2013-03-10(Sun)

赦す神の愛 2013年3月10日の礼拝メッセージ

赦す神の愛
中山弘隆牧師

 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。
創世記45章3~8節


 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
ルカによる福音書7章40~50節


(1)なぜ愛するか
 ここには福音書の中でも、最も美しくまた最も強くアッピールする物語があります。
 主イエスはガリラヤ地方を巡回して教え、これまで多くの人々が語った教えよりもはるかに鮮明に、父なる神について語り、人間に対する神の意志を示されました。さらに、今やイエスの活動を通して、神の国が人類の歴史の中で開始しつつあると宣言されました。そして罪の重荷に悩んでいる人たちに神の赦しを告げ、様々な病に苦しんでいる人を癒し、差別や抑圧を受けている人々に親しい交わりの手を差し伸べられました。
 イエスの言動には、律法学者たちとは異なり、神の権威と力が伴っていましたので、多くの人々が強い感銘を受け、イエスに従った弟子たちだけでなく、ファリサイ派の中にも、イエスを尊敬し、大預言者が現れたのではないかと期待する人たちがいました。ここに登場するシモンもその一人です。
 36節で「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」と記されています。シモンはそのようにしてイエスに対する敬意を表しました。
 しかし、それ以上にイエスに対する感謝と愛を示す一人の女性が現れました。37節で次のように記されています。
 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきた。」
 多分女性はこの町に住む娼婦であったと思われます。娼婦は聖書の教えに反する不道徳な生活をしながら生計を立てている者なので、人々から軽蔑の眼差しをもって見られていました。
 こともあろうにその女性が自己の正しさを誇るファリサイ派のシモンの家に入って来ました。そして食事の席についておられるイエスの背後に立ちました。当時の習慣では食事の席につく際に、人は寝そべるように横たわり、足を延ばしますので、この女性は後ろからイエスの足もとに近寄ることができたのです。
 突然この女性は感極まって思はずはらはらと涙を流しました。するとその涙はちょうどイエスの足に降り注いたのです。そのことに気づいて狼狽しながらも、とっさの機転を利かせて、自分の髪の毛で拭い、イエスの足に接吻して、香油を塗りました。
 この女性はイエスの足に香油を塗る目的で、自分を軽蔑する人々の目をも恐れず、イエスのもとに近づいたのですが、自分では予想していなかった偶然と重なり、彼女のイエスに対する感謝と愛の行為は、一つの美しい絵のようになっています。

 それではなぜこのような感謝と愛の献身を女性はイエスに献げたのでしょうか。それ以前の状況についてこの物語の中で何も説明されていませんので、明らかではありませんが、おそらくこの日、町の会堂でイエスが教えられたので、この女性はイエスの話を聞く機会があったのだと思われます。
 そのとき、彼女はイエスの語られる神の赦しが、罪深い自分に向かって語られているように感じられ、心の中でその言葉を信じたのだと思います。そのようにイエスを通して自分に与えられた神の赦しを知ることができ、彼女は神の赦しに対してこのように感謝の応答をしたのだと思われます。
 しかし、現実的な事柄はもう少し複雑で、彼女が自分は既に罪の赦しを与えられたと思ったというよりは、自分はいま赦される過程の中にあると思っていたかもしれません。
その場合には、彼女の流した涙は感謝の涙であると同時に、自分の犯した罪に対する懺悔の涙でもあります。事実わたしたちが主イエスを通して、神から罪の赦しを受けるときに、わたしたちの心に懺悔と愛とが同時に起こります。
懺悔はその中に認識と感謝を含んでいますので、自分の罪を深く知りながらも、神様はこのような罪深い自分を絶対に赦されないのではないかと言う疑問や絶望に陥ることはありません。
他方、愛はそのうちに自己の罪に対する懺悔も含んでいますので、自分はそのような赦しを受けるに相応しくないという謙遜な思いでもあり、無償の神の愛と赦しにひたすら寄り頼むという性質を持っています。
 従いまして、この女性の愛と懺悔は神の赦しが今自分に与えられつつあるという体験に基づく応答です。言い換えれば彼女が神の赦しを体験しながら、このように応答したのです。
しかし、赦しは神が与えられる事実として見る場合に、彼女は既に神から赦されていたのです。

