2013-02-24(Sun)
主の祈り 2013年2月24日の礼拝メッセージ
主の祈り
江田めぐみ伝道師
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。
ホセア書11章1~4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカによる福音書11章1~4節
祈りは神と人間との関係にとって本質的に重要なものであります。ルターは、かつて「信仰は祈りであり、祈り以外何でもない」と言っています。祈りは神との出会いであり、対話であるのです。祈りは、語るのみならず、聴くこともします。
詩編の中の祈りを見ますと、讃美、感謝、嘆き、告白、祈願、信頼そして教えの祈りが書かれております。
祈ると言うことは、生活において神に関わりつつ生きる姿勢におけるのと同じように、神についてどのように語るかと言う方法で、人間存在そのものに形を与え、表現することであるのです。
祈りの中で、讃美することは、讃美は神がなさる御業は何かということと共に、神の存在そのものをも明らかにすることであるのです。
告白は、神の前における自己認識に集中するものである、自分自身についてひたすら誠実であろうとする戦いにとって、決定的に重要なものであるのです。
懇願ないしは嘆願の祈りは、神に具体的な願いを述べることは、最も広く実践されている祈りの形態であるのです。
とりなしの祈りは、憐みと奉仕の行動を形作るのです。
祈りには様々な祈りがあり、祈る時と場所また祈り方も様々ありますが、では、皆さんはどんな時に、どのようにして祈られるのでしょうか。
主イエスは今朝の聖書の御言葉にあるように、主の祈りを弟子たちに教えられたのです。
主の祈りについて、古代の神学者テルトゥリアヌスは、〈福音の要約〉であると言っています。福音とは喜びの知らせであり、神から与えられている救いの真理のことです。それが今日の聖書の御言葉の中で、要約されていると言うことは、私たちがこの主の祈りをしっかりと覚え、理解して学ぶことができれば、神の福音の真理が分かるのです。
最初の「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6・9)という神への呼びかけの言葉を、よく聴きそこで何をしているか、と言うことは、天におられる神をわれらの父と呼んでいるのです。「父よ」と祈ることは、いつも、自分の父を呼び続けて祈っていた、主イエス、その人の祈りの一つの秘密を明かし、その祈りの世界へと招き入れてくださるのです。
主の祈りは、マタイによる福音書6章と、ルカによる福音書11章と両方に記されております。その両方を見ますと、主の祈りの言葉も違いますが、位置づけも少し違います。マタイによる福音書の場合には、主イエスが、戸をしめ、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと教えられて、祈りの言葉を与えてくださいました。主の祈りは、イエスの独特な祈祷から生まれたものとされております。それだけに、到来したメシアとの実現しつつある終末という背景の中で、主の祈りが与えられているのです。
「天」と「地」の領域の区別は、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6・10)ではなく、今にも「御国が来ますように」祈ることなのです。メシアなるイエスによって初めて、神の「御名があがめられ」て「父」と親しく呼ぶことのできる新しい神関が樹立され始めるのです。
メシアの与える「糧」が、五千人養いのしるしに見た通り与え始めるのです。終末の激しい艱難と「試み」から守られ、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間が縮められるように祈らなければならないのです。(マルコ13・20)
このような終末的時代の新創造を「求め」「捜し」「たたき」続けなければならないのです。それは必ず与えられるのです。
ルカはペンテコステの体験をした教会の時代から、「良い物」・「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・11)は「聖霊」そのものにほかならないと解説してかき記しております。
聖霊こそ終末の時代の力であり、神の国の現存を証明するしるしを行われるからであるのです。
ルカによる福音書11章1節では、イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えて下さい」とお願いをしました。そこで、主が教えられたのが主の祈りであったのです。
主イエスが一人で祈っていたのでした。しかし、この時は、その主イエスの祈りを弟子たちは知っておりました。イエスの祈る姿は、弟子たちから離れて、一人で祈ってから戻られてからかも知れません。あるいは、弟子たちがいる所で一人祈っていたのかも知れません。主イエスがその時、何を祈っていたかはこの時は分かりませんでした。ただ、主イエスが祈っておられた姿を見て、弟子たちはきっとあの主イエスのように祈りたいと思っておりました。
一人で祈るよりも、自分がイエスの弟子であるというしるしに、皆イエスという方の弟子であるならば、同じ祈りをする、そうしたいと願う弟子たちに応えて、主イエスが主の祈りを教えて下さったということになるのではないでしょうか。
クリスチャンホームで、子どもは、始めて祈りを覚える時には、両親の祈る姿を見て、
