2013-06-23(Sun)

モーセの祈り 2013年6月23日の礼拝メッセージ

モーセの祈り
中山弘隆牧師

 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
出エジプト記32章7~14節


 このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
ヘブライ人への手紙7章22~27節


(1)イスラエルの背信行為
 本日は出エジプト記の32章~34章に亘って記されています事件を通して、モーセの祈りについて学びたいと思います。
 旧約聖書の信仰の基礎はエジプトの奴隷であったイスラエル民族が神によって解放された出エジプトの歴史であります。モーセは一方で奴隷の解放に反対するエジプトの王ファラオの弾圧と、他方でイスラエル民族から不信を受け、両方からの板挟みの中で神に祈りました。また、脱出後の荒れ野においても、様々な危機に直面して祈りました。しかし32章に記されている事件は、彼の生涯で最大の危機でした。
 それはイスラエルの民が世界に存続する意味に関わる根本問題でした。すなわち、イスラエルの民が金の子牛の像を造って、拝んだと言う事件です。
 「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、モーセがどうなってしまったのか分からないからです。」(32:1)
 このように民はモーセが不在の間、彼の代理を務めていたモーセの兄アロンのもとに詰め寄り、神の像を造るように強要しました。
 わたしたちはアロンが民の要望に応じて、どうして金の子牛を造ったのか不思議に感じます。彼はこのような偶像を拝んで、自分たちをエジプトから導き出された神ヤーウェを捨てようとしたのでしょうか。まさかそんな筈はないと思います。彼らはヤーウェを捨てようとしたのではなく、金の子牛の像を拝むことによって、ヤーウェを拝もうとしたのです。
 それは民が「我々に先立って進む神々を造ってください」と要求し、それに応えて、アロンが造った像に向かって、イスラエルの民は互いに「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言ったことから彼らの意図が分かります。
 彼らは自分たちを導いてこられた神はヤーウェであると信じています。他方では、ヤーウェの事柄が自分たちに一層よくわかるようにしたいと言う気持ちを持っていました。これまでは自分たちを導かれる神の性質や意志や行為は預言者であるモーセが語る神の言葉を通して、示されてきました。確かに神の御言葉を聞く限り、神の御心や導きは一応分かるのですが、それでも民の側からすれば不満な点がありました。
 神様はその時々に応じて必要なこと、大切なことは御言葉を通して語られますが、不必要なことは一切語られませんので、民は物足りなく感じたのです。言い換えれば、御言葉は信じることによってだけ、確かなものとなるのですが、それを信じるに足りる目に見える証拠は与えられませんので民は不安を感じるのです。
 モーセがシナイ山から降りて来ないので、彼らの不安が一層募りました。この際、神の事柄が目に見える形で、さらに自動的に分かるような方法で、神を礼拝したいと考えました。その結果、金の子牛の像を造ったのです。
 それでは、子牛の像は何を意味するかと言いますと、イスラエルの神ヤーウェの足台を象徴していました。彼らが子牛の像に向かって拝むならば、その上に立っておられる目に見えない神を自動的に拝むことになると考えたのです。
 しかし、これは生ける神、聖なる神、この世界と人間との創造者であり、同時に支配者である主なる神に対する不信仰であります。なぜならば、神は全知全能であり、人間の知恵と能力を超えて、働いておられる方ですから、人間は神を自分の思いでコントロールすることはできません。
 それに対して、人間が自分たちの手で造った一つの物体が神を象徴していると考えるならば、やがてそれによって人間が神をコントロールすることができると言う錯覚に陥ります。
 神に価値ある物を献げることによって、もっと大きな利益を神から引き出そうとします。献げ物によって神に恩義を与え、その代償を神から要求するのです。これはいわば神と取引ができるという考えです。
 これが偶像崇拝の特徴です。そこでは神が主であり、人間は僕であり、神に絶対的に依存し、神に聞き従うと言う神と人間との関係が逆転しています。そこでは人間が主であり、神は人間に仕える僕であり、人間が神を自分の思い通りに操縦するようになるのです。その行き着く先は、人間が神の性質や働きを決定しようとします。これが偶像崇拝の正体です。
 イスラエルの民は、金の子牛の前で、「主の祭り」を行い、「民は座って飲み食いし、立って戯れた」と書いてあります。
 これは当時のカナン地方で行われていた豊作の神を祭る仕方で、非常に不道徳的で、享楽的な騒ぎでした。
 従いまして、この出来事はイスラエルの一つの不祥事件という類のものではなく、正に神との関係を根本から破壊し、神との契約を破棄することでした。このようにして民は自分たちを選び、救われた神を拒絶したのです。

