2013-03-03(Sun)

仕えるために 2013年3月3日の礼拝メッセージ

仕えるために
中山弘隆牧師

 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章7~11節


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章35~45節


(1)レントにおいて
 わたしたちは今レントの期間を過ごしています。この時期に、十字架に向かうイエスの姿を思い、信仰が一層強められますよう願う者であります。ここには、エルサレムに向かって進んで行かれたイエスの姿が描き出されています。
 「一行がエルサレムへと上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と、10章32節に書いてあります。
 この非常に簡潔な表現は、主イエスの決意がただならぬものであったことをよく示しています。そこには不退転の決意がみなぎっていました。それは顔に現れているというのではなく、体全体から出る雰囲気がそのように感じさせたのです。
それは主イエスの深い確信から出て来たものであり、自分の人生の必然的な終局を悟った方の力を感じさせました。弟子たちは長い間、イエスに従い、神がイエスを通してなされた力ある業を数多く目撃しました。その度に彼らは驚き、新しい感銘を受けたのですが、これほどに恐れを感じたことはありませんでした。
今回は恐ろしさのあまり震え上がる思いでした。まさに死に向かって突き進んで行かれる主イエスの決意が、彼らをこれほどまで恐れさせたのです。
この世の多くの人々は生きるために死を避けようとします。しかしそれによってかえって生きる意味を見失ってしまいます。人は死を避けず、死に向かって進んでいくときに本当の意味で生きられるのです。主イエスの生涯はまさにそのような歩みでした。
 救い主としてのイエスの前半の活動は、必然的に後半の活動をもたらし、そこにおいて救い主としての死を全うする決定的な時が到来したのです。

(2)弟子たちに対するイエスの意図
 この時、イエスは弟子たちを御許に呼び寄せて、次のように仰せになりました。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
 ここで、主イエスは明らかに弟子たちにご自身の死の意味を教えようとしておられます。そのことが起こる前に、弟子たちにご自身の死の意味を理解させようとしておられます。この点、マルコによる福音書は、主イエスの意図をよく示しています。
 なぜならば、マルコによる福音書では、主イエスの救い主としての活動が、前半と後半との二つの部分に明瞭に区分されています。 
前半では、主イエスはイスラエル全土を巡回して、人々に神の国について教えられました。神の国がイエスの宣教を通して開始していることを言葉と行為をもって示されました。
後半では、できるだけ大衆との接触を避け、専ら弟子たちに教えようとされました。そこには深い理由があったのです。すなわち、十字架の死に向かって進んで行かれるご自身の歩みに、弟子たちも共に与らせ、そこにおいて主イエスの十字架の死と復活の意味を弟子たちに教えようとされました。
もし主イエスが生前に弟子たちに十字架の死と復活について少しも教えられなかったとしたら、弟子たちはそのことが実際に起こった場合、その真の意味を理解することは到底できなかったでありましょう。
しかし、弟子たちはその時点ではまだ十分に理解できなかったのです。否、彼らの理解は全く異なっていました。

(3)弟子たちの無理解
 「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたし共の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』(10:37)
これはイエスが神の国の支配者として、栄光の座にお着きになるとき、ヤコブとヨハネは自分たちだけが、弟子としての最高の地位に就くことを予約して貰いたいという申し出です。
これは何という弟子たちの無理解を示していることでありましょうか。彼らは今や実現する神の国を非常に利己的にしか理解していませんでした。他の弟子たちを出し抜いて自分たちが高い地位に就きたいという欲望丸出しです。当然それを見た他の弟子たちは二人に対して非常に憤慨しました。
これに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と仰せになりました。
わたしたちは弟子たちのこの有様を見て、弟子たちの思いは主イエスの思いと何とかけ離れていることかと驚きを感じます。弟子たちはどうして主イエスの心の中を察することができないのだろうかと思います。彼らの心の感性は何と鈍いのだろうかと思います。弟子たちは主イエスの思いを感じ取ることのできない甚だ利己的な人間の姿を露わにしています。
しかし弟子たちの姿は実はわたしたちの姿に他ならないのです。わたしたちは信仰が与えられていましても、依然として利己的な欲望を持っています。その点ではヤコブやヨハネの甚だ利己的な姿とちょうど二重写しになっています。

(4)主イエスの思い
そこで、主イエスは次のように仰せになりました。
「あなたたちも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)
ここには、主イエスによってもたらされた神の国の性質が非常に明瞭にされています。それはこの世の性質とは根本的に異なります。この世では支配する人、権力を振るう人が、偉い人であり立派な人として尊敬されています。しかし、神の国においては価値ある行為は人に仕えることであり、信頼される人は皆に仕える人です。
このような相違は価値観の逆転ではなく、全く異質な価値観であると言えます。なぜならば、この世では、力ある者が力のない者を支配するのですから、支配される人は喜んで支配されているのではなく、強制されて仕方なく支配されているからです。
それに対して、神の国では、すべての人が自由であり、対等です。強制されて人に仕えるのではありません。そうではなく自ら進んで、喜んで人に仕えるのです。また仕えられる人は、仕える人に感謝し、その奉仕を喜んで受け入れ、また自分も人に仕えることを喜びとするのです。
このような自由と自ら進んで仕えるという自発性が神の国の性質であり、神の愛の働きです。正に主イエスの思いです。ここに神の御子としての主イエスの尊さがあります。真の偉大さがります。