共に祈りその姿から覚えます。そして、教会学校へ行き教師やそこに集まる子どもたちと共に祈ることを教えられて、覚えていくのではないでしょうか。また、以前私が務めていたキリスト教付属幼稚園に入った子どもは、日々の幼稚園生活の中で祈りをお覚えて、これまでに祈った経験のない子どもたちでも、(朝の礼拝の祈り、昼食前の祈り、お帰りの会の祈り)を通して子どもたちの身に付いて行きました。
では、祈る習慣のない家庭ではどうでしょうか。入園して1ヶ月位して次のようなお話をされていた母親がおりました。
夕食の時、手を合わせて「いただきます」と言った母親に、「お母さんお祈りしてから食べるんだよ」このようにして、幼稚園で覚えた祈りを、生活習慣の中で覚え、子どもから親へ伝えるという祈りの形を取りました。
その後そのご家庭では、お祈りをしてからいつも食べている習慣になりました。
「天におられるわたしたちの父よ」。そう祈ることによって、私たちは、主イエスの傍らに並びます。そして、父を信頼して祈るのです。
「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶ時、私たちは、すべてを支配する天におられる私たちの父でということであるのです。すなわち、私たちを支配するのは、天の父の愛であるのです。
では、天の神は、なぜ父と呼ばれるのでしょうか。私たちにはこの世に生まれてくるときには、父親と母親がいます。この世の父親は、私たちの肉親の父であるのです。父親はとても力強かったり、ある面やさしかったり、家族の者が困っていたりすると、それを助けてくれたり、守ってくれるのです。しかし、本当の父は神だけであるのです。
わたしたちが生活をして行く中には、幸運ばかりではありません。幸福と隣り合わせには不幸もあるのです。
自分の人生の中で、どんな不幸なことを経験したり、どんなに辛い思いをしても、神が、自分の父であると言うことを言えるこのことが、私たちの信仰を支えてくださるのです。
この祈りは、それぞれ「あなたがた」と「わたしたち」とによる祈願を構成する二つの主要部分に分けることができるのです。初めの行が、その中で後半部の願いが理解されるべき文脈を確立するのです。「天におられるわたしたちの父よ」というマタイの祈りの冒頭の言葉は、ユダヤ人の正式の祈りの中に見出すことができるのです。
「父よ」と言うルカ(11・2)の呼びかけは、神をアッバとして呼びかける、イエスに特徴的な仕方を反映しております。このアッバは、小さな子供、あるいは生まれて間もないようやく言葉になるかならない子供が真っ先に父を覚えるその時の言葉で、愛情に満ちた言葉でありますが、子どもだけでなく、時には尊敬する老人に話しかける時には、大人の人にも使われることがあるのです。アッバは、信頼しきった言葉です。そのように私たちも神を呼ぶことができるのです。
なぜそれが言えるかというと、私たちに神の子の身分を与える聖霊が与えられたからです。この神の霊が与えられる洗礼を受けて、キリスト者になって、罪赦されて、新しく歩み出す時に、主イエスと同じ神の子となるのです。主イエスに対する父であられるように神は私たちにとっても、父でいてくださるのです。その父を「アッバ」と呼ぶのは当たり前のこととなるのです。主イエスも「アッバ」と呼んで祈られました。主が父とよばれるように、私たちも父と呼ぶことができるのです。
主の祈りは、まず父を呼ぶ言葉から始まるのです。
霊性とは、信仰を持って、命の現実のすべてに深く関わって生きることであるのです。霊性は、生きておられる神のまなざしのもとで生きることに集中することを強く迫るのです。ここで必要なのは、救いの言葉をめぐって深く思いめぐらし、それをさらに深く内面化することであるのです。
「御名が崇められますように」という祈願は、まず「名」は、神に言及する方法である
のです。「崇める」(ハギアゾー)は、聖なるものとして他のものから区別して扱うことの意味、神ご自身がご自分のものの中に主として崇められることを示しています。これは私たちの生活における愛と服従の実践迫るのです。
申命記12・11が「あなたの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜びいわいなさい。と、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」に言及する時に、神がエルサレムに住まわれるだろうと言うことを意味しているのです。
「御国がきますように」は、イエスは「神の国は、あなたがたの間にあるのだ」と(ルカ17・21)言われております。それはご自分の到来によって神の国がもたらされたことを教えられているのです。すなわち信じる者の中に今来るものであることを示されているのです。
同時に終末的出来事としての到来も語られているのです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とルカ11:3では記されていますが、
マタイ6・11では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と今日一度限り与えられるようにと記されております。
