2013-07-07(Sun)

神の真実とわれらの信仰 2013年7月7日の礼拝メッセージ

神の真実とわれらの信仰
中山弘隆牧師

 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても、主を尋ね求めようとしない。エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするとき、わたしはその上に網を張り、網にかかった音を聞くと、空の鳥のように、引き落として捕らえる。なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、わたしには背を向けている。わたしは、彼らを教えてその腕を強くしたが、彼らはわたしに対して悪事をたくらんだ。彼らは戻ってきたが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。高官たちは自分で吐いた呪いのために、剣にかかって倒れ、エジプトの地で、物笑いの種となる。
ホセア書7章10~16節


 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
マルコによる福音書9章20~29節


(1)悲惨な現実と不信仰
 「群衆は皆、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄って来て、挨拶をした。」(9:15)
 彼らはイエスがちょうどよい時に戻って来られたのを見て、驚きまた喜んでイエスのもとに駆け寄り、挨拶をしました。しかしただそれだけでなく、ここで「非常に驚き」となっています言葉は、他の箇所でも使われています。
 例えばイエスが復活されたことを知らせるために天使が現れ、それを見た婦人たちが非常に驚いたと記されているように、この驚きは神の救いが現れる時と関係しています。それは人間が困窮と悩みの最中にあるとき、神の救いと助が人間の全く予期しない方法で突然現れたことを意味しています。
 それでは、ここで人々はどのような状況の中にいたのでありましょうか。彼らは悲惨な現実の袋小路に突き当たり、今まで持っていた彼らの信仰が無力となってしまいました。
 むきになって弟子たちを非難し、弟子たちの側でも必死になって自己弁護していたのです。
 イエスが「何を議論しているのか」と尋ねられると、父親は「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。----この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9:17~18)と言っています。このように人々は弟子たちができなかったことに対して、失望し相手を非難していますが、それは同時に自分たちの不信仰を露呈しているのです。イエスが見られた彼らの現実は、苦悩、議論、責任のなすりやいと言った混乱と不信仰の暗さでした。
 「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしの所に連れて来なさい。」(9:19)
 この主イエスの御言葉は、弟子たちと群衆との両方に向かって語られたものです。非難している群衆と弁護している弟子たちの立場は違っていますが、主イエスの目から見れば彼らは一番大切なものを見落としています。

 あたかも、よちよち歩けるようになった可愛い子どもが、二階から下の庭に落ちて大きな声で泣いているときに、親はすぐ二階から降りて行って助けないで、夫婦の間で、「お前が目を離したから悪い。」「いや、あなたがわたしに用事を言いつけたのが悪い。」と言い争っているようなものです。
 主イエスから見れば、弟子たちも民衆も共に、一番大切な信仰を持たないために、子どもを助けることができず、互いに言い争っているように映るのです。
弟子たちも民衆も神の救いのご計画においては、共に神の民となるべき者たちであります。それにも拘らず、神に対する信仰を頑なに拒んでいるのです。そこに主イエスの感じられる心の痛み、魂の嘆きがあります。
 「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」というイエスの言葉には、深い嘆息が伺われます。旧約聖書の預言者の嘆きが感じられます。
 エレミヤはイスラエルの民が悔い改めず、民が救われるときがいつまでも来ないので、断腸の思いを致しました。
 「刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。」(エレミヤ8:20~21)と言っています。
 また、イザヤも神の御言葉を繰り返して語っても、民の心は頑なで、一向にそれを悟る気配がないのを見て憂え、何時になったらそのような状態から脱出できるであろうかと、神に問うています。夜回りが朝の到来を待ちわびているように、イザヤは「主よ、いつまででしょうか。」(イザヤ6:11)と痛切な叫びをあげています。
 こうしたエレミヤの断腸の思いや、イザヤの切なる訴えが、主イエスの中で今一層強く現れています。
 「ああ、何という不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢できようか。」というイエスの言葉の中には、救い主として、十字架の道に進んで行かれる方の気持ちがよく現れています。
 イエスの言葉は、弟子たちや民衆に語られただけでなく、わたしたちに対しても語られているのだと思います。信仰が足りなくて、思い煩い、希望が持てず、右往左往しているわたしたちに対して、発せられた言葉であります。

