2013-02-03(Sun)

聖なる神 2013年2月3日の礼拝メッセージ

聖なる神
中山弘隆牧師

 今、行って、このことを彼らの前で、板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い、預言者に向かって「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ、我々の前でイスラエルの聖なる方について、語ることをやめよ」と言う。それゆえ、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「お前たちは、この言葉を拒み、抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ、この罪は、お前たちにとって、高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む。その崩壊の様は陶器師の壺が砕けるようだ。容赦なく粉砕され、暖炉から火を取り、水槽から水をすくう破片も残らないようだ。」まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに、あなたたちを追う者は速いであろう。一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。残る者があっても、山頂の旗竿のように、丘の上の旗のようになる。
イザヤ書30章8~17節


 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
コリントの信徒への手紙二 1章15~22節


(1)イザヤの召命
 預言者イザヤはキリスト降誕の約740年前に、神から召命を受け、約40年間の長期にわたって神の言葉を語りましたので最も有名な預言者です。しかし、イザヤの流れをくむ預言者のグループはそれ以後も存在し、第二イザヤと呼ばれる預言者も召命を受け、イザヤの約200年後に神の言葉を語りました。
 それではイザヤの預言者としての原点はどこにあるのでしょうか。もちろんそれは神から預言者としての召命を受けたことです。この出来事は6章1~2節に記されています。
 「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。」(イザヤ6:1~2)
 これは彼が神殿に仕える預言者として、神殿の礼拝に出席し、祭司たちと共に祭壇のすぐ近くにいて、奥にある至聖所の入り口に渦巻いている香料の煙を通して、神が臨在される漆黒の空間を見つめていたのです。
 彼は神ご自身を見たのではなく、頭上高くに挙げられたところに、神の支配の座があり、そこから衣の裾が神殿いっぱいに広がっている光景を瞬間的に見たのです。
これは何を意味しているのでしょうか。神の偉大さとその支配が全世界を覆っていることであります。
 さらに神ご自身の尊厳は、被造物である人間が直視することができないほど大きいことを示しています。ことに、セラフィムとは神の傍に仕える霊的な被造物で、彼らもその翼で自分の顔と足とを覆っているということは、神の尊厳に対する恐れの念を現わしています。そしてセラフィムは神を賛美して互いに呼び交わしました。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。主の栄光は地のすべてを覆う。」(6:3)
 ヘブル語では最上級を表すのに、同じ言葉を繰り返します。従って、聖なる、聖なる、聖なる主とは、神が最高に聖なる方であることを意味しています。
すなわち、聖なる神とは、道徳的に無限に清い方であることを告白しています。同時に、神は御自身が真理の保持者であり、神がご自身の意志を貫徹されるところに神の栄光が現れることを告白しています。
 言い換えれば、神が世界の創造と歴史の支配を通してご自身の真理を貫かれることの中に、神の栄光が現れているのです。
 この瞬間的なビジョンは煙が至聖所を覆ったときにはもう隠されてしまいましたが、イザヤはビジョンを見たことによる深刻な事態を理解しました。それは人々が律法に規定されている通りの儀式によって礼拝を献げていましても、それは神の御前で行われている本当の礼拝から遠く締め出されているというのです。
原因はイザヤを初めすべての人間の道徳的な堕落と汚れのためであります。彼は自分の道徳的な汚れのために、死ぬ他はない者であることを痛感しました。
このときセラフィムが祭壇から香を燃やす炭火を取って来てイザヤの口に当てましたので、彼の罪は赦されました。これは何を意味しているでしょうか。
それは神が聖なる方であることの威力を明確に自覚したこと、そして自分と自分を取り巻く世界が道徳的に汚れている現実と、さらに真理は神ご自身であり、人間は真理の所有者ではないことを自覚したことにより、可能となった神の赦しを表しています。
 その結果、イザヤは神の言葉を聞くことができる預言者として立てられました。8節に次のように記されています。
 「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わそうか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにいます。わたしを遣わしてください。』」(6:8)
 聖なる神は御言葉を語り、御言葉をもってご自身の計画を示し、御言葉をもって歴史の中で、ご自身の計画を実現される方です。
この神の言葉と行為を通して、神は人間と出会われるのです。そのことによって、イザヤは神の霊的な現実に接し、自分が生ける神に直面していることを深く意識しました。
彼は「わたしはここにおります。わたしを遣わしてください。」と言っていますが、この言葉は自分が今、神の御前に存在していることを良く表しています。
言い換えれば、神の御言葉を聞くことを通して、神は今イザヤに聖霊を与えられたのです。その結果、彼は自分が神の御前に存在する者になったと、告白しているのです。
 イザヤはこの神との霊的な交わりの中から、イスラエルの民のところへ遣わされ、神から聞いた御言葉を語るとき、神はイザヤの語る神の言葉を通して働かれます。このことが神に召された預言者の務めなのです。

