2013-02-17(Sun)

この宝を土の器に 2013年2月17日の礼拝メッセージ

この宝を土の器に
中山弘隆牧師

 あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です。わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
エレミヤ書15章16~19節


 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
コリントの信徒への手紙二 4章7~15節


(1)信仰生活とは何か 
 本日は、信仰者の在り方について、聖書から学びたいと思います。わたしたちは信仰者としていかなる者であるかということをはっきり知ることが非常に大切です。もしそうでないとすれば、長い信仰生活の中で惰性に流される日々を過ごすことになります。
 誰でもキリストを信じるようになったときには、心が平安と希望に満たされます。そして見ること聞くことのすべてが新鮮で魅力あるものに感じられます。ところが信仰生活が長くなるにつれて、自分の仕事や家庭で果たさなければならない課題や雑用に埋没して、次第に信仰に対する感激が薄れて行きます。
しかしそのような時期こそ、信仰が自分の人生に根付くために非常に良い機会です。長い信仰生活には山あり、谷ありです。谷と見える高揚感を味わうことのない平凡な時期に、信仰の根を張りますならば、高揚と激動の山と見えるときに、信仰は力を発揮します。
従いまして、信仰は日常生活と決して別のものではありません。福音的な信仰は日常生活と決して遊離しているのではなく、その中で力強く働きます。特にプロテスタントの信仰では、すべての職業が神から与えられた召命であると考えています。特に教会の務めに就く牧師や教職者たちだけが召命を受けるのでなく、社会の一般的な職業に従事する信徒も同様に神から召命を受けると考えています。
なぜならば、信仰とは主イエス・キリストと信仰者が存在的に聖霊を通して結び付くことであります。そういう意味で、クリスチャンは牧師であろうと信徒であろうと全く同様にキリストと結びついている者たちです。さらにその結びつきは生活全体において働く性質のものです。

(2)キリストの命に生きる
 それでは、この点に関しまして、聖書は何と言っているでありましょうか。本日の聖書の箇所は次のように言っています。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れた偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(コリント二、4:7)
ちょうど信仰者は土の器に似ています。クリスチャンはあたかも粘土を焼いて作った器に譬えることができます。しかも素焼きの器です。まったく価値の低い器です。
しかし、その中に宝を持っている素焼きの器であるとしたらどうでしょうか。しかも宝の値打ちは計り知れないほど大きいのです。正にそれは神の恵みの大いなる奇跡というよりほかのない尊い事実です。
ここにボールのような丸い形をした素焼きの器を造り、それが上の部分と下の部分に開けるようにします。そしてその中にルビーやダイヤモンドやヒスイなどの宝石をいっぱい詰め込めて、蓋を閉めたとします。そこでこの秘密を全く知らない人を連れてきて、素焼きのボールを見せるとしたら、その人は何と思うでしょうか。
外観からすればただの素焼きのボールに過ぎませんから、その人はボールを足で蹴飛ばしても平気でしょう。もしそうすればボールがぽっかりと二つに開き、中から燦然と輝く宝石が姿を現します。きっと人は腰が抜けるほど驚くことでありましょう。
そこでおもむろに、その人の目の前で二つに開いたボールを閉めて、元のボールにすればどうでしょうか。その瞬間からただのボールではなく、非常に大きな財貨となります。
信仰者の場合もちょうどこれと同じです。外観からすれば極めて平凡な貧しい人間に過ぎません。しかしその中に人間の目では見ることのできない神の宝が入っているのです。ここにクリスチャンの特質があります。それがクリスチャンの真価です。
もちろんこの宝とは、復活のキリストが聖霊を通してクリスチャンの中に働かれるということであります。
これは前後の文脈から判断しますと明らかです。ことに10節で、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)と言っています。
つまり、パウロは主イエスと存在的に結びつき、彼の人生に起こるすべての事柄が主イエスの十字架と復活の力の現れとなっていると言うのです。
また6節では、「『闇の中から光が輝き出よ』命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(4:6)と言っています。
天地が創造されたとき、神は何もないところから光が輝き出よと仰せになって、光を無から創造されました。そこに神の力が現れました。同様に、否それ以上の力をもって神はわたしたちの心を照らし、キリストを信じるようにされました。実に信仰は神の業であり、神が人間の心に聖霊を与えられることにより、人間は信仰を持つことができるのです。
従いまして、わたしたちが今ここでキリストを信じているということは、実にわたしたちが信じているというだけでなく、それは神の働きであり、わたしたちが聖霊によってキリストと結ばれているという神的な事柄なのです。
エフェソの信徒への手紙では、「キリストの計り知れない富」(エフェソ3:8)という表現がされています。
実に、土の器に過ぎない信仰者に与えられている宝とは、「キリストの計り知れない富」に他なりません。