実に、主イエスの生涯はこの思いで貫かれており、それを完成する行為が十字架の死でありました。このことは次の言葉ではっきりと表明されています。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)
ここに、主イエスが十字架の死をご自分に父なる神から与えられた最大の使命であると自覚しておられたことが現れています。
「人の子」とは単に人間と言う意味ではなく、もっと深い意味を持った言葉です。旧約聖書のダニエル書7章13~14節に預言されている神の主権を委ねられた者を意味する言葉です。
「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、威厳、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸国語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
主イエスは御自分がこの預言されている「人の子」であると自覚しておられたので、自分に対して「メシア」と言う名称を用いず、「人の子」と言う名称を用いられました。しかし、この言葉は非常に謎めいた言葉であり、人々はその意味が分かりませんでした。
さらに、そのような神の主権を委ねられた人の子の支配は、人類を罪から贖うことを通して実現すると認識されました。また旧約聖書のイザヤ書53章の預言をそのように理解され、ここで「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と仰せになっています。実に旧約聖書のこの二箇所を以上のように解釈し、ご自分の使命に適用されたのはイエス独特の理解によるのです。
「多くの人の身代金」とはイザヤ書53書の預言の内容を要約したものです。人類の罪を贖うために献げる犠牲を意味しています。ヘブル語では人類全体を表す言葉として「多くの人」という言い方をします。また通常、身代金とは捕虜になった者を解放するために支払う金を意味していますが、ここでは全人類を罪の束縛から解放する手段を意味しています。
主イエスはそのために自分の命を与えられました。言い換えればご自身の全存在を与えられたのです。
また、そのような人類の罪の贖いは、主イエスが明確な認識をもって、自ら進んで実行された自発的行為です。人格的で自発的な愛によるイエス犠牲は同時に聖霊によって人類と結びついているのです。この霊的連帯性によって人類の罪の贖いは実現するのです。
要するに人類の罪が贖われるためには、主イエスのそのような認識と、ご自身を人類に与えるという主イエスの愛による決断と行為が必要でありました。
実に、主イエスはそのような思いを貫いて、十字架の死を引き受けられましたので、父なる神は主イエスを復活させ、天地の支配者とし、名実ともに全人類の救い主とされました。
それゆえ、主イエスは御自分を信じるすべての者にご自身の復活の命を与え、主イエスに従うことにより、神の御前に生きる者とされるのです。

(5)主イエスの命に生きる者
今や、主イエスは御言葉を通し、聖霊を通して、日々わたしたちと出会われます。
わたしたちは主イエスと出会うときに、聖霊を通して、主イエスの生ける人格に直面し、主イエスの御言葉を聞き、主イエスの性質を知り、そのことにより、神を知るのです。
そのとき主イエスは「わたしを見た者は、父なる神を見たのである。」と仰せになります。
さらに、わたしたちは主イエスにあって、主イエスと結ばれているので、主イエスの中で、既に神の御前で生きる新しい人間、すなわち神の子たちとされ、主イエスの義と命に生きる新しい存在となっていることが示されます。
それゆえ、主イエスの中でわたしたちのために、既に備えられている神の霊的事実に基づいて、わたしたちが地上の人生において、神の御心を喜んで、自ら進んで、実行することにより、神の御前に新しく生きることを主イエスは教えてくださいます。
さらに、主イエスがわたしたちの導き手となり、わたしたちの命令者として、わたしに従えと仰せになるのです。
そして、わたしはあなたがたと日々出会い、あなたがたに行く道を指示する者である、と仰せになるのです。
このように復活の主イエスがわたしたちと出会い、語られるとき、主イエスは聖霊により、わたしたとの中に臨在し、わたしたちの中で働いておられます。
従って、わたしたちが主イエスの指示に従い、それを実行するということは主イエスご自身がわたしたちの中で働かれることに他ならないのです。

世界第二次大戦中に、ドイツの国内でナチスに抵抗したため処刑さた若い神学者ボンフェファーは、獄中から友人に送った手紙の中でこのように言っています。
「わたしはこの数年間、キリスト教の深い現実性を益々はっきりと知るようになった。信仰とは生活全体に渡る行為なのだ。イエスはわたしを新しい宗教へと召されたのではなく、新しい生活へと召されたのである。」
「キリスト者とは、この世で貧しく、卑しめられ、飢えている神と出会い、罪と弱さと死に呑み込まれた神を仰ぐ。キリスト者はこの神のもとに立つとき、自分を神に献げ、神に仕えて、この世の生活を生き抜くのである。そのようにして、生活全体の中で、キリストの復活の生命に生きるのである。」
このように生きるときに、復活の主イエスご自身がわたしたちの中で働いておられるのです。



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