2013-02-10(Sun)

聖書が証する主イエス 2013年2月10日の礼拝メッセージ

聖書が証する主イエス
中山弘隆牧師

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
ヨハネによる福音書5章31~40節 


(1)信仰告白による繋がり
 本日は埼玉地区で毎年行っています交換講壇によりまして、武蔵豊岡教会で礼拝の奉仕をさせていただきますことはまことに光栄であります。
栗原先生は熊谷教会との先約がありましたのに、わたしのほうで無理にお願いしましたところ、親切にもお引き受けくださいましたので、先生は熊谷教会と三芳教会で二回説教されることになりました。このことを思い、まことに感謝であります。
 交換講壇は埼玉地区の諸教会が一致と連帯と交流の中で、それぞれの教会が自主性と特色を発揮しながら、教会形成と伝道の業を進めるために行っています。この一致と連帯と交流の根本は何かといえば、それは諸教会が共に主イエス・キリストに繋がっているという一点にあります。日本キリスト教団では、そういう意味で教団の信仰告白を重要視しています。
教団の信仰告白を礼拝において共に告白することによって、諸教会がキリストの体である教会であることを認識し、キリストにあって互いに一つに結ばれるのです。
さらに、信仰告白の意味は神に栄光を帰すことであります。この点に関して、パウロは次にように言っています。
「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:11)
同じ主イエスを告白し、同じ聖霊を受け、同じ三位一体の神を告白することによって、教会は教会として存在し、またクリスチャンは共に一つに結ばれるのです。
このような信仰をもって、霊的な連帯が新たに起こる時と場所が礼拝です。それゆえ、礼拝を守ることはクリスチャンにとって何にも勝る喜びです。
  
(2)神の言葉としての主イエス
次にヨハネによる福音書はその全体を通して、主イエス・キリストが生ける神の言葉であると終始一貫して語っています。
先ず、第一章の冒頭で、次のように言っています。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1:1~3)
ここで、「言」とは父・子・聖霊の交わりの中に永遠に存在される「子なる神」のことであります。そして父・子・聖霊の三位一体の唯一の神は永遠に存在されることを意味しています。
さらに神は御自身以外の物、言い換えれば被造物を無から創造し、それと交わることを欲せられた恵み深い神であることを表明しています。
この被造物との関係について、1~3節は、神の言葉の役割について語っています。すなわち、言と父なる神との関係、言葉とこの世界及び人間との関係について言い表しています。
言とは父なる神の意志の表明であり、父なる神の意志伝達の手段です。しかも言は父なる神とは別の「主体性」をもつ一個の「パーソン」であることを言い表しています。
実に、神は唯一の神でありますが、決して孤独の神ではなく、ご自身の内に父なる神のパーソン、子なる神のパーソン、聖霊なる神のパーソンにおいて互いの交わりを持っておられる神なのです。
そして、世界と人間は、実に「子なる神」である「神の言」を通して創造されたことを3節が告白しています。「万物は言によって成った」と告白しています。
このようにして神は世界と人間をご自身の交わりの対象とするために、神の言である御子のパーソンを通して創造されたと告白しています。従いまして、このような神の創造の業は永遠の昔に為されたのですから、人間がそれを目撃して証言している訳では決してありません。そうではなく聖書の著者であるキリストの使徒たち、そして初代教会のクリスチャンたちの証言とは、14節の事柄なのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(1:14)
言が受肉した方、言が人間となった方、実にその方がイエスであるという事実に直面した者たちが、イエスは永遠の神の子であり、神の言葉であると告白しているのです。
ここで彼らがそのように告白している理由は、彼らが実際にイエスを見、イエスと共に歩み、イエスの人格とその業を見て、この方は神の独り子であり、神の言葉であるパーソンが受肉して人間となられた方であることを信じたからです。そして認識し告白しました。
この方の中に、恵みと真理が満ちていることを認識し、告白しているのです。それでは、この告白は「歴史的」に見て、実際どのように現れたのでしょうか。
その次第はこう言うことです。イエスが地上で神の言葉を語り、神の言葉を実行しておられた間は、弟子たちはまだそのように告白していませんでした。まだできなかったのです。その理由はイエスの使命が未だ達成していなかったからです。なぜならばイエスの十字架の死と復活と昇天がまだ実現していなかったからです。その実現の暁に、初めてこの告白が弟子たちの間で起こりました。
言い換えれば、イエスが十字架につき、父なる神がイエスを復活させられましたので、イエスは今や神として、同時に死人の中から復活した霊的身体を持つ真の人間として、ご自身を使徒たちに現されたとき、初めてこの告白が生まれたのです。
同時に、復活され天地の支配者となられた主イエスは今や、聖霊を与えられる方となられたからです。

