2013-06-09(Sun)

癒されるナアマン 2013年6月9日の礼拝メッセージ

癒されるナアマン
江田めぐみ伝道師

 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
列王記下5章1~14節


 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙3章10~24節


 皆さんは、聖書を初めて手に持ち開いた時はいつ頃でしたか。
私は、クリスチャンの家庭に育ちましたので、物心がついた時から、聖書は絵本を読む頃より身近にあり手にすることができました。又、日曜学校では、聖書を開き神の御言葉を聞く機会が与えられておりました。特に大人の礼拝へ出席している時には、(説教中)静かに絵本を読んだりしていて、一緒に賛美をし、お祈りをして御言葉を聞くことが、小さいうちから身についておりました。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書として六十六の部分によって構成されておりますが、一つの書であり、一つのテーマ、ひとつのメッセージを持っております。そのメッセージとは、神が罪人である私たちのために何をしてくださったか、ということなのです。聖書は最初から最後まで、この唯一のメッセージで貫かれているのです。
 旧約聖書はしっかりとした文章で書き定められた言葉であり、それに対して新約聖書は口で語られている、生きた言葉であるなどと。すでに旧約聖書がかなりの部分、特に預言者が遣わされて語った言葉では、口頭で語る言葉から、出発しており、後になって礼拝の中で、読み上げられ、そして解説されたのです。


 聖書の中には、罪の結果としての悲惨な状態におかれている人間の姿と、そこから逃れようとして失敗している人間の様とが、描かれております。けれども神は、私たち人間のために、神がそのひとり子を通して設けてくださった救いの道について、聖書は掲示しています。これが聖書全体のメッセージなのです。
 旧約聖書においては、このメッセージは様々な例によって、贖いの預言として示されているのです。全ては予告として指し示しているのです。新約聖書の福音書では、起きた出来事それ自体が描かれております。福音書以外新約聖書では、出来事を振り返る形で更に詳しく説明され、解説されております。

 列王記下においても、罪の中で苦しむ人間の姿と、その人間を神がどのように扱っているかが、描かれております。
 人間と罪は常に結びついております。もし罪がこの世に入り込まなかったなら、不幸な人などいなかったでしょう。罪がやって来るまで、人間には不幸は存在しなかったのではないでしょうか。罪がすべてを破壊してしまいます。完璧に幸せな人など一人もいないのです。皆何かを失っています。

 ナアマンは英雄でありました。そして、勇敢さは優れたものでした。しかし、彼は病気にかかっておりました。彼の人生にはかけた部分がありました。彼の病気は思い皮膚病を患っていたとありますが、それは、ツァラアトと言って当時最も恐れられた病気の一つでありました。ツァラアトの中には感染力が強いものがあり、多くの場合不治の病であり、最悪の場合には死につながったのでした。ですから、多くのツァラアトの患者は町から追放され、隔離されて生活しなければなりませんでした。
 ナアマンはまだ将軍の地位であったので、おそらく病状は穏やかであったのか、初期の段階であったと考えられます。

 アラムはイスラエルの北東で接しておりましたが、両国が友好的な関係を持つことはほとんどありませんでした。ダビデ王の時代アラムは、イスラエルに税を納めておりました。エリシャ時代アラムは、力を増して、イスラエルに略奪を起こしました。略奪に成功するとイスラエルの捕虜がアラムに拉致されることが頻繁にありました。そんなことで、ナアマンのはしためは家族のもとから拉致されたイスラエル人でありました。皮肉なことに、ナアマンの癒される唯一の希望はイスラエルからやって来たのでした。

 いたいけな奴隷の少女は、ナアマンがどこに言ったらいいかを女主人に言いました。「ご主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」(列王記下5:3)このように少女は知っておりましたが、けれどもほかの人は誰も知りませんでした。癒しは確かに存在するのですが、しかし、ナアマンも、その妻も、アラムの王もイスラエルの王も。何一つ知らなかったのです。この世に癒しがあることなど知ることもないし、捜そうともしないのです。彼女が女主人に告げた一言が、アラムの力ある将軍に癒しと神への信仰をもたらしたのでした。
 
