2013-03-31(Sun)

復活された主 2013年3月31日イースター礼拝メッセージ

復活された主
中山弘隆牧師

 どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
ヨブ記19章23~27節


 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
ルカによる福音書24章28~35節


(1)復活の事実
 本日は主イエスの復活されたイースターを記念するために礼拝を献げています。しかしキリスト教の礼拝は最初から主イエスの復活の日を覚えて礼拝するものでありました。
元々、旧約聖書で神が定められた安息日は土曜日でした。従いまして、ユダヤ教の時代になると神の民は、土曜日に会堂に集まり、礼拝を守っていました。今日でもユダヤ教の安息日は土曜日です。
 それに対してキリスト教では安息日を日曜日と定めました。その理由は、日曜日はキリストが復活された日であるからです。
なぜならば、旧約聖書における安息日とは、神の天地創造のみ業が完成したことを記念する日でありました。それに対して、今や主イエスの復活により、神の救いとキリストの支配される神の国が開始した日曜日を記念することが新約聖書の安息日であるからです。
このような主イエス・キリストの復活は、十字架の死と同様に人類の歴史の中で起こった神の事実であります。
イエス・キリストと初期キリスト教の歴史を調べてみますと、今日では不鮮明な部分が多いのですが、それでも最も確かなことがあります。それは神の国が今や開始したと宣教し、神の権威をもって罪の赦しを与えられた主イエスの働きは、イエスの十字架の死によって中止されなかったという事実です。むしろ十字架の死によって、神の国の実質が完成されましたので、主イエスの働きは、新しい形で、一層力を発揮しているという事実です。
神の力をもって、「神の国の福音」を宣教されました主イエスの出現は、自分たちの中に、神の国が存在すると主張していた当時のユダヤ教の指導者たちに非常な脅威となりました。彼らはイエスの教えがユダヤ教を根本から覆すに違いないと判断し、ローマ政府と共謀してイエスを十字架の刑に処しました。これで一件落着と彼らが安心したのは束の間で、状況は急速に変化し、彼らの予想に反する方向に進んでいきました。
弟子たちはイエスの十字架の死に遭遇して、失望とユダヤ教の指導者たちに対する恐怖を感じて、逃げ去ってしまいました。それゆえ、イエスによる神の国運動は自然消滅したかのように見えました。しかし、弟子たちは見違えるような勇気をもって、イエスによる救いとイエスが神の国の主権者となられたという「イエス・キリストの福音」を宣教し始めたのです。
このような弟子たちの驚くべき変化の原因こそ、イエスの復活であります。このことは何よりもイエスの復活が歴史の中に起こった神の事実であることを示しています。
イースターの朝以来、弟子たちの会話の中で繰り返された言葉があります。それは「本当に主は復活し、生きておられる。」「父なる神はイエスを死人の中から復活させられた。」と言う確信に満ちた言葉です。

(2)エマオ途上の弟子たち
 本日の聖書の箇所には次にように記されています。
「ちょうどこの日、二人の弟子たちが、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」(24:13~14)
スタディオンとは長さの単位で、約185メートルでありますので、エマオはエルサレムから11キロ離れた村でした。それは徒歩で約三時間の距離です。多分エマオは彼らの郷里であったと思われます。彼らはイエスが救い主であると信じて従って来た者たちです。ところがイエスはユダヤ教の指導者たちの陰謀によって、殺されてしまいました。深刻な挫折の中で、彼らは途方に暮れ、ともかく郷里に帰って以前の仕事に復帰しようと考えていたのではないでしょうか。
それでもイエスの十字架の死は、彼らにとって深い謎であり、なぜイエスは十字架にはりつけにされなければならなかったのか、との思いが彼らの心から離れませんでした。
ここで聖書は次のように言っています。
「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(24:15~16)
ここで復活された主イエスは弟子たちの所に来られ、弟子たちの人生を共に歩き始められたのです。
「一緒に歩き始められた」と言う聖書の言葉は、次のことを告げています。これはイエスが弟子たちを担い、弟子たちを導いてくださるということです。
さらに、このことの始まりが復活の日であったと言っています。13節の「ちょうどこの日」とはイースターの日のことです。イースターの朝から復活のイエスは弟子たちと共に歩み始められたのです。
ここで非常に注目すべきことは、人々がイエスの十字架を語り合っている場所に、復活のイエスが入って来られたという点です。しかし、これは二人の弟子たちの場合に限ったことではありません。誰に対しても言えます。
人が主イエスの十字架を仰ぎ、その意味を知ろうとするとき、必ず復活の主イエスはご自身を現わしてくださいます。
聖書はさらに告げています。
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自身について書かれていることを説明された。」(24:25~27)
このように復活のイエスは、旧約聖書において預言されている救い主についての御言葉を説明し、それはイエスの十字架の死において成就したと語られたのです。
ところで、この説明は地上におられたときのイエスの聖書解釈と全く一致しています。イエスの解釈はユダヤ教の考え方とは根本的に異なっていましたが、イエスは聖書を通して父なる神の意志を知り、救い主としてのご自分の使命は十字架の死により人類の罪を贖うことであると、理解し、確信しておられました。
当時の弟子たちはこのイエスの考え方を理解することはできませんでしたが、復活のイエスに出会って、今ようやく理解できたのです。キリストの十字架の死こそ、人類の罪を贖う永遠の効力を持っていることが分かったのです。
従いまして、クリスチャンは旧約聖書をイエスの考え方によって理解する者たちであります。そこがユダヤ教の聖書解釈とは根本的に異なっています。