ルカ11・3節では、次の三つの願いはすべて《わたしたち》の事になるのです。それは、《必要な糧》の《必要な》は、生きるのに必要な、来る神の支配のため必要なことであるのです。与えられた食べ物は、イエスによって神の来たるべき支配のしるしであるのです。それは、ルカ9・12-17で、5千人の養いのお話しです。五つのパンと魚二匹しかないものを、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに配らせて、すべての人が食べて満腹した。そして残ったパンのくずを集めると、12籠もあった」のです。主イエスはこのように先取りされるのです。
神の支配は、イエスが罪人と共に食事をし、(ルカ5・27以下、15・1-2、19・1-10)、罪を赦すための具体化としての祈りであるのです。「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」は、それを条件として神も赦せ、と言うのではないのです。
赦しは神の絶対的自由の行為であるのです。「赦します」は神の赦しの結果なのです。神がわたしたちをすでに赦したしるしとして、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しています。わたしたちは更にお赦しをお願いして、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」誘惑は、試練、終末の色々な苦難をも含むのです。誘惑が来ないようにと祈るのではなく、誘惑が来ても、それに陥って ―ギリシャ語ではエイスフェローと言います。それは、負けないようにと祈ることです。
「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」とは、神の前に立たされた自己の姿を知った者の祈りであるのです。「負い目」(オフェイレーマ)は、罪に対するユダヤ的表現で、義務を果たさないことであるのです。それは、神にまた人に果たすべきことを果たしていない罪が、ここで指摘されているのです。
「皆赦しますから」とは、負い目のある人をもはやそのように見なさないことです。この赦す心をなくしては、自分の罪の赦しを求めて神の前にだすことは出来ないのです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」とは、人生の中では、色々な誘惑があり、世の悪に囲まれて生きる者が心から祈らなければならない祈りなのです。
わたしたち人間は、誘惑に弱い者です。誘惑とは、悪すなわち悪い者、悪魔からくるものであり、誘惑はこの者の誘いによるのです。(マタイ4・1-11)この悪から、あるいは悪い者から解放されることは、来るべき「御国」の祝福に通じるのです。
人間だれでもこの世の中を生きていく時には、誘惑や試練はあるのです。そんな時に一人で悩まずに、主イエスが教えて下さった主の祈りを祈り、誘惑に負けないで、主イエスのように、心から祈れる祈りをいつでもどこでもできるように神を仰いで、日々の生活を、心がけていきたいものです。
ホセア書11章1~4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカによる福音書11章1~4節
祈りは神と人間との関係にとって本質的に重要なものであります。ルターは、かつて「信仰は祈りであり、祈り以外何でもない」と言っています。祈りは神との出会いであり、対話であるのです。祈りは、語るのみならず、聴くこともします。
詩編の中の祈りを見ますと、讃美、感謝、嘆き、告白、祈願、信頼そして教えの祈りが書かれております。
祈ると言うことは、生活において神に関わりつつ生きる姿勢におけるのと同じように、神についてどのように語るかと言う方法で、人間存在そのものに形を与え、表現することであるのです。
祈りの中で、讃美することは、讃美は神がなさる御業は何かということと共に、神の存在そのものをも明らかにすることであるのです。
告白は、神の前における自己認識に集中するものである、自分自身についてひたすら誠実であろうとする戦いにとって、決定的に重要なものであるのです。
懇願ないしは嘆願の祈りは、神に具体的な願いを述べることは、最も広く実践されている祈りの形態であるのです。
とりなしの祈りは、憐みと奉仕の行動を形作るのです。
祈りには様々な祈りがあり、祈る時と場所また祈り方も様々ありますが、では、皆さんはどんな時に、どのようにして祈られるのでしょうか。
主イエスは今朝の聖書の御言葉にあるように、主の祈りを弟子たちに教えられたのです。
主の祈りについて、古代の神学者テルトゥリアヌスは、〈福音の要約〉であると言っています。福音とは喜びの知らせであり、神から与えられている救いの真理のことです。それが今日の聖書の御言葉の中で、要約されていると言うことは、私たちがこの主の祈りをしっかりと覚え、理解して学ぶことができれば、神の福音の真理が分かるのです。
最初の「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6・9)という神への呼びかけの言葉を、よく聴きそこで何をしているか、と言うことは、天におられる神をわれらの父と呼んでいるのです。「父よ」と祈ることは、いつも、自分の父を呼び続けて祈っていた、主イエス、その人の祈りの一つの秘密を明かし、その祈りの世界へと招き入れてくださるのです。
主の祈りは、マタイによる福音書6章と、ルカによる福音書11章と両方に記されております。その両方を見ますと、主の祈りの言葉も違いますが、位置づけも少し違います。マタイによる福音書の場合には、主イエスが、戸をしめ、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと教えられて、祈りの言葉を与えてくださいました。主の祈りは、イエスの独特な祈祷から生まれたものとされております。それだけに、到来したメシアとの実現しつつある終末という背景の中で、主の祈りが与えられているのです。
