2013-05-05(Sun)

新しく生まれなければ 2013年5月5日の礼拝メッセージ

新しく生まれなければ
中山弘隆牧師

 打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか。獲物もないのに、獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせず、若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。餌が仕掛けられてもいないのに、鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに、罠が地面から跳ね上がるだろうか。町で角笛が吹き鳴らされたなら、人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか。まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなされない。獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。
アモス書3章3~8節


 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 
ヨハネによる福音書3章1~15節

(1)新しく生まれる必要
 ここに、ニコデモと言うユダヤ人の指導者がイエスのもとに来たときのことが記されています。
3章2節に「ある夜、イエスのもとに来た。」とありますが、彼は人目をはばかって夜こっそりと訪ねてきました。彼はイエスの弟子になりたいという願いを持っていましたが、ユダヤでは統治権をもつ議会の議員の一人でありましたので、公表を差し控えておりました。いわば彼はイエスの隠れた弟子でありました。しかしイエスが十字架の死を遂げられたときには、公然とイエスの死体を引き取り、自分が造った新しい墓にイエスの死体を納めました。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
 このように彼なりにイエスに対する信仰を表明しました。イエスはこの表明を一応受け入れた上で、さらに一歩進めて次のように仰せになりました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
これはニコデモの最大の関心が「神の国の到来」であったことを表しています。と言いますのは、イエスの神の国宣教に先立って、洗礼者ヨハネによる「悔い改めの洗礼」が宣教され、イスラエルの人々の間に神の国到来に対する期待が非常に高まっていた時期であったからです。この状況がニコデモとイエスの会話の背景になっています。
そこでイエスは、「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われたのです。またその言葉には、「あなたはわたしが神から遣わされた者と言うのか。あなたがわたしを本当に理解し、わたしの居るところにあなたも居るためには、あなたは新しく生まれなければならないのだ。」と言う意味も含まれています。
このイエスの言葉を聞いて、ニコデモは大変驚きました。なぜならば、彼は神の国が到来するということは、人間の住んでいる社会環境や政治体制が根本的に変革され、そのような領域に神が直接的に介入されることであると考えていたからです。
 それに対して、イエスは「神の国がわたしの宣教と共に始まっているのを見ることができるためには、あなたを取り巻く環境が新しくなることではなく、あなた自身が新しく生まれなければならない。」と言われたのです。
イエスはこの点を強調して三度も繰り返されています。特に7節はこのことを強調しています。
「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。」(3:7)
 この「新たに生まれなければならない」と言うギリシャ語の表現は「絶対に必要である」という意味の「必然性」を現しています。
ニコデモはイエスのこの重大な発言を聞いて、ますます驚き、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論しています。
ここで「新しく生まれる」というイエスの言葉には、「上から生まれる」と「再び生まれる」の両方の意味が含まれていますので、イエスは「上から生まれる」と言う意味で使用されています。
5節で、「だれでも水と霊とによって生まれなければ」とイエスは言っておられますが、水は「洗礼の水」を意味し、霊とは洗礼を受けるときに与えられる「聖霊」を意味しています。従いまして、イエスが新しく生まれると仰せになった意味は、人が聖霊を受けることにより、上から、すなわち神から生まれる、と言う意味であることが分かります。
 それゆえ、人は聖霊を受けることによって新しく生まれるならば、神の国を見ることができると、仰せになりました。
ここで、「見る」と言う言葉は、目で見るという意味と、気づく、理解する、経験するという意味の両方がありますので、イエスは「理解する」、「経験する」という意味で使用されています。
それでは、人はどのよう仕方で新しく生まれることができるのでしょうか。聖霊とは父・子・聖霊の三位一体の神でありますから、聖霊は物体でもないし、その働きは目に見えるものでもありません。従って、人は聖霊の働きを目で確かめることはできません。8節でイエスは次にように言っておられます。
「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」(3:8)
 風は吹きましてもその通り道を見ることができませんが、風の作用を人間は受け、風の効果を体に体験することができます。そのように、聖霊が人間に与えられることによって、人は主イエスの中に自分の存在を持つ新しい人間に生まれ変わるのです。
わたしは牧師になった当初、千葉県の木更津教会で二年間牧会しましたが、北九州市で長年牧会されました村上先生を伝道礼拝にお呼びしました。説教の中で、「福音の中心はいうなれば人間の魂の入れ替えです。」と語られた先生の言葉に強い感銘を受けました。
しかし、魂の入れ替えとは、その人が全く別人になってしまうことではありません。魂の入れ替えをしても、人格のアイデンティティーは保たれているのです。
 「魂の入れ替え」とはわたしたちの存在の基礎が入れ替わるという意味で、わたしたちの基礎が自分の中から主イエスの中に移されるということです。そのとき人は本当の意味で主イエスの思いを第一として、イエスの思いに従って、行動するという意味です。

