2013-03-24(Sun)

見捨てられた神の御子 2013年3月24日の礼拝メッセージ

見捨てられた神の御子
中山弘隆牧師

 それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起こり、どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が、嘆くために泣き男が呼ばれる。どのぶどう畑にも嘆きが起こる。わたしがお前たちの中を通るからだと、主は言われる。災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に会い、家にたどりついても、壁に手で寄りかかると、その手を蛇にかまれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。
アモス書5章16~20節


 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
マタイによる福音書27章45~56節



(1)歴史的事実としての十字架
 本日は主イエスの十字架の苦難と死を覚えて、礼拝を守っています。主イエスが神であり、人類の救い主であるという信仰は、十字架の死と復活に基づき、その源泉から流れ出る信仰です。これらの事柄は実に神の事実であり、歴史的な事柄であり、同時に常に現在に働く永遠の事柄です。
 イエスの十字架の死は人類の歴史の真ん中で起こった出来事です。聖書にはイエスの十字架が、ゴルゴダに丘に立てられたと記されていますので、考古学者たちはゴルゴダの丘がどこにあるかを調査して、遂に1849年にオットー・テニウスによってその場所が特定されました。
今では建物にすっかり覆われて全体の姿が分かりにくくなっていますが、聖書に記されているように、人間の頭蓋骨のような形をしている場所が発見されました。このようにイエスの十字架は決して架空の物語でなく、歴史の中で確かめられる事実なのです。
 また、聖書はイエスと共に二人の犯罪人が十字架につけられたと言っています。
 「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけられていた。」(マタイ27:35~38)
 このようにイエスは二人の犯罪者と共に、しかも、「ユダヤ人の王」言い換えれば「救い主」として、十字架の刑に処せられたと言っています。
 確かにイエスの十字架は歴史の関連からすれば、祭司長や律法学者やユダヤ教の指導者たち、またローマの総督ピラトが表舞台に立ち、彼らの意図と行動がすべてを支配しているかのように見えます。しかし、あくまでもそれは歴史の表面的な現象であり、歴史を動かしている原動力ではありません。歴史を動かす真の原動力こそ神の意志なのです。
 人類の救いのために重要なのは、神とイエスとの間で、どのような考えが働いており、その考えが共有され、何が実行されたかであります。他方、そこにおいてドラマチックに働いたこの世的な人間の考えや行動は神の救いに対する全くの無理解を示しています。
 イエス・キリストの十字架の死は、神が人類を罪から救うための唯一の方法でありました。そこには、神の側と人間の側で、その必要性がありました。この点について、イエスは次のように仰せになりました。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
 神は人間が神との人格的な交わりの中で生きることを欲しておられます。このことが最大の原因です。それゆえ神の目的を実現するために、人間存在の全領域において、神の真理が貫かれることが必要でありました。その必要を満たすための唯一の方法は神の御子イエスが人類の代表となり、人類のために、罪の裁きを神から受けなければならないのです。
 他方、人間の側の必要性は、人間が神との人格的な交わりの中で生きるためには、人間の存在が根底から新しくなる必要がありました。人間が信仰と祈りによって神を知り、神に従い、人間に対する神の意志を喜んで、自発的に実行するためには、神ご自身が人間の中に働かれる新しい人間になる必要があったのです。
 まことにイエスの十字架は神の愛の啓示でありますが、そこには十字架の死を必要とする理由があったのです。この点をわたしたちが理解するとき、神の深い愛が分かります。
     
(2)ご自身を与える神の愛
 このことをヨハネによる福音書は次にように宣言しています。
 「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 ここで神が独り子を与えるとは次の二点です。一つは御子の降誕から、人間としての成長、そして神の国の宣教活動を通してのイエスの全生涯です。
神の独り子が人間としてこの世界に来られたとき、御子は本来持っておられる神の全知全能の力を制限し、人間の限界の中に身を置き、信仰と祈りによって人生を歩まれました。
父なる神と人格的な交わりを持つ手段はただ信仰と祈りでした。そのようにイエスは人間として神を知り、神の性質を現し、神に対して完全に従順な正しい人間として歩まれたのです。
ヘブライ人の手紙はこの点で、イエスは「信仰の創設者であり、完成者である」と言っています。
従って、神の御子イエスの存在そのものが人間に対する神の自己譲与を意味しています。
もう一つは、特に生涯の頂点である十字架の死において、神は御子を人類に与えられました。
それではどういう仕方で御子はご自身を与えられたのでしょうか。罪人である人類全体とご自身を一つに結び合わせる「連帯性」によってであります。
神の御子イエスが罪人であるわたしたちとどこまでもご自身を連帯化させ、罪人の責任を一身に引き受けて下さり、自らが罪人となって、罪に対する神の正しい裁きを受けられたことです。
わたしたちの人生は罪という無限の負債を背負っており、自力では返済不可能です。人の負債は死んでも残るように、自分が死んでも自分の罪を償うことはできません。
それは罪の全くない神の御子イエスが罪人に代わって、正しい死に方、すなわち、何処までも神の意志に従順な死を全うすることによってだけ人間の罪は取り去られるのです。
しかしそれだけではありません。
イエスの死の積極的な意味は、人間の正しさが実現することです。この二つの面が人間の罪に対する神の裁きの目的であり、イエスの死において、実現しました。
実に、神の御子イエスと罪人であるわたしたちとの連帯性は、主イエスの自由意志による「自発的な連帯性」であます。そしてイエスの中に働く「神の愛による連帯性」であります。さらにそれは神の御前に有効な「霊的な連帯性」であります。
それゆえ、イエスの連帯性は絶対的で、わたしたちがどのような状況にあっても変わることのない最も「確かな連帯性」であります。