「天」と「地」の領域の区別は、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6・10)ではなく、今にも「御国が来ますように」祈ることなのです。メシアなるイエスによって初めて、神の「御名があがめられ」て「父」と親しく呼ぶことのできる新しい神関が樹立され始めるのです。
メシアの与える「糧」が、五千人養いのしるしに見た通り与え始めるのです。終末の激しい艱難と「試み」から守られ、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間が縮められるように祈らなければならないのです。(マルコ13・20)
このような終末的時代の新創造を「求め」「捜し」「たたき」続けなければならないのです。それは必ず与えられるのです。
ルカはペンテコステの体験をした教会の時代から、「良い物」・「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・11)は「聖霊」そのものにほかならないと解説してかき記しております。
聖霊こそ終末の時代の力であり、神の国の現存を証明するしるしを行われるからであるのです。
ルカによる福音書11章1節では、イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えて下さい」とお願いをしました。そこで、主が教えられたのが主の祈りであったのです。
主イエスが一人で祈っていたのでした。しかし、この時は、その主イエスの祈りを弟子たちは知っておりました。イエスの祈る姿は、弟子たちから離れて、一人で祈ってから戻られてからかも知れません。あるいは、弟子たちがいる所で一人祈っていたのかも知れません。主イエスがその時、何を祈っていたかはこの時は分かりませんでした。ただ、主イエスが祈っておられた姿を見て、弟子たちはきっとあの主イエスのように祈りたいと思っておりました。
一人で祈るよりも、自分がイエスの弟子であるというしるしに、皆イエスという方の弟子であるならば、同じ祈りをする、そうしたいと願う弟子たちに応えて、主イエスが主の祈りを教えて下さったということになるのではないでしょうか。
クリスチャンホームで、子どもは、始めて祈りを覚える時には、両親の祈る姿を見て、
共に祈りその姿から覚えます。そして、教会学校へ行き教師やそこに集まる子どもたちと共に祈ることを教えられて、覚えていくのではないでしょうか。また、以前私が務めていたキリスト教付属幼稚園に入った子どもは、日々の幼稚園生活の中で祈りをお覚えて、これまでに祈った経験のない子どもたちでも、(朝の礼拝の祈り、昼食前の祈り、お帰りの会の祈り)を通して子どもたちの身に付いて行きました。
では、祈る習慣のない家庭ではどうでしょうか。入園して1ヶ月位して次のようなお話をされていた母親がおりました。
夕食の時、手を合わせて「いただきます」と言った母親に、「お母さんお祈りしてから食べるんだよ」このようにして、幼稚園で覚えた祈りを、生活習慣の中で覚え、子どもから親へ伝えるという祈りの形を取りました。
その後そのご家庭では、お祈りをしてからいつも食べている習慣になりました。
「天におられるわたしたちの父よ」。そう祈ることによって、私たちは、主イエスの傍らに並びます。そして、父を信頼して祈るのです。
「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶ時、私たちは、すべてを支配する天におられる私たちの父でということであるのです。すなわち、私たちを支配するのは、天の父の愛であるのです。
では、天の神は、なぜ父と呼ばれるのでしょうか。私たちにはこの世に生まれてくるときには、父親と母親がいます。この世の父親は、私たちの肉親の父であるのです。父親はとても力強かったり、ある面やさしかったり、家族の者が困っていたりすると、それを助けてくれたり、守ってくれるのです。しかし、本当の父は神だけであるのです。
わたしたちが生活をして行く中には、幸運ばかりではありません。幸福と隣り合わせには不幸もあるのです。
自分の人生の中で、どんな不幸なことを経験したり、どんなに辛い思いをしても、神が、自分の父であると言うことを言えるこのことが、私たちの信仰を支えてくださるのです。
この祈りは、それぞれ「あなたがた」と「わたしたち」とによる祈願を構成する二つの主要部分に分けることができるのです。初めの行が、その中で後半部の願いが理解されるべき文脈を確立するのです。「天におられるわたしたちの父よ」というマタイの祈りの冒頭の言葉は、ユダヤ人の正式の祈りの中に見出すことができるのです。
「父よ」と言うルカ(11・2)の呼びかけは、神をアッバとして呼びかける、イエスに特徴的な仕方を反映しております。このアッバは、小さな子供、あるいは生まれて間もないようやく言葉になるかならない子供が真っ先に父を覚えるその時の言葉で、愛情に満ちた言葉でありますが、子どもだけでなく、時には尊敬する老人に話しかける時には、大人の人にも使われることがあるのです。アッバは、信頼しきった言葉です。そのように私たちも神を呼ぶことができるのです。