(2)神の怒り
 それに対して神はモーセに仰せられました。
 「わたしはこの民を見てきたが、実に頑なな民である。今は、わたしを引き止めるな。私の怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」(32:9~10)
 この時、モーセは神の御前に立って、民のために執り成し、祈りました。神はイスラエルの民を捨てて、その代わりにモーセから神の民を造ると言われました。しかしモーセは自分の栄光を求めず、イスラエルの民が神の民として存続することを願いました。
 わたしたちがモーセの立場に立つとしたら、どうするでしょうか。自分の栄光を求めるでしょうか。それとも民の栄光を求めるでしょうか。実にモーセは民に対する深い愛により、民の栄光を求めたのです。さらに、モーセは神の真実さに寄り頼むことにより、民のために祈る勇気を得たのです。
 「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意を持って彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。」(32:12)とモーセは神に問いかけています。
 神の真実に寄り頼んでいるモーセにとりまして、最大の関心は、神の御名が全世界に崇められることです。そのためには、イスラエルがもう一度赦され、地上に存続し、神を正しく告白し、神に従った生活をするようになることがどうしても必要です。神は御自身の聖なる御名のためにそのようにしてくださるに違いないと、モーセは確信しました。
 信仰のある人は、自分たちの生活が平穏無事であるときに、神に感謝し信頼するだけではありません。大きな打撃を受け、これから先どうして生きて行けばよいか皆目見当がつかないまま、一日一日をやっとの思いで過ごしている時にも、神の恵みと真実に信頼しているため、心に感謝と平安と喜びを感じているのです。
 モーセは正にそのような人でした。神がご自身の意志に忠実な方であるから、イスラエルの民に対して一旦決定された選びの恵みは、どのようなことがあっても保持されるに違いない。たとえ、民の側に裏切りや重大な罪があっても、神は一旦決められた恵みの決断を貫きとうされるであろう、と信じたのです。
 そのように神の真実に寄り頼み、イスラエルの罪が赦されるように祈ったのです。

(3)執り成しの祈り
 次に、モーセの二回目の執り成しの中で、次のように祈りました。
 「あゝ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦し下さるのであれば-----。もしそれがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去って下さい。」(32:31~32)
 ここで、モーセはイスラエルの民の罪が赦されるためならば、自分の命が取り去られ、また自分が神から永遠に切り離されても構いません、と神に対して祈ったのです。
 これは決して口先だけの事柄ではありません。わたしたちはともすれば口先だけで祈っている場合がありますが、モーセはここで本気でそのように決意しました。神の御前で決意し、そのことを祈りにおいて神に申し上げるならば、それは非常に重大な出来事なのです。神は人の心の中を見ておられる方でありますので、神の御前で誠実に決意することは、それを実行したのと同じ価値を持っています。つまり、その時点ではまだ実行されていなくても、やがて時が来れば必ず実行されるのであり、それは既に実行されたと同じ意味を持っているのです。
 神はこのような熱烈なモーセの執り成しの祈りによって、背信の民イスラエルを赦してくださいました。
 それでは、神が確かに祈りを聞き上げてくださったことは、どうして分かったのでしょうか。
 それは神がモーセに語り、神ご自身の性質を示してくださったからです。そのようにして、神の大いなる力がモーセを捕らえました。
 34章5節で、「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」とあります。これは神が自身の本質を啓示されたことです。
 「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(34:6~7)
 この御言葉は、神がいかなる性質の方であるかについて、旧約聖書における最高の啓示となりました。ここで最も中心的な内容は、「神が無限に恵み深い方であり、罪人を赦される方である」ということです。しかも「無限に正しい」神が、実に「罪と背きと過ちを赦される神」としてご自身を示されたのです。
 そしてこの時、「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。」(34:6)とあります。これは注目すべき言い方です。一陣の風が吹いてきたときのように、或いは闇を突いて、明るい光が射し込んできたときのように、一瞬の出来事でありました。
 しかし、そこには生命の躍動があります。シナイ山の岩の上に一人で立っていたモーセに、光と生命が一瞬、彼の前を通り過ぎたように思われました。そして、次の瞬間には、すべてが以前の状態に戻っており、広い青空と岩肌のシナイ山が静まり返っていたのです。 
 しかし、モーセの状態は以前とは全く異なっていました。今や彼は聖なる神が共にいてくださることが確信できたのです。そのとき、モーセは共におられる神がすべてのものを包み込んでおられることを力強く感じました。

(4)主イエスの十字架の祈り
 それに対して、主イエス・キリストは全人類が本当の意味で神の民となるために、十字架の死において、全人類のためにご自身の命を献げ、執り成しの祈りを献げてくださいました。ルカによる福音書は次のように伝えています。
 「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:34)
 イエスはこのように全人類のために罪の赦しを祈られました。しかも、十字架の死において、人類の罪を引き受けて死なれ、同時に死に至るまで父なる神の御心に従順であったことにより、人間の正しさを人類のために実現して下さいました。神はこのイエスを死人の中から復活させ、神の国の支配者とされました。
 それゆえ、今や主イエスを信じる者は罪を赦され、神との人格的な交わりに入れられました。それは信じる者が神に従うことによって、神の性質を映し出す人間となるためなのです。
 ここに旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神でありますが、神が人間に与えられた救いの内容が違うのです。旧約聖書の救いは歴史を支配する神の力によって、イスラエル民族がエジプトの奴隷から解放されたことです。それに対して、新約聖書の救いは人間が罪の束縛から解放され、神との人格的な交わりの中で生きる者となったことです。その救いは神が御子イエス・キリストを通して、ご自身を人間に与えられたことによるのです。
 しかし、神の救いは一つであり、最初から神の目的はキリストによる救いを実現することであり、旧約聖書の救いはキリストの救いをもたらす準備の段階であります。
 それゆえ、旧約聖書のイスラエルは生まれながらの人間であり、聖霊を持たない肉的なイスラエルです。それに対して、新約聖書のキリスト教会は、主イエス・キリストの中に自分の新しい存在を与えられた人間であり、聖霊によって生きる神の民、すなわち霊的イスラエルなのです。



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