2013-07-21(Sun)

恵みの正しさ 2013年7月21日の礼拝メッセージ

恵みの正しさ
中山弘隆牧師

 高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり。へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように、わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために。わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
イザヤ書57章15~19節


 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章1~16節


(1)神の愛のイニシャティブ
 本日の聖書の箇所でありますマタイによる福音書20章1~16節には神の国の譬えが記されています。イエスはこの譬を通して、今やイエスを通して開始している神の国の特質を教えられました。この譬を読みますとイエスの心の中に脈打っている熱い思いが、わたしたちの心に直接伝わって来るように感じます。
 この譬えは、主イエスによる神の国の宣教にたいして、真っ向から反対していたファリサイ派の人たちに、神の国を弁明されたものと思われます。ファリサイ派の人たちは非常に熱心な信仰者であり、彼らの関心の的は正に神の国でありました。
 それゆえイエスが神の国到来を力強く宣べ伝えられましたのを一応歓迎したのですが、その反面、猛烈に反対しました。その理由はイエスが罪人の友となられたことにありました。イエスは罪人と食事を共にし、罪人に神の恵みを与えられたからです。
 それに対して、ファリサイ派は罪人と食事を共にすることは絶対にありませんでした。彼らは神の国に入るものは、律法を守り、正しい生活をしている者だけであると主張しておりましたので、罪人とは食事を共にしなかったのです。
 当時のイスラエル社会では、エルサレムなどの都市部と、そこから遠く離れた地方とで、生活レベルの著しい格差がありました。田舎の住民の生活は貧しく、朝早くから夜遅くまで働いても、やっと食べていける程度で、生活には少しも余裕はありませんでした。
 従いまして、彼らは神を信じていましたが、生活に追われて聖書を勉強する時間は全くありませんでした。そのため、彼らは神の戒めを几帳面に守ることはなかったのです。
 他方、ファリサイ派の人たちは律法を学び、その一字一句にまで精通していましたので、自分たちの知識を誇り、聖書に対する無学な人々を軽蔑しました。そして律法について詳しい知識を持っていないものを、「地の民」と呼びました。これは「田舎者」と言う意味で、全く軽蔑用語です。
それに対して、イエスの宣教の重点はイスラエル社会の失われた人たちを尋ね出して、彼らに神の救いを与えることでありました。
 イエスは神から遣わされた救い主として、自分に与えられた使命は、神の愛のイニシャティブをご自分の言葉と行動をもって示すことにあると確信しておられました。それゆえ、イエスは神がすべての人間を愛し、その罪を赦し、神との交わりに入れようと決定された神の意志と行動を、ご自身の言動を通して現されたのです。
 しかし、これは非常に勇気を要することです。イエスは神について教えられただけではありません。神の意志と決定をご自分の態度と行動を通して現されたのです。
 その結果、イスラエル社会における長い伝統によって、自分たちの考え方に権威を持たせている律法学者やファリサイ派と真っ向から衝突することになりました。
 正に、イエスは御自分の命をかけて、神の決断を具体的に示されたのです。その結果、病人は癒され、長年の苦しみから解放され、罪人は赦され、神の愛に生かされ、同時に神の愛を実行する新しい生活に招き入れられました。そこにはファリサイ派の人々が決して経験することのなかった感動と感謝と喜びとが満ち溢れたのです。 
 ファリサイ派から田舎者と呼ばれ、差別されていた人たちの中には反社会的な生活をしている人たちもいました。例えば、徴税人たちがいました。
 彼らは必要以上に税金を取り立て、私腹を肥やしていましたが、イエスの話を聞き、イエスの行動に接して、自分たちは罪深い者であるが、イエスは自分たちを心の底から赦してくださったことを知りました。同時に神様も罪深い自分たちをイエスによって赦してくださったことを信じたのです。
 まことに不思議なことですが、そのとき神の愛が彼らの心の中に働いたのです。それによって心の傷を癒す真の平安が与えられ、彼らは根本的に変えられました。
 そして直ちに神の愛を実行する者となったのです。このようにして徴税人の頭ザアカイは神を信じました。このとき、誰よりも喜ばれたのはイエスです。そして次のように仰せられました。
 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜しだして救うために来たのである。」(ルカ19:9~10)
このとき、ファリサイ派の人たちは、イエスに対して、「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った。」(ルカ19:7)と非難しました。このような状況の中で、イエスはこの譬話をされたのです。