(2)神の国に生きる
 次に、神の国とはどんな国なのでしょうか。聖書で言う神の国とはわたしたちの中に働く神の支配のことです。しかし、それは神が全知全能でありますから、地上に起こる一切のことが神の支配の中にあるのと同様にわたしたちの人生の一切のことが神の支配の中にあるという意味ではありません。
そうではなく、父なる神の意志と霊的な力が主イエスを通して、わたしたち人間の中に働くことによって、人間が自ら進んで、神の意志に従い、実行するという極めて人格的な事柄が、神の支配なのです。
それゆえ、人は聖霊を与えられることにより、聖霊を通して主イエスと結びつき、主イエスの義と命を受け、神の御心を知り、神の御心を実行することにより、感謝と喜びに満ちた人生を歩むのです。 
 これこそ神の国に生きることです。神の国は命と自由と活発な行動の満ちている国です。
英国の詩人ワーズワースは詩の一節で次のように歌っています。
「天から快い息がわたしの体に吹いてきたとき
 内側ではそれに対応する、穏やかな、創造的なそよ風を
 わたしは感じた。
 自らが創造したものを越えて、優しく渡りくる
 命に満ちたそよ風を。
 それは被造物を悩ませる 有り余る活力の大嵐となった。
 知られずにはおかれない力。
 長く続いた氷結を破り、春の希望と約束をもたらす嵐。
 活発な日々、品位と思慮、名誉な分野での手腕
 清い情熱、美徳、知識と喜び
 音楽と詩歌との聖なる人生を、約束し希望をもたらす。」
この詩は、そよ風がわたしたちの頬に吹いてくるとき、わたしたちの内側で、聖霊の風が吹いてきていることを象徴しています。
 頬にそよ風を受けて、命が蘇生するように、聖霊がわたしたちの中に与えられるとき、自由と生命の働きを経験し、人生に希望と喜びが湧いてくる体験を歌っています。
ワーズワースは、春を呼ぶ嵐が氷に閉ざされた長い冬を終わらせ、生命の活動を開始させるように、聖霊がわたしたちの中に吹いてくるとき、長く続いた罪による束縛と歪みと闇とからわたしたちを解放し、わたしたちの人生に春のような希望をもたらす、と歌っています。
 氷結により閉ざされた人生とは、人間が神から離れ、自分の中に閉じこもり、自分の思いに支配されていることを意味しています。自分の思いと衝動に駆られて自由奔放に生きることは、正に不自由な人生なのです。その人生は過ぎ行く人生であり、暫定的であり、無に向かう人生です。
それに対して、神との交わりの中で、神の国の義と命と光を受けて、行動することが自由の働きなのです。その働きの実は永遠に存続するのです。その存在は永遠なのです。このことを主イエスは次にように仰せられました。
「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(3:6)
 肉は過ぎゆく影のような存在であり、そこに将来性はないのです。それに対して霊は永遠に存続し、真に生ける存在です。
それゆえパウロは次にように言っています。「主の御業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないからである。」(コリント二、15:28)

(3)復活の主イエスと対面する
 最後に、聖霊の主な働きは、人間を主イエスと結ぶことです。それゆえ聖霊を通して、主イエスがクリスチャンの中に働かれるのです。さらに主イエスが支配される自由と命に溢れる神の国は、聖霊が働く場所なのです。
 なお、わたしたちが聖霊を受けるためには、復活の主イエスと対面し、主イエスを信じることが必要です。しかし、先手を取られる方は主イエスです。主イエスは神から離れ、闇の中をさまよっている罪人を自ら探し求め、主イエスの方から近づかれます。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする。」(ヨハネの黙示録3:20)

具体的に言えば、主イエスの福音が語られる所に、主イエスが臨在され、主イエスご自身が福音を語られます。そのとき人は既に主イエスと対面しているのです。同時に主イエスは対面する者の中に聖霊を通して働いておられるのです。
従いまして主イエスはニコデモにこのように仰せになっています。
「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(3:13~14)
「モーセが荒れ野で蛇を挙げた」というのは民数記21:8~9に書いてありますが、青銅で造った蛇を旗竿の先に掲げたとき、蛇にかまれた者は、青銅の蛇を仰ぐと、一命を取り留めたという故事によっています。
これは主イエスが十字架につけられたことの象徴です。ヨハネによる福音書の特徴は、主イエスの十字架の死を復活・昇天と分離したものとは見なさず、一つの出来事として見ていることです。主イエスの十字架を仰ぐとき、人は復活・昇天の主イエスを仰ぐことになるのです。そこで復活し、天地の支配者となられた主イエスと出会うのです。
その時、人は聖霊を受けるので、新しく生まれることができると主イエスはニコデモに仰せになりました。
しかし、話は多少複雑になるのですが、「「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」という発言は、地上におられた時のイエスではなく、復活の主イエスの立場を表しています。
 このようにヨハネによる福音書では、地上におられた主イエスと復活の主イエスが二重写しになっています。なぜならば、復活の主イエスは神の独り子が人間となって地上で神の国を宣教されたイエスと同じ人格でありますので、地上におられたイエスの立場で語られるからです。この時、人は復活の主イエスと出会っているのです。 
要するに人は復活の主イエスと出会うときに、聖霊を受け、主イエスと結ばれ、復活の主イエスが支配されている神の国に入れられ、この地上の生活の中で神の国の命に生きるのです。勿論それは最終的に到来する神の国の先取りとして生きるのです。



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