(2)神の真実とイエスの信仰
 主イエスは耳が聞こえず、言葉が語れないと言う二重の障害を持っている子供に向かって、「その子をわたしの所に連れて来なさい。」と仰せられました。
 そのとき、子どもの状態は良くなる兆しを見せるどころか、かえって悪化しました。地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。イエスは「このようになったのは、いつごろからか」と尋ねられると、父親は「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。」と説明しています。
 そして絶望的な事態の中で、子どもの父親は、「おできになるならば、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」とお願いしました。
 父親は子を愛する一途の思いと藁をもつかむ気持ちで、イエスにお願いしたのですが、あまりにも絶望的な状況の中で、多分できないであろうと言う疑いが彼の心を重苦しくしていたのです。
 そこで、主イエスは仰せられるのです。
 「『できればと』と言うのか。信じる者には何でもできる。」(9:23)
この御言葉は主イエスの信仰を言い表しています。なぜならばイエスこそ信仰によってどんな事でもできた人です。それでは人間が神を信じる、或いは信頼するとはどういうことでしょうか。それには次の四つの点があります。
 第一に、神を信じる者は自分の弱さ、無力さを自覚しています。主イエスも本当にわたしたちと同じ人間の立場に身を置かれましたので、自分の弱さを熟知しておられました。なぜならば、主イエスはこの世の身分や富や権威と言ったものを一切持っておられなかったからです。それゆえイエスが神殿の境内で教えておられた時、祭司長や民の長老たちから、「あなたは何の権威によって、これらのことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」(マタイ21:23)と詰問され、非難されました。
 それゆえ、主イエスはただ神に寄り頼み、何事についても父なる神に祈られたのです。
 第二に、信仰とは神が全能者であることを信じるのです。信仰者は神がこの世界の創造者であると信じているのですが、本当に神は何でもできる方であると信じているか、どうかが問題です。
 主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」(マタイ19:26)と仰せられました。
 これが父なる神に対する主イエスの信仰です。神は何でもできると本当に信じておられたのです。
 第三に、主イエスは御自分の中に持っておられる神としての性質が、イエスの中に信仰を創りだし、その信仰はイエスにおいては生まれながらごく自然に働いたのです。
 それゆえ、主の祈りの中にある「アッバ父よ」と言う呼びかけは、イエスの幼いときからの祈りの言葉でありました。
 主イエスは本来「子なる神」でありますから、「父なる神」は主イエスの人間性の中に直接働き、ご自身の意志を知らせ、同時に実行する力をイエスに与えられましたので、イエスは父に寄り頼み、父に従い、父の意志を実行することを自分の喜びとしておられました。 
 このような父なる神と主イエスとの人格的な交わりは、信仰を通してであり、しかもその信仰は常に働いていることが当然であり、自然な状態でした。
 第四に、信仰にとっての実際問題は、「信じる者には、どんなことでもできる」という点です。この点において、人類の救い主としての力の秘密があります。
 主イエスが救い主としての使命を果たされたのは、実にこの信仰によって全能の神が主イエスの中に働かれたからです。
 主イエスは中風の患者に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言し、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ2:5~11)と命じられました。そのとき、長年患っていた病人は癒されました。
 わたしたちは主イエスが本来神の御子であるから、このような言葉を発せられるのだと考えがちであります。しかし、そのようにイエスが語り、行動されたのは、主イエスご自身の信仰を通してである点を見逃してはなりません。
 それゆえ、わたしたちの信仰と主イエスの信仰とは違いは次の点に現れています。
 「信じている者は何でもできる」というのが、主イエスの信仰です。わたしたちの場合は、自分の願いを果たしたいという欲望から、無理をして信じようとします。また自分は既に信じているのだと思い込みます。しかし、それは本当に信じていることではありません。それに対して、主イエスの場合には、何でもできるとごく自然に信じておられました。幼い時から、成人して、救い主の使命を果たすために努力しておられた時に至るまで、この信仰は一貫して働いていたのです。
 このような信仰が主イエスの地上の人生において存在したという事実は実に驚くべきことであります。
 従いまして、主イエスの信仰をわたしたちの信仰と比較しますと、信仰の第一の点である自分の弱さの自覚。第二の点である神の全能を信じる確信。これらの点はわたしたちの信仰と同じです。しかし、第三の点である信仰はごく自然であり、当然であると言うこと。第四の点である信じる者は何でもできると言う確信。これら二点が、わたしたちの場合と全く違います。
 また、別の視点から見ますと、信仰とは神の真実によって立つことです。神の愛と真理が人間の存在全体を貫く信仰が本当の信仰です。ゲッセマネの園で、主イエスは次のように祈られました。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
 神の御子として、そして人類の救い主として、心の中心にある願いは、父なる神の御心が主イエスを通して実現するということです。
 実にこの願いによって、主イエスは人類の罪を贖い、神の国が実現するため、十字架の死の犠牲を自ら進んで引き受ける決意をされたのです。それゆえゲッセマネの祈りの苦闘を通して、神の御心を知らされ、かつ十字架の死を全うする力を父なる神から受けられたのです。
 この点に関して、ヘブライ人への手紙は主イエスの信仰の完成はゲッセマネの祈りにおいて実現したと見ております。
 「キリストは御子であるにも拘らず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となれたのです。」(ヘブライ5:7~9)と言っています。
 それゆえ、わたしたちに対して、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)信仰の道を歩もうではないかと、勧めをしています。

(3)イエスに向かって叫ぶ
 病める子供の父親は、自分の前にこのような完全な信仰を持って立っておられる主イエスを見て、自分の不信仰を痛感しました。主イエスの信仰と自分の不信仰との違いを心に焼きつくほど鮮明に感じたのです。それゆえ彼はすぐ次のように叫びました。
 「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」(9:24)
 この信仰こそ正にクリスチャンの信仰です。クリスチャンは皆この主イエスの信仰の圧倒的な力に直面し、自らの信仰ではなく、主イエスの信仰によって立つ者です。二重の障害のために苦しんでいた子供は実に、主イエスの信仰によって癒されました。

 今や主イエスは十字架の死による人類の罪の贖いを、信仰を通して自らの使命として自覚し、信仰を通して父なる神から力を受けて、全うされました。父なる神は神の御子イエスを死人の中から復活させ、そして、イエスの中に神の御前に生きる新しい人間、言い換えれば神の子たちとしての人間を創造されたのです。
 それゆえ、復活の主イエスはわたしたちと対面されるときに、聖霊を与え、主イエスの信仰をわたしたちの中に働かせられます。同時に、聖霊を通して主イエスはわたしたちの中に働かれます。
 そのことによって、わたしたちは主イエスの中に創造された新しい人間として、主イエスの歩まれた道を、自分の人生の中で歩むのです。このことが主イエスの救いの中心部分なのです。



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