたちの存在と心の中に働いてくださることです。
 「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:35)、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)、「わたしは復活である」(ヨハネ11:25)と仰せになった主イエスが聖霊を通して、わたしたちの中で働いてくださること、実にこれこそわたしたちの祈りに対する神の答です。



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