 ナアマンは、自分を癒してくれる預言者のもとへ行きました。生かし、病を抱えたまま帰ることに危うくなりかけるのでした。なぜならば、ナアマンのうちには誤った部分があったからでした。彼のうちには病だけでなく、他にも問題があったからです。それが危うくナアマンから癒しから遠ざけるところでありました。

 この世も同じような状態にあるのです。御言葉はこの箇所を通して、今もなお人類のあらゆる問題を解く鍵を提供しております。
この世においては、醜い争いや、不平不満が充満しております。もし、聖書の御言葉を信じて、山上の説教や十戒を守っているならば、不誠実や道徳や醜い争いは怒らないでしょう。もし私たちが主イエス・キリストを信じて、キリストの力に繋がっているなら、何も問題はないのです。

 ナアマンは、贈り物、金銭、衣服、その他もろもろを備えて到着しました。戦車に乗り、馬を従えて、エリシャの家の入り口にやって来ました。預言者の家の前には、ナアマンを始め、いく頭もの馬、戦車、贈り物、そして従者たちで埋め尽くしているのです。すると、エリシャは使いの者をやってこう言われました。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」(列王記下5:10)ナアマンは癒されるためにそこに行ったのではなかったか。それなら癒される方法はこうだと、エリシャは言うのです。けれどもナアマンは怒って去る時に言いました。「彼が自ら出てきて、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」(列王記下5:11-12)そうして、ナアマンは、人はいかにして救われるかについて自分の見解を言うのです。川で洗うという事ならば、このみすぼらしい国やその川よりは、自分の国の川の方がはるかにまさっているではないかと、ナアマンは 怒りながら去ったのでした。これが、その事はどうあるべきかについてのナアマンの考えでありました。判断を誤ったことは、ナアマンの王も同様でありました。王はナアマンにかなりの贈り物を持たせておりました。ナアマンは王の紹介状と、銀十キカル(タラント)と金六千シェケルと晴れ着十着をもたせていたのでした。
 ナアマンはエリシャの家に来て、贈り物を受け取るようにしきりに願いましたが、エリシャは断りました。なぜならば、エリシャが仕えている主は生きておられる主だからです。
 ナアマンにはそのことが、まるで理解出来ませんでした。救いについての彼の考えが全く間違ったものであり、生まれながらの人としての問題を持ち続けていたからでありました。エリシャのとった行動は、ナアマンにはとても理解できないものでした。
 
 エリシャがナアマンに届けたメッセージは、ただ行って、ヨルダン川に七回自分の体を沈めよ。そうすればあなたは癒される。あなたの病は除き去られる。それを聞いたナアマンは怒りました。生まれながらの人は、今でもそう拒絶反応を示すのです。
福音の示す救いの道は、子どもじみた屈辱的なものに思える、ナアマンもそうであったように、私たちは皆、何かもっと優れた事を求めるものであるのです。

こうして、彼は怒って帰路へ着こうとしました。ここで描かれているようなことは、1コリント2章で述べられております。
ナアマンは敵意を抱くあまり、腹を立てながらその場を離れてしまいました。

 ナアマンは偉大な将軍であったので、イスラエルの王を訪ね、そして預言者の家まで足を運んだのに、特別な扱いをされることなく、彼の期待を裏切るようなことになり、ナアマンのプライドは傷つけられてしまいました。自分のような地位にある者が、単に伝言を告げられるだけというようなことは、考えてもいませんでした。
なぜ預言者自身が出てきて、直接挨拶や言葉がないのか、又、預言者自身が出てきて、「この患部の上で彼の手を動かして」病を癒されないのか。エリシャは姿をみせませんでした。ナアマンはそのように扱われたので、憤慨しながら去って行きました。