なぜそれが言えるかというと、私たちに神の子の身分を与える聖霊が与えられたからです。この神の霊が与えられる洗礼を受けて、キリスト者になって、罪赦されて、新しく歩み出す時に、主イエスと同じ神の子となるのです。主イエスに対する父であられるように神は私たちにとっても、父でいてくださるのです。その父を「アッバ」と呼ぶのは当たり前のこととなるのです。主イエスも「アッバ」と呼んで祈られました。主が父とよばれるように、私たちも父と呼ぶことができるのです。
主の祈りは、まず父を呼ぶ言葉から始まるのです。
霊性とは、信仰を持って、命の現実のすべてに深く関わって生きることであるのです。霊性は、生きておられる神のまなざしのもとで生きることに集中することを強く迫るのです。ここで必要なのは、救いの言葉をめぐって深く思いめぐらし、それをさらに深く内面化することであるのです。
「御名が崇められますように」という祈願は、まず「名」は、神に言及する方法である
のです。「崇める」(ハギアゾー)は、聖なるものとして他のものから区別して扱うことの意味、神ご自身がご自分のものの中に主として崇められることを示しています。これは私たちの生活における愛と服従の実践迫るのです。
申命記12・11が「あなたの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜びいわいなさい。と、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」に言及する時に、神がエルサレムに住まわれるだろうと言うことを意味しているのです。
「御国がきますように」は、イエスは「神の国は、あなたがたの間にあるのだ」と(ルカ17・21)言われております。それはご自分の到来によって神の国がもたらされたことを教えられているのです。すなわち信じる者の中に今来るものであることを示されているのです。
同時に終末的出来事としての到来も語られているのです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とルカ11:3では記されていますが、
マタイ6・11では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と今日一度限り与えられるようにと記されております。
ルカ11・3節では、次の三つの願いはすべて《わたしたち》の事になるのです。それは、《必要な糧》の《必要な》は、生きるのに必要な、来る神の支配のため必要なことであるのです。与えられた食べ物は、イエスによって神の来たるべき支配のしるしであるのです。それは、ルカ9・12-17で、5千人の養いのお話しです。五つのパンと魚二匹しかないものを、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに配らせて、すべての人が食べて満腹した。そして残ったパンのくずを集めると、12籠もあった」のです。主イエスはこのように先取りされるのです。
神の支配は、イエスが罪人と共に食事をし、(ルカ5・27以下、15・1-2、19・1-10)、罪を赦すための具体化としての祈りであるのです。「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」は、それを条件として神も赦せ、と言うのではないのです。
赦しは神の絶対的自由の行為であるのです。「赦します」は神の赦しの結果なのです。神がわたしたちをすでに赦したしるしとして、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しています。わたしたちは更にお赦しをお願いして、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」誘惑は、試練、終末の色々な苦難をも含むのです。誘惑が来ないようにと祈るのではなく、誘惑が来ても、それに陥って ―ギリシャ語ではエイスフェローと言います。それは、負けないようにと祈ることです。
「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」とは、神の前に立たされた自己の姿を知った者の祈りであるのです。「負い目」(オフェイレーマ)は、罪に対するユダヤ的表現で、義務を果たさないことであるのです。それは、神にまた人に果たすべきことを果たしていない罪が、ここで指摘されているのです。
「皆赦しますから」とは、負い目のある人をもはやそのように見なさないことです。この赦す心をなくしては、自分の罪の赦しを求めて神の前にだすことは出来ないのです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」とは、人生の中では、色々な誘惑があり、世の悪に囲まれて生きる者が心から祈らなければならない祈りなのです。
わたしたち人間は、誘惑に弱い者です。誘惑とは、悪すなわち悪い者、悪魔からくるものであり、誘惑はこの者の誘いによるのです。(マタイ4・1-11)この悪から、あるいは悪い者から解放されることは、来るべき「御国」の祝福に通じるのです。
人間だれでもこの世の中を生きていく時には、誘惑や試練はあるのです。そんな時に一人で悩まずに、主イエスが教えて下さった主の祈りを祈り、誘惑に負けないで、主イエスのように、心から祈れる祈りをいつでもどこでもできるように神を仰いで、日々の生活を、心がけていきたいものです。
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