次に、わたしたちのうちに、「キリストの計り知れない富」が与えられているということは、キリストがすべてのことをしてくださるから、キリストに委ねて、自分は何もしなくてよいのだと、枕を高くして安眠をむさぼる怠惰な日を過ごすためではありません。
また、それはわたしたちが自分の思いと力で行動するためでなく、キリストの思いを自分の思いとし、神に喜んで従い、神の御心を自ら進んで実行するためにキリストの命が与えられているのです。
言い換えれば聖霊を通して、キリストとの人格的な交わりの中で、神の命令を実行するためです。
なぜならば、キリストは御言葉を通してわたしたちと日々出会い、わたしたちに神の意志と命令を示し、その命令をキリストの命によって実行しなさいと仰せになるのです。
実にキリストの命令を聞いて、実行することこそクリスチャンが神の御前で生きることの内容と現実なのです。
要するに、キリストの命がわたしたちの中に働くのは、わたしたちが自分の生活や行為のすべてを通して、神の御心を聞き、それを実行するためであります。同時に実行しつつ、祈ることが必要です。
祈りつつ、神の命令を実行するときにキリストの命が聖霊を通してわたしたちの中に働くのです。


(3)愛の労苦と人間的な弱さの中で
 次にキリストの命に生きるクリスチャンの生き方をパウロ自身が具体的に証しています。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない。いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(4:8~10)
神の愛を実行し、福音を広めるためには、愛の労苦と困難を引き受ける決心と覚悟が必要です。それこそイエス・キリストの思いを自分の思いとして決断し、行動することです。
その愛の労苦と困難がどのような状況であるかは、神様がそれぞれに与えられるものですから、具体的な状況はそれぞれ異なっています。パウロはここで一般的な事柄だけを証しています。
愛の業を行っている者には必ず労苦を伴います。四方から苦しめられる状況である場合に、もし自分の思いと力で頑張っているならば必ず行き詰ってしまいます。それに対して、クリスチャンにはイエス・キリストの復活の命が働いているので、行き詰らないのです。
クリスチャン自身は弱い人間でありますので、困難な局面において途方に暮れて、どうしたら打開できるか分からず、非常に動揺します。しかし、キリストの命が働いているので、絶望することはありません。また、周囲の多くの者から虐げられ、極度に圧迫されても、見捨てられないのです。打倒されても滅びないのです。
このようにキリストの命がクリスチャンに働くとき、クリスチャンは神の命令を実行し、言葉と態度と行為をもって、神から与えられた使命を実行することができます。
ドストエフスキーが、あるとき政治犯として逮捕され、投獄されました。そのとき独房の小さな窓が夜毎に開かれ、「兄弟よ、勇気を出しなさい。われらもまた苦しんでいる」という神秘的なささやきが聞こえて来たということです。信仰者は孤独の中でも神の御声を聞いて勇気を与えられます。
愛を実行することによって苦労を担っている者たちはイエス・キリストとの存在的で内的な関係の中にあって、イエスの死を自分の体にまとっている。そのことを通して、自分の体にイエスの復活の命が働いている、とパウロはいうのです。
考えてみれば、生まれながらの人間は自分の思いと力で自分の人生を活発に生きていましても、最後は死において滅びるべき運命にあります。しかし、イエス・キリストは人間が神の御前に生きるために、人間の死を担ってくださいました。