(3)復活者イエスの命
 次に、重要なことは復活の主イエスが弟子たちを聖餐式に招かれたということです。30、31節にはこう記されています。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」
この極めて荘厳なイエスの振る舞いは、これが普通の食事ではないことを表しています。ここで聖餐式が執行されたといえます。もちろん、ここではパンだけが聖餐式に用いられており、ぶどう酒はありませんが、復活の主イエスがこのテーブルの主人として、パンを取り、父なる神に賛美の祈りを献げ、パンを裂いて二人の弟子に渡されたのです。これは最後の晩餐の光景と同様です。
聖餐式の意味は、主イエスの十字架の死が人類を罪から贖うために献げられたイエスの犠牲であったことを示しています。しかも、聖餐式において与えられる命は、十字架において献げられた主イエスの命であり、死の中から復活した永遠の命であることを示しています。
イエスは十字架の死において、わたしたち罪人が赦され、神の御前で生きるために、ご自身の義と命を与えてくださいましたが、そのイエスの義と命がわたしたちの中で働くためには、イエスが復活することが必要であったのです。
この二人の弟子たちは、復活の主イエスがパンを裂いて、二人に渡されたとき、この方が十字架について死なれたあのイエスだ、と分かりました。彼らの目が開けて、この方がイエスと同一人格を持った方であると分かったのです。
するとその瞬間にイエスの姿は見えなくなりました。
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24:31)
どうしてでしょうか。その最大の理由は復活のイエスは今や神として臨在し、人と出会い人の中に働いておられる方であるからです。
もちろん、イエスは神としての人格の中で、ご自身を人間と結び合わされた方であります。神の言葉が受肉された方であります。
それゆえ十字架のイエスも、復活のイエスも、ご自身の内に人間性を持っておられる神なのです。
地上におられたイエスは神でありましたが、神としての力を制限し、全く人間の限界内で働かれました。それゆえ、地上におけるイエスは隠れた神であると言えます。
それに対して復活された主イエスは神としての働きを前面に出し、イエスの人間性は隠されていますので、隠された人間と言えます。それにしても大切な点は、人間としての命を持っておられる神です。 
そしてわたしたちに聖餐式において与えてくださるご自身の人間としての命は、ご自身の神としての働きの中で、隠され、保持され、保管されているのです。
この復活のイエスを「主イエス」と言います。初期キリスト教会では、聖餐式の時、「主よ、来りたまえ」と祈りました。その言葉が「マラナ・タ」です。聖餐式をこのようにして守る度に、初期キリスト教のクリスチャンたちにとって、復活の主は目に見えない方ですが、聖餐式に臨在し、ご自身の命を与えられる方であることを体験し、主イエスを賛美し、主イエスに従う生活をしたのです。
「マラン」とは「主」と言う意味で、天地の「唯一の支配者である神」という言葉です。このように初期キリスト教は復活のイエスを「主」と告白しました。それゆえ、「イエスは主である」と言う告白は復活のイエスが神の国の支配者であり、全人類の救い主であることを告白し、賛美しているのです。
使徒パウロは次にように言っています。
「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」(コリント第二、3:17)
このように、復活の主イエスの神としての働きの現実を“霊”と言っているのです。
次に、主イエスの主権はこの世の支配者の権力とは全く異質です。この世の支配者は権力をもって、国民を自分の意志に従うよう強制します。
それと比べて、主イエスの主権はご自身の義と命を与えることによって、人間が自ら進んで、喜んで主イエスの意志を実行するようにさせるのです。主イエスの支配は人間の内部に働き、内的な力を与えることによって、人間が自発的に従うようにするのです。
神の国の支配者である主イエスはわたしたち罪人と十字架の死において、徹底的に連帯化し、人間の罪と死をご自身で負い、ご自身で達成された義と命とを罪人に与えられる方です。
そうすることにより、わたしたちを罪と死の力から解放し、神の御心に適うことを実行するようにしてくださるのです。そのように一人一人とご自身を結び合わせ、一人一人を導いてくださるのです。それゆえ、主イエスに従うとき、人は誰でも主イエスの性質を映し出す者へと清められるのです。聖化されるのです。

復活の主イエスは福音の言葉を通して、聞く者たちと出会い、ご自身で語り、ご自身を現わし、聞く者に対して「わたしを信じるか」と問われる方です。そのことによって、聞く者に聖霊を与えられる方のです。そして聖霊を通して主イエスは信仰者の中に臨在し、働かれるのです。
また、主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と仰せられました。これは礼拝に集まり、御言葉による説教と聖餐式が執行される場所に復活の主イエスが臨在されることを約束しています。
それゆえ、復活の主は地上で開始された神の国の活動を本格的に推し進めておられる方です。弟子たちが地上で体験した主イエスとの人格的な交わりは、復活の主イエスとの交わりの中で、本当の意味で人格的な交わりとなりました。
今や、主イエスは生きておられる方でありますので、主イエスとの交わりは永遠に変わることはありません。実にこのことこそイースターの喜びであります。



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