(3)御子の叫び
次に、十字架の上での御子の苦しみは何であったのでしょうか。聖書は次にように言っています。
「さて、昼の十二時ごろに、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。」(マタイ27:45~46)
この叫びは何という悲しみと苦しみに満ちていることでありましょうか。人は苦しいときに断腸の思いと言いますが、イエスの場合はそれよりもはるかに恐ろしい苦しみです。
この叫びはイエスが祭司長や律法学者や群衆から投げかけられた「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という嘲笑や侮辱に対する苦悩ではありません。
この叫びは実に今やイエスは父なる神との交わりから切り離され、虚無の淵に沈み、全くの孤独の中で死を迎える恐怖を表しています。
イエスは神の御子として、常に父なる神との交わりの中で、命と喜びに満ち溢れ、父なる神の意志を実行し、父なる神と共に歩んでこられた方です。そうであればこそ、父なる神から切り離されることは言語を絶した恐怖です。そのとき、ブラック・シロッコと呼ばれている砂嵐が吹きすさび、太陽は隠されてしまい暗闇となったのですが、イエスの心の中はもっと暗闇に包まれていたのです。
しかし、その虚無の苦しみの中で、神の御子イエスはなお父なる神に従順でありました。そのことによって、人類の罪に対する神の裁きにおいて神の真理が貫徹したのです。
イエスの他に一体誰が、このような状況の中でなお神を信じ、神への従順を貫くことができるでしょうか。それは全く不可能です。人はそのような極限状態の中で、信仰を失い、神に反抗し、絶望し、死んでしまいます。
それゆえ神は御子イエスの従順により、人間の正しさを創造されたのです。それは神が人間のために実現された正しさであり、人間に無償で与えられる正しさでありますので、聖書では「神の義」と呼ばれています。
次に、ここで特に大切な点は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う叫びが神を「わが神」と呼んでいることです。ここに父なる神への絶対的な信頼が示されています。
これは二つの事柄を告白しています。一つは、神の御子イエスはわたしたちの罪を自己の罪とし、わたしたちに代わってその罪を神の御前で告白されたことです。一つは、罪に対する神の究極的な裁きは、人間に義を与え、人間を存在の根底から新しくするものであると理解しておられたことです。そして父なる神はイエスを復活させられると確信しておられたことを表しています。
それゆえイエスはこのように虚無と罪の勢力に勝利されました。このようにしてイエスは最後に大声で叫び、息を引き取られました。
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(マタイ27:50)
この大声は不明瞭で、聞き取りにくかったのだと思われますが、神への賛美と勝利の声であったのではないでしようか。
ヨハネによる福音書は次のように言っています。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)
マルコによる福音書ではイエスの最後の場面を次にように伝えています。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(マルコ15:39)
百人隊長はイエスの死の一部始終を凝視していましたので、そこに神の荘厳さと力と同時に不思議な希望の光を感じて、イエスは神の子であったと信じたのです。確かにそれはまだ本当の信仰とは言えませんが、イエスの死が無類の死であり、人間の死の中で一番尊い死であることが分かったのです。

(4)千歳の岩
主イエスの十字架の死において実現した神の義によって、すべての人間がすでに主イエスを通して、神との交わりに生きる新しい人間とされているのです。しかし新しい人間の存在は主イエスの中に保存されています。
それゆえ人は主イエスを信じることにより、新しい人間として生きるのです。言い換えれば、人は最早、自分が自分のものではなく、自分をイエスのもとして生きるのです。
このようにして、人は自分を束縛する罪の力に打ち勝ち、神に感謝し、喜んで神の命令を実行する新しい人間として生きるのです。
確かに、わたしたちは今なお罪が働き、罪が人間を支配するこの世界の中に住んでいます。それは暗い世界です。しかし世界の中心には既に主イエスの十字架が立っています。人は十字架の主イエスを仰ぐことにより、十字架の上より射し来る神の光を受けます。
主イエスの十字架こそ、救いの岩です。讃美歌449は次にように歌っています。
「千歳の岩よ、わが身を囲め、裂かれし脇の 血潮と水に
 罪もけがれも 洗い清めよ。
かよわき我は 掟にたえず もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず。」
十字架の上で、ご自身を与えられた主イスの義と命が、主イエスを信じる者の中に働くことが、人間の寄り頼むべき千歳の岩であると告白しています。
実に、十字架は神がご自身を人間と結び合わされた神の連帯性のシンボルであり、天と地を結んでいるのです。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR