2013-03-17(Sun)

天の父の訓練 2013年3月17日の礼拝メッセージ

天の父の訓練
中山弘隆牧師

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
出エジプト記17章1~7節


 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
ヘブライ人への手紙12章1~7節


(1)信仰のレース
 本日の聖書の箇所は、主イエスに従っていく信仰生活を具体的に実に印象深く教えています。クリスチャンの中には、キリストを信じておれば、それでよいと安易に考えている人がいますが、聖書はそのように怠惰な信仰生活を教えているのではありません。
神は実に生きて働いておられる活動的な神様です。決して怠惰な神様ではありません。わたしたちの信じる神は、わたしたちの信仰を鍛え、わたしたちが永遠の命に豊かに生きるように、そして主イエスの性質を映し出すように働きかけられる力強い神です。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち信仰者を信仰のレースを走る選手に譬えています。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」(12:1)
 ここで言われている競争とは、「マラソン・レース」のことです。ランナーは目標を目指してまっしぐらに走ります。その際、できるだけ身を軽くし、走ることに全精力を集中させ、最後まで完走することが必要です。
 そこで、完走すべきコースはわたしたちが自分で決めるのではなく、神様がそれぞれのランナーに応じて決められるのです。しかもその目的地は、神の永遠の国であります。
 ここで信仰のレースを走るのに邪魔になるものを「重荷」といっていますが、それは障害物という意味です。言い換えればそれはわたしたちの体に染みついている罪であり、聖書はそれを「絡み付く罪」と呼んでいます。
 それゆえ、わたしたちが主イエスに従っていく過程で障害になるものは、どれほど心惹かれ、絶ちがたく思えても、思い切って捨て去り、後ろを振り向くことなく、前向きに人生を考え、しかも忍耐と希望を持って、何処までも主イエスに従うことが大切です。
 また、主イエスを信じてクリスチャンになった人は、自分は今信仰の出発点に立っていると思うでありましょう。確かにそう言えますが、しかしむしろ信仰者の歩みは人生そのものと言えます。
信仰の出発点はわたしたちが自分の人生について考えることと同時に始まっています。わたしたちが自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを知ろうとするとき、それが信仰への歩みの始まりです。求道者は聖書に導かれて、人生の根本問題の解決を見つけようとしているのですから、すでにそこで信仰の多くの証人に見守られながら、信仰の人生に向かって歩んでいるのです。
 このようにして人は生きる意味を探求する中で、主イエスと出会うとき、決定的な転機を迎えます。自分が今まで気づかずに求めていたものがここにあることを発見します。
つまりそれは自分の創り主であり、救い主であり、しかも自分を探し求めておられた神のもとに立ち帰ることです。神はすべての人間の創造者であるゆえに、今や御子イエス・キリストの救いを通して、人間の霊的な父となってくださっています。その神のもとに立ち帰ることにより、人はだれでも神の恵みの対象とされている自分の本当の姿を発見するのです。

 ヘブライ人への手紙9章14節で次にように言っています。
「永遠の霊によって、ご自身を疵のないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
 この聖書の言葉は、罪人である人間が神の御前に立ち帰り、神と共に歩む信仰生活の目的が何であるかを示している非常に重要な箇所です。
先ず、わたしたちを贖ってくださった主イエス・キリストは「永遠の霊」によって、罪を贖うことのできる完全な犠牲を献げられたと言っています。永遠の霊とは、主イエスが神の独り子として持っておられる「神としての性質と力」を意味しています。
それゆえ主イエスの犠牲の死は、単なる人間イエスの死ではなく、神の御子ご自身の死であるというのです。御子としての永遠の霊の働きによって、イエスの死は人類の罪を贖う力を持っているのです。言い換えれば、イエスの死は神ご自身が人類の罪を担い、その死によって人類の罪を神の御前から取り去ってくださったことを意味しています。 
ここに神の愛の深さが現されています。言い換えれば、御子の十字架の死において、神は御自身を人間に与えられたのです。これこそ人間に対する神の愛です。
 それゆえ、信仰者は最早アダムにおいて神に創造された人間として生きるのではなく、主イエスが神の御子として、神の御前に生きられたように、神の子としてのイエスの性質をわたしたちクリスチャンが映し出す者になるためです。
そういう意味でクリスチャンは神の子とされています。しかし、それはクリスチャンが主イエスの神性を与えられて神となるという意味では決してありません。
そうではなく、わたしたちはあくまで人間ですが、聖霊を通して復活の主イエスがわたしたちの存在の中に働かれるので、わたしたちは主イエスに似る者となり、神の性質を映し出す人間となるという意味です。
 実に、そのような人生を歩むために、主イエスの贖いはわたしたちの良心を清めてくださいました。わたしたちの良心を死んだ業から清め、言い換えれば罪の思いから清め、主イエスの思いを与えられ、神を礼拝する者としてくださったと聖書は言っています。
 
      
(2)信仰の創始者であり完成者であるイエス
 次に、聖書は主イエスを見つめながら、自分に与えられた信仰の人生を最後まで完走しようではないかと勧めています。
 「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめまがら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥もいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)
 ここで聖書はわたしたちの救い主イエス・キリストを信仰の創設者であり、完成者と呼んでいます。なぜならば信仰をもって実際に天の神の御前に至った者は、ただ一人でありそれはイエスであるからです。
イエス以前にも神と永遠の世界に対する信仰を抱いて生きた人たちは多くいます。しかし彼らは未だ天国には至りませんでした。彼らはその望みを抱きながら死んだ人たちです。しかし、このことはイエス以外に信仰の人生を歩んだ人たちの信仰が神から認められなかったというのではなく、彼らの信仰は未完成であったというべきです。
そもそも信仰と祈りは神に造られた人間が持つべき最も大切な働きです。つまり人は信仰と祈りによって、神を知り、神に従う生活をするように造られています。それにも拘らず、現実には高慢と貪欲により、人間は神に反抗し、信仰と祈りが正しく機能しませんでした。
 わたしたちの救い主である神の御子イエスは、わたしたちと全く同じ弱い存在となってくださいました。正に人間としての弱さの中で、わたしたちと同じ誘惑と試練を受け、それに打ち勝ち、父なる神に従われました。
それは実に神の御子であるイエスの信仰と祈りによったのです。そのことの中で神の独り子としての働きが現れたのです。それゆえイエスの信仰と祈りはイエスの中にある神性の働きです。
 イエスの神性による信仰、言い換えれば聖霊による信仰は、神は何でもできるという確信です。聖書はこの点を強調しています。
 「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(マルコ10:27)
 さらに十字架の死を前にして、イエスが祈られたゲッセマネの園の祈りではこのように祈られました。
 「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この盃をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
 世の人々が皆、十字架は恥辱の極みであると考え、十字架を軽蔑する中で、御子はただ一人、それが人類の罪を贖う神の意志であることを自覚し、十字架に向かって進んで行かれたのです。
このようにイエスの生涯は、最後まで孤独な戦いの連続でした。御子イエスは信仰と祈りによって十字架を耐え忍び、救い主としての使命を全うされました。
この信仰と従順そして罪人のためにご自身を与えられたイエスの愛が、イエスの神性の働きなのです。
 このようにイエスは試練と苦しみに打ち勝ち、最後まで父なる神に従い、信仰を完成させられました。
実にイエスは聖霊の働きとしての信仰の創設者であり完成者です。
 ヘブライ人への手紙はこの点を次のように説明しています。
 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。(5:8)
 実にイエスは神の御子であるにも拘らず、人間としての弱さと誘惑の中で、苦難を通して、従順を学び、罪のない人生を歩み、救い主として十字架の死を全うされました。このようにして御子は父なる神への従順を学ばれました。学ぶということは苦難を体験して、従順を全うされたという意味です。
 従いまして、わたしたちクリスチャンも信仰と祈りをもって、神に対する従順を学ぶということは、主イエスを信じることにより与えられる聖霊がわたしたちの中で働くこと以外の何ものでもありません。

(3)主イエスを見つめる
 次に、わたしたちが信仰の人生を歩むことができますのは、信仰の創設者であり、また完成者である主イエス・キリストを信じることによるのです。しかし、それだけでなく、聖書は「イエスを見つめながら、競争を走り抜こうではないか」と勧めています。
つまり、主イエスは日々わたしたちに呼びかけ、わたしたちと出会ってくださる方でありますので、わたしたちはイエスと出会い、イエスを見つめることが必要です。
そうすることにより、日々わたしたちは生ける神の霊的な現実に直面し、それを体験することができるのです。この体験を日々繰り返すことによって、わたしたちは神の御言葉に従い、罪の思いとその業とを捨て去り、神の意志を心に留め、それを実行するために祈り求め、同時にそれを実行するのです。
神は既に主イエスの命が聖霊を通してわたしたちの中に働くように定められましたので、クリスチャンは実行することができるのです。ここに神の子たちとしてのクリスチャンの幸いがあります。
他方、この世の考えや業は常にクリスチャンの周りを取り囲んでいますのでクリスチャンの中にもそのような考えや業が働きます。しかし主イエスの命により、それに打ち勝つことが可能なのです。ヘブライ人への手紙は、たとえそれが自分にとって血を流すような辛い難しいことであっても、聖霊によって主イエスの命がクリスチャンの中に働くので、古い人間の思いと業を捨て去ることができると言っています。
このことをヘブライ人への手紙は、「信仰の訓練」と言っています。訓練を受けることは神様がクリスチャンを神の子たちとして取り扱っておられる証拠であると言っています。クリスチャンはキリストを信じることにより、既に神の子の身分が与えられていますが、その実質は訓練の過程を経て成長します。
「訓練」とは神様自ら手を取ってわたしたちを教えてくださる神様の学校と言えます。神様から教えを受けると聖霊がクリスチャンの中に働き、クリスチャンは主イエスの性質に似るようになります。従いまして、聖霊の働きとは、異言を語り、奇跡を行うことよりもクリスチャンを罪から清める「聖化」です。
キリスト教がローマ帝国による二百年を越える長い迫害に耐え、それに勝利した力は、実に無名の多くのクリスチャンが道徳的面で、キリストの性質を鮮明に現したことによります。
使徒たちの後、教父たちの時代に聖霊は三位一体の神であることが明確に認識されました。同時に、聖霊の働きは実に愛による道徳的行為であり、キリストの性質を映し出すことであるという点が明らかになりました。現代のわたしたちにとって重要課題はこの点を認識することです。



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