(2)この人を見よ
 次に、シモンはこの様子を見ながら、罪の女がイエスに触っているのを知りながら、そのままにしているイエスは、自分が想像していたような預言者ではないと考えました。その時イエスはシモンの心中を見抜き、「シモン、あなたに言いたいことがある」と仰せられました。
そこでイエスは一つの譬え話を用いて、多くの借金を赦された者は赦してくれた恩人を多く愛し、少しの借金を赦された者は赦してくれた恩人を少ししか愛さないということを思い起こさせ、今シモンとこの女性はそれぞれどの立場にあるかと問われたのです。
 シモンは人を外側からしか見ず、その人はどの部類に属しているかと人々を分類し、この人は敬虔な人たちの部類に属し、この人は娼婦や徴税人のような罪人の部類に属しているというように分類し、その分類に従って人を取り扱っていました。
シモンはこの女性が軽蔑すべき娼婦であるという面だけを見ており、それ以外には何も見ていなかったのです。彼女が人間として、一個の人格として、その中に何が起こっているかと言うことには全く無関心でした。
 それに対してイエスは人を見るとき、外側ではなく、常にその人の心の中をその人自身を見ておられます。
イエスがシモンに対して、「この人を見ないか」と仰せになったのは、この娼婦である女性を一人の人間として見、彼女が今何を考え、どのような動機でこのような行為をしているのか、彼女自身の中に何が起こっているかを見ているか」とシモンに問われたのです。
そのとき、彼女の中にシモンには考えられないような事柄が起こっていました。そこで、47節に記されているように、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。」と仰せになりました。
それでは、多く愛する者は多くの罪を犯した者でなければならないのでしょうか。シモンのように社会的に信用され、ユダヤ教の律法の面で落ち度の少ない者は、少ししか愛することはできないのでしょうか。決してそうではありません。多く愛するか否かの問題は、人が犯す罪の多少にかかわっているのではなく、人が自分の罪をどれだけ真剣に直視し、どれだけ深く懺悔しているかの問題です。
それは自分が赦されるために、神の側にどれほど大きな愛があるのか、自分の罪が贖われるために、神はどれほど大きな犠牲を払われたのかを知ることこそ重要です。
神はわたしたちの罪を赦すために、神の御子イエスを十字架の死に渡されました。このことを知りますならば、わたしたちは自分の罪を深く自覚し、主イエスを多く愛する者となります。
讃美歌513番の1節には、「主は命を 惜しまず捨て、その身を裂き 血を流した。この犠牲こそが 人を生かす。その主に私は どう答えよう。」
一編の332番は同じ讃美歌ですが、歌詞が少し異なっています。「主は命を与えませり、主は血潮を流しませり。その死によりてぞ われは生きぬ、われ何をなして主にむくいし。」
また3節では、「主は赦しと慈しみと 救いをもてくだりませり。ゆたけき賜物身にぞあまる、ただ身と魂とを献げまつらん」と神の恵みに対する唯一の応答は、主イエスに対する献身以外にはありえないと告白しています。
 
(3)主イエスに対する献身
次に、神から赦されるということは、単に罪の罰を免除されるということではありません。もっと次元の高い恵みを受けることです。すなわち、主イエスの義を与えられ、神との人格的な交わりに入れられるということです。
神は正しい方であり、聖なる方でありますので、罪人は神の御前に立つことはできません。しかし神は罪人を愛されるゆえに、主イエスの義を罪人に与え、神との正しい関係に入れてくださった結果、わたしたちは罪人であるにも拘らず、神との人格的な交わりを日々受けることができるのです。
その神との交わりの中で、わたしたちは主イエスの性質を通して神を知り、神の御前ではすでに主イエスの義によって、人間のすべての領域に、神の御心が実現しており、人間のすべての領域が神の真理と栄光を反映していることを目の当たりにするのです。
それを見ることができて、人間は感謝し、喜んで、自ら進んで神の意志に従い、神の意志を実行するのです。これが赦された者です。
ここに、わたしたちは罪人であるにも拘らず、わたしたちの人格の中心は、すなわちわたしたちの良心はすでにわたしたちの思いではなく、主イエスの思いが働いているのです。
このことがわたしたちを新しい存在とし、言い換えればわたしたちに神の子たちの身分が与えられていることに他ならないのです。
主イエスの思いとは、父なる神を全面的に信頼し依存し、父の意志に徹底的に従順であり、自ら進んで父の御心を実行することです。言い換えれば、これが神の御子イエスの父なる神への愛なのです。
従いまして、信仰者が主イエスの内にある新しい人間として、神を愛するということは、主イエスが父なる神を愛されたように、信仰者が神の意志に喜んで従い、それを実行することです。
それゆえ、主イエスによって罪を赦された者は、主イエスが父なる神を愛されたように、自分もまた主イエスを愛することです。
正にこの女性はこのような思いと態度と行動をもって主イエスを愛しました。わたしたちの人生に起こる多くの出来事の中に一期一会の出会いがあります。もちろん主イエスとの交わりは彼女にとって主イエスが死人の中から復活されたとき再開され、永遠に変わることのない交わりとなりました。
しかし、人格的な交わりに入れられる救いの時は、一期一会なのです。この女性は主イエスに罪を赦された者として、主イエスとの人格的な交わりの中で、神に対して感謝の応答として自分の全存在を献げました。そのことが涙と共にイエスの足に香油を塗る行為となったのです。そして主イエスは大いに喜び、彼女の思いと行為を受け入れてくださいました。

人間は地上で生活する限り、だれでも自分の背中にアダムの子孫としての古い人間をまとっています。それゆえ、罪の誘惑に負けて、罪の思いを心に受け入れ、罪を犯す弱い人間です。しかし、主イエスによって罪を赦され、主イエスとの人格的な交わりに入れられるとき、自分の存在の中心は最早古い人間でなく、新しい人間であり、神の子なのです。それゆえに、罪の誘惑に打ち勝ち、悪を捨て去り、神の御心を喜んで実行するのです。
これが信仰によって、主イエスと結ばれているクリスチャンの生き方です。それゆえクリスチャンは日々新しくなることによって、神の愛の中に留まるのです。

神が主イエスの犠牲によって罪を赦されたことを感謝するならば、人間に対する神の愛は「贖罪愛」であることを悟ります。贖罪愛とは人間に対する神の真理を貫徹されるために神が払われた自己犠牲です。言い換えれば、神が主イエスの人格においてご自身を人間に与えられたことなのです。
神の「贖罪愛」を心に深く受け止めるならば、人は誰でも他の人を赦します。このことは正にクリスチャンが主イエスの特質を自分の中に映し出していることです。
それゆえ主イエスは主の祈りを教えられたとき、「我らに罪を犯しました者を赦すように、我らの罪をも赦したまえ」という項目を入れられました。これはわたしたちが罪を赦さなければ神はわたしたちを赦されないと言うのではなく、神が主イエスにおいて、わたしたちの罪を赦してくださっているから、わたしたちは人の罪を赦しますと言うのです。
それは正に神の御前に立っているクリスチャンの信仰的な認識と決断と行為としての「霊的現実」です。



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