(2)神の国の実体
 「天国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(マタイ20:1)
 この譬え話の内容は、神の国とは神の愛が働くところに他ならないと言えます。
 これは譬え話でありますので、神様をぶどう園の所有者として語っています。当時の労働時間は太陽が東から昇る日の出の時刻から、太陽が西に沈み、空に星が見えるようになる夕暮れまででした。それは8時間労働ではなく、12時間労働でした。そして賃金は一日、一デナリオンでした。
 このぶどう園の主人は、朝早く労働者が待っている広場に出かけて行き、労働者と合意の上で、正規の仕事を与えました。しかし、それだけではなく、何度も広場に出かけて行って、まだ仕事がなく遊んでいる人々を自分のぶどう園に送って働かせたのです。
 いよいよ夕暮れになって、その日の賃金を支払うときに、この主人はたった一時間しか働かなかった者にも、気前よく一デナリオンを支払ったのです。それは一時間分の賃金しか貰えなければ、家で待っている家族の食費が賄えないことを情け深いぶどう園の主人はよく心得ていたからです。
 この様子を見ていた朝一番から働いていた労働者たちは、きっと自分たちはもっと多くの賃金がもらえるであろうと期待しました。ところが、手渡された賃金は一デナリオンであったのです。
 このことが分かったとき、彼らは憤慨し、主人のやり方は正しくないと激しい不満を現しました。彼らは朝早くから夕暮れまで働き、しかも砂漠地帯から吹いてくるシロッコと呼ばれる熱風に耐えて働いた自分たちを、たった夕方の一時間しか働かない者と、どうして同じ取扱いにするのかと、抗議しました。それに対する主人の回答はこれです。
 「友よ、あなたには不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さを妬むのか。」(20:13~15)
 主人の釈明は、一日一デナリオンの約束で働いたのであるから、一日働いて一デナリオンの支払いを受けるのは極めて正当なことであると言うのです。6時間働いた者にも、3時間働いた者にも、1時間働いた者にも一デナリオン支払うのは、支払う側の気前良さであるから、人は率直に喜ぶべきではないか、と言うのです。
 この譬え話では、一時間働いた者とは罪人を表しています。一日中働いた者とはファリサイ派の人々を表しています。一時間働いた者の受け取った一デナリオンは、労働に対する報酬ではなく、恵みとして与えられたのです。
 しかし、それだけでなく、一日働いたファリサイ派の人々の受け取った一デナリオンも実は報酬でなく、恵みなのです。この譬え話の眼目は、人が神の国に迎え入れられるのは、自己の業に対する報酬ではなく、神の与えられる恵みであることを鮮明にしています。
 それに対して、ファリサイ派や律法学者たちは神の戒めを守ることによる自己の正しさによって、人は神の国に入ることができると主張して、熱心に信仰生活をしている人たちでありますので、神の国についてのイエスの譬え話を受け入れようとはしませんでした。
 彼らはイエスのいう神の平等は、神の国の実体を表していないと言い張って、神の国の実体を受け入れようとはしませんでした。

 彼らも神の国について、譬え話を造っています。それは次のような内容です。ある王は多くの家来を持っており、その中の一人は二時間しか働かなかったのに、王は他の家来と同額の報酬を与えた。そこで他の者たちは王の処置は公正でないと抗議をした。すると王はこの者は二時間で、他の者の一日分の仕事をしたのであるから、他の者と同じ報酬を受け取ることができると言ったのです。
 これが人は律法の業によって、救われる。救いは律法の業に対する報酬であるというのが、彼らの信仰の特質なのです。ファリサイ派の信仰は、神と人間との関係を主人と労働者との関係と見なし、神から与えられる救いは、労働に対する報酬と考えている点がよく分かります。この見方が律法主義なのです。
 それに比べてイエスの譬え話の趣旨は何と異質でありましょうか。神が人間に与えられる救いである神の国とは、神の無償の愛に生かされることを示しています。実に、これが神の国についての福音的理解です。

(3)無尽蔵の宝である神の恵み
 最後に、神の恵みは人間の労働の報酬として与えられるには、あまりにも大き過ぎるので、無償で与えられるのです。
 なぜならば、神の恵みとは人間を神との人格的な交わりの中で生かすことであり、人間を神の交わりの対象とすることでありました。
 これは神ご自身が愛であるゆえに、そして神は万物の創造者であり、人間の救済者でありますから、他のいかなる者にも制約されない絶対的な自由と主権を持っておられる方です。それゆえ、神ご自身の絶対的な自由によって、人間を交わりの対象に選ばれたのです。
 それは神の国において、信仰者が神の性質を反映させる人間となり、神との交わりの中で、神の御前に永遠に生きるためです。このような恵みは、人間の努力による善い業と自己訓練によって実現できる種類のものではありません。
 実に、そのような神の救いは、人間のために、神の御子イエスにおいて、人間に神がご自身を与えてくださったことによるのです。神との交わりの障害となっている人間の罪、すなわり、人間の高慢と貪欲と不信仰を取り去るために、神の御子が全人類のために死なれたのです。そのことによって、父なる神は神の御子イエスを死人の中から復活させ、主イエスを神の国の支配者となし、人間と万物の主権者とされました。
 今や、そのことによって、神は聖霊を教会に送り、聖霊を通して、主イエスを信じる者となし、聖霊によって、クリスチャンが復活の主イエスと結びつき、主イエスの義と命と自由を受け、神の意志を実行することによって、神の性質を映し出す者としてくださっています。
 わたしたちが神の国に生きると言うことは、実質的に言えば、すでに父なる神がすべての人間を主イエスの中で新しい人間として創造されて、主イエスの中に保存しておられることなのです。
 それゆえ、聖霊によって、神の愛がわたしたちの人間の中に絶えず働いているのです。神の愛とは、主イエスにおいて、神がご自身を人間に与えられたことです。この神の愛は決して人間が本来持っている愛ではありません。従って人間の所有物ではありません。
 しかし、神の愛が人間の中に働き、押し迫り、人間に既に与えられている主イエスの義と命と自由を使用させることにより、神の意志である善い業を人間に行わせるのです。
 言い換えれば人間は祈り、聖霊の働きによって主イエスの思いを自ら考え、自己を神と隣人に献げ、自ら進んで、感謝し、喜んで、しかも、自らを誇らず、善き業をなし、神が主イエスにおいて、一人一人に定められた人生を歩むことです。
 これが人生の本当の意味です。同時に永遠の神の国に連なった生き方なのです。それゆえ、人は誰でも聖霊によって主イエスと結ばれ、主イエスに従う生き方をしなければなりません。
 しかし、それは同時に、主イエスが聖霊を通して、わたしたちの中に働かれることなのです。それゆえ、パウロはガラテヤ人の手紙の中で次のように言っています。
 「生きているのは、最早わたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)
 このような生き方は、人生の最後の一時間でもあっても最も意義あることです。勿論人生の大半をそのように過ごせるならば人は幸いです。しかし、どの人に対しても神の愛と恵みは等しいのです。



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