それゆえ、主イエスがご自身を使徒たちに現されるということは同時に聖霊が使徒たちに与えられることなのです。
さらにこの信仰と認識はキリストの使徒たちに限られたものではなく、初期キリスト教のすべてのクリスチャンに与えられました。この点を詳しく説明すれば、聖餐式においてであります。
キリスト教はギリシャ・ローマ世界に広まりましたので、キリスト教会はすべてギリシャ語を使用しており、新約聖書はギリシャ語で書かれています。しかし、その中でパレスチナ地方のアラム語が二つだけ新約聖書に大切に保存されています。
それは「アッバ」という言葉と「マラナ・タ」です。アッバとはイエスが父なる神に祈られた時にアッバと呼びかけられた言葉です。従いまして、クリスチャンはイエスの言葉を用いて、「アッバ、父よ」と神に祈りました。使徒パウロはこのように言っています。
「あなたがたは、人の奴隷として再び恐れに陥る霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
次に、「マラナ・タ」とは「主よ、来りたまえ」という意味です。この言葉は聖餐式を執行するときの祈りの言葉です。
パレスチナ地方の初期キリスト教は教会の建物を持っていませんでしたので、信徒の家で礼拝を行い、聖餐式を執行しました。この祈りの言葉は、復活の主イエスが聖餐式に臨在され、陪餐者一同は復活の主イエスと出会ったことを表しています。
実に「マラナ・タ」とは十字架の死において、人類の罪を贖い、復活し、神の右に座するに至った主イエス・キリストが神として臨在し、しかも人間性を持つ方として、復活の霊的身体を持つ方として、ご自身の復活の身体の中に宿る新しい命を、聖餐式において陪餐者に与えられたことを告白しているのです。
このように復活され、天地万物の主となり、教会の頭となられた主イエス・キリストの中に、神の真理と恵みとが満ち満ちていることを使徒たちや初期のクリスチャンが信じ、体験し、認識したのです。そして「父の独り子の中に、神の真理と恵みが満ちているのを見た。」と証し、主イエスを神の言葉として告白しているのです。
従いまして、神の言葉は地上の生涯において主イエスが語られた言葉だけでなく、主イエスの存在と行為の事実をもって語られた内容が神の言葉の頂点です。
つまり、主イエスの十字架の死とその意味と父なる神がイエスを復活させられた事実をもって、神が使徒たちに啓示された内容によって、神の言葉は完結しました。
それゆえ使徒パウロは、父なる神が主イエス・キリストの福音を自分に啓示されたと言っています。そういう意味でヨハネによる福音書は「主イエス・キリスト」が神の言葉であると告白しています。
ここで強調すべき点は、復活の主イエス・キリストは今やこの完結した神の言葉、言い換えれば主イエス・キリストに関する福音を通して、自ら語り、聞く者たちの所に臨在し、聞く者たちと出会われるということです。
それでは、今や復活して完全な神の言葉として、福音を通して働いておられる主イエスと地上の生活の中で神の言葉を語られた主イエスとの間に断絶があるのでしょうか。
決してそうではありません。両者は全く同じ方です。同じパーソンです。同じ性質の方です。
地上で生活し、父なる神と親密な交わりの中にあり、父なる神から自分に与えられた使命が十字架の死による人類の罪の贖いであることを明瞭に認識し、その使命の達成に向かって進んで行かれた主イエスの思いと行動そのものが神の言葉であり、神の言葉の豊かな内容であります。
しかしそれにも拘らず、違いがあるのは主イエスが地上で過ごされた期間には、主イエスは聖霊を弟子たちに与えることができませんでしたので、主イエスの言葉の本当の意味が分かりませんでした。その結果、主イエスの言葉は弟子たちにとってまだ神の言葉になっていなかったのです。しかし、地上で主イエスが語り、行動された神の言葉は弟子たちによって記憶され、保存されていますので、今や神の言葉として認識し、告白されるようになりました。
それだけでなく、主イエスが死人の中から復活されたことにより、主イエスの霊的身体の中に信仰者の受ける永遠の命が既に与えられているのです。そして聖霊によりクリスチャンはその命を受け、イエスとの人格的な交わりを体験し、その交わりの中で生きるのです。
そういう意味で、イエスは今や完全に語られた神の言葉として、今日も将来も永遠に変わることなく行動しておられます。
この点をヨハネによる福音書は最も明瞭にしています。従いまして、今日のキリスト教はヨハネによる福音書の視点をしっかりと持って、聖書を読み、福音を語ることが重要です。
実にインマヌエルなる復活の主イエスは信仰者と共におられるのですが、ただそれだけではありません。主イエスは神の言葉を通して日々わたしたちと出会われる方です。
初期キリスト教のクリスチャンたちは、夜床に就く前に、跪いて主イエスの名によって、父なる神に祈りました。そして主イエスの御顔を瞼に浮かべながら安らかに眠りました。
わたしたちは朝起きたら何もしない前に、先ず主の祈りをするのが良いと思います。主イエスは一日の初めにわたしたちと出会い、わたしたちを呼び出してくださいます。主の祈りをすることにより、一日が主イエスに従う歩みとなります。