それゆえに、父なる神はイエスを死人の中から復活させて万人の救い主として「主」という地位に就けられました。すなわち父なる神の権能を行使する者、全権委任者とされました。
従いまして、主イエスの復活の命に生きる者とは、イエスの十字架の死において、イエスの死の中にすでに組み込まれている者であります。そのことにより罪の束縛から解放され、罪の誘惑に打ち勝つ力が与えられています。それゆえクリスチャンはイエスの十字架の死を身に負って、日々生まれながらの古い自分に死ぬことが必要なのです。さらに、そうすることを通して自分の中にイエスの復活の命が働くのです。
しかし、クリスチャンがどのように大きな愛の労苦を担っても、そしてイエスの死を身に負っても、自分や周囲の人たちの罪を贖うことは絶対に不可能です。それは神の御子である主イエスだけが実現された神の業であります。
それにも拘らず、主イエスの十字架の死において啓示された神の愛がわたしたちの全存在を捕らえ、わたしたちが心から神の愛を認識し、告白するとき、十字架を経て、復活された主イエス・キリストの地上の生涯の歩みの足跡を喜んで、自ら進んでたどる者となります。それが神の子たちと呼ばれるクリスチャンの歩むべき道です。
それゆえ、パウロが証しているように、クリスチャンはイエスの死を身にまといながら歩むことを通して、イエスの復活の命が豊かに働く人生を歩むのです。
そのことによって、生まれながらの人間は早晩死ぬべき運命にありますが、人間が生きている間にイエスの死をまとうことによって、復活のイエスの命に生きるならば、その人生は神の御前に永遠に生きる人生となります。地上における人生において、すでに永遠の命の実を結ぶのです。
従いまして、クリスチャンの結ぶ永遠の命の実とは、クリスチャンが主イエスの性質を映し出す者となることです。もちろん地上の人生で完全にそうなるというのではなく、人類の救いが完成するときに、クリスチャンの中に与えられている聖霊によって復活することを通して、主イエスの性質を完全に映し出す者となるのです。
わたしたちが死人の中から復活させられて、主イエスの姿を直視するとき、わたしたちも主イエスと同じような姿に変えられます。
要約すれば、人間の救いは時間と永遠のすべての局面を貫く神の恵みによります。そしてこの恵みはキリストを信じるクリスチャンの中にキリストの計り知れない宝として、今既に与えられているのです。このことをパウロは強調し賛美しています。
最後に、計り知れないキリストの宝を自分の中に持っているクリスチャンは決して自己を誇ることのない全く謙遜な人たちです。
主イエスは山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と仰せられました。
心の貧しい人とは自分を誇らない者、謙虚な者という意味でありますが、もっと深い意味は、自分の貧しさを知っている人という意味です。
なぜならば、わたしたちは神の愛を実行し、主イエスの命に生きることをいかに多く体験しましても、主イエスの命は初めから終わりまで主イエスの中に存在するのであって、わたしたちの中に蓄積されるのではないからです。クリスチャンはいつまでたっても自分の中は空っぽなのです。
それゆえに、自分の中は空っぽでも、クリスチャンは主イエスの中に既に与えられている無尽蔵の復活の命を使用する方法を知っています。
御言葉を聞き、常に主イエスと出会い、主イエスの命令を実行することが、既に与えられている主イエスの命を使用する方法であることを弁えているのです。それが神の子たちです。
神の子たちは自分が貧しい者であることを喜び、感謝しているのです。それゆえ、主イエスは「心の貧しい者たちは幸いである。」と祝福されました。



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