 今日ここにおられる人の中にも、今まさに同じ状態に置かれている人もいらっしゃるのではないでしょうか。それは、どういう意味かというと、福音が第一に宣言しているのは、神の家においては何の区別も違いもないのです。それはあなたがこの会堂の外ではどんな地位にいる人であれ、一歩この中に入れば、他の人と何の違いもないのです。神の教会には、人間の頭はいないのです。教会はただ一人の主、イエス・キリストがおられるだけであるのです。ここでは人の間に何の区別も違いもないのです。けれどもこの点が人間には気に入らないのです。
 神の教会においては、知識人だからといって区別されたり、特別扱いされたり、高い学歴であったり、お金持ちであっても、教会へ来れば、皆と全く同じ立場であるのです。


 「正しい者はいない。一人もいない。……人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:10-24)

 エリシャは外に出て来て、ナアマンを受け入れ、特別に扱ったりすることはなかったのです。ナアマンは、病にかかっている他の人々と同じ一人の病人でしかなかったのです。どうして彼だけが特別扱いされなければならないのか。ナアマンに必要なことは病が癒されることであり、預言者はそのためにどうすべきかをきちんと伝えていたのです。
 しかし、ナアマンは感情をむき出しにして、「怒って去り、言ったのです。」

 福音は語ります。これだけが唯一の救いの道であって、他には道はないと。ナアマンによって試みられましたが、解決にはならないのです。全てが空しく、神が備えられた道は、ただ一つ、神のひとり子、ナザレのイエス、このお方だけが世界の救い主であるのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれでもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント3:11)「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架に付けられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Ⅰコリント2:2)人が救いの道をほかに見つけ出す可能性はありません。ここにだけ、癒しはあるのです。
 それは決して置き換えることはできません。ナアマンは、エリシャのもとを憤慨して故郷に帰ろうとするのを見て、彼の家来たちが近付いて来ていさめました。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりになさったに違いありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」(列王記下5:13)もしナアマンが怒りのうちにその場を去り、アラムに帰ってしまったとしたら、彼は病人であり続けたでしょう。やがて、その病は死に至るまで、ナアマンの体全体に広がっていたでしょう。
 ナアマンは家来の説得に耳を傾け、確かにその通りだと、納得したから、「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。」(列王記下5:14)それは、ナアマンには覚悟が必要であったことでしょう。ナアマンの立場を考える当然のことです。しかし彼は、エリシャが言ったようにした時「彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」(列王記下5:14)

 私たちも、心から主イエス・キリストを信じましょう。そうすれば救われるのです。今この瞬間、自分の罪を神に告白しましょう。自分の無力さや愚かさを神に告白するのです。神に語りかけるとき、「私は、充分に理解することは難しいですけれども、あなたのメッセージを聞きました。私は信じます。心から信じてあなたを信じます。私は、イエス・キリストが神の子であられること、わたしの罪のために死なれたことを信じます。主よ,哀れんでください。聖霊によって私の心を照らしてください。どうぞ少しでも理解できるようにしてください。」そう神に告白しましょう。神は間違えなく、あなたを赦してくださることでしょう。すると、あなたの罪は、ぬぐい去られ、新しく生まれ変わり、新しい命をいただくことができるのです。幼子のようになり、神の子となることができるのです。そして、聖霊が心のうちに入ってくださるのです。

 
神はそのひとり子を世に遣わしてくださいました。私たちのために、私たちの救いのためにしてくださいました。そうしてその唯一の救いの道は、私たちのために御子が死んでくださいました。置き換えるものはなにもないのです。これだけが、唯一の救いの道であるのです。
ナアマンの病は癒されました。彼の体は元どおりになり、そして清くなりました。
 あなたもまた、自分の罪という病から清められることができるのです。清めはあなたのうちから始まります。やがて神の前で、栄光のうちに完全なものとされます。神に従い永遠の命に預かりましょう。



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