(3)わたしは命である
最後に、本日の聖書の箇所でありますヨハネによる福音書5:39は次のように言っています。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書の研究をしている。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとはしない。」(5:39~40)
ここで、聖書とは旧約聖書のことであり、律法の書と預言書を意味しています。ユダヤ教徒は特に律法の書が聖書の中心であると信じ、律法を研究することによって永遠の生命が与えられると考えていました。
主イエスは律法や預言はそれ自身が永遠の命を与えるのでなく、永遠の命を与える主イエス・キリストを証するのであると仰せられました。
この文脈で、聖書とは旧約聖書を指していますが、新約聖書を含めても同様のことが言えます。聖書は人間の言葉で書かれていますので、その点では生ける神の言葉ではありません。聖書が証する主イエス・キリストご自身が「生ける神の言葉」なのです。そして主イエス・キリストが聖霊を通して、ご自身の永遠の命を与えてくださることにより、クリスチャンは主の命に生きるのです。
従いまして、重要な点は、神の言葉である主イエス・キリストは今や聖書を通して、特に主イエスの福音を通して、ご自身が語り、ご自身を現わし、聞く者たちと出会い、「あなたはわたしを信じるか」と言って、ご自身に対する信仰を要求されるということです。
この時、わたしたちは復活の主イエスと出会っているのです。そこにおいて、主イエス・キリストを信じる者には、聖霊が与えられます。その聖霊を通して、人は永遠の命が自分のために既に主イエス・キリストの中に与えられていることを理解します。
さらに、主イエスの命令に従って実行するときに、すでに与えられている永遠の生命をわたしたちが使用することになるのです。
主イエスは次のように仰せになります。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)
イエスの命令を聞いて、人は自分の力と知恵によってそれを実行せよとイエスは言われたのではなく、イエスの中に既に与えられている永遠の命を使用して、イエスの命令を実行せよ、と仰せになっているのです。
逆に言えば、主イエスの命は、主イエスの命令を聞いて実行するときに働くのです。それゆえ自分の中にではなく、主イエスの中に既に与えられている命を使用するということは、主イエスの命令を聞いて、実行することと一つになっています。
実に主イエスは御言葉を通して、日々わたしたちと出会いご自身に従うように命じられます。
わたしたちは主イエスが地上の人生で、父なる神を知り、父なる神に従われた主の決断と行為を、わたしたちが置かれている現代の状況の中で、わたしたち自身の決断と行為を通して、「映し出す」ことが主イエスの御足の跡に従い、主イエスの命に生きることです。
この生き方を可能にしておられる神の深い愛と大きな恵みをわたしたちは感謝し、賛美する者たちです。(於いて、武蔵豊岡教会)



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