(2)イザヤの前期の活動
 イザヤの預言活動は前半と後半とに分けられます。前半の預言は1章から5章に記されています。
 それはユダとエルサレムに対して、彼らの宗教的な不誠実を糾弾する言葉です。それは神の聖なる性質とその威力を理解せず、儀式的な礼拝で自己満足している神の民イスラエルの盲目と不真実を厳しく断罪しています。また、社会的な不義と偽り、ことに上流階級の富に対する貪欲と堕落に対する断罪です。
 その結果、今や神の裁きが迫っており、大きな地震に襲われること及び戦争による甚大な被害をこうむることを告げ、直ちに悔い改めて、神に立ち帰ることを要求しました。
 この時期にユダを取り巻く政治的状況が急変し、大きな脅威が迫ってきました。それはアラムの諸国家とユダの同胞である北イスラエル王国が同盟を結び、ユダ王国を攻撃してくるという緊迫した状況です。このとき、ユダの狼狽した様子を聖書は「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と表現しています。
 山奥の木立は普段は静まり返っていて、小川が流れる音や鳥のさえずる声だけが聞こえてくる平和な空間ですが、一旦嵐が通りますと、大木は揺れ動き、木の葉は吹き飛び、幹が折れて驚くような音を発し、騒然とした異様な光景を呈します。人は身の危険を感じて、一刻も早く逃げ出そうとします。同じように、ユダは軍事的な危機において、一刻も早く軍備を整えることに奔走しました。しかし、彼らには確信がなく、ちょうど嵐に揺れ動く森の木立に似ていました。
 それは人々が聖なる神が人類の歴史の支配者であることを悟っていないからです。それに対して、イザヤは民族と国家の安全は、聖なる神に対する信仰と信頼にあることを告げました。
 戦争に備えて、水路を確保するために、視察に来たアハズ王に面と向かってイザヤは次の神の御言葉を語りました。
 「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(7:4)
 これは決して戦争の際に軍備を増強しないでもよいというのではありません。しかし、歴史を動かす力は、軍事力ではなく、神の御心であり、人が神から与えられた自己の使命を果たすことの中に働くのです。
正義と公平を行うことによって、国内が団結していることと近隣諸国の共存の道を開くことの中で神の力が働くのです。そのためには、神を信頼して、忍耐することが必要なのです。
 しかし、アハズ王はイザヤの告げた神の言葉に聞こうとはせず、目に見える軍事力に頼って、アッシリア帝国の助けを要請しました。 
その結果、アラブの諸国家とイスラエルの連合軍の脅威は一時的に取り去ることはできましたが、将来のユダ国家の滅亡の原因を作ってしまいました。
近隣諸国の共存を真剣に求めないために、アッシリア帝国による本格的な侵略の道を開いたのです。アハズ王のこの考えと行動を見て、イザヤは預言者活動を中止し、10年間の沈黙の時が続きました。

(3)後期の活動
 本日の聖書の箇所は後期の活動を示しています。これは10年間の経過により、今やユダ国家はアッシリア帝国の脅威にさらされました。それまで多くの紆余曲折がありましたが、ユダの王ヒゼキヤが主導して、エジプトを味方とし、近隣諸国に呼びかけ、アッシリア帝国に対して大規模な反乱を計画しました。
その理由はアッシリア帝国がその属国と化した諸国家に莫大な貢物を毎年要求しましたので、その抑圧を排除するためでした。それに加えて、アッシリア王朝の内紛があり、反乱を起こす絶好のチャンスと考えたからです。
 しかし、イザヤは軍事同盟に頼ることは聖なる神に対する不信仰である。神に信頼して、この試練の嵐を、静かにして動揺せず、神が命じられたことを真剣に聞き、自分の使命を果たすことが、国家の唯一の安全を保障することであると、預言しました。その言葉は30章15節に記されています。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力である。』と」(30:15)
 神はイザヤを通して、次にように仰せられました。
 「エジプト人は人であり、神ではない。その馬は肉であり、霊ではない。」(31:3)
 馬とは軍馬のことであり、軍事力がいかに強大でも、それは国の安全を保障しない。神が裁かれるときに、人も馬も共に倒れるというのです。

 聖なる神こそ、歴史の唯一の支配者であり、ご自身の真理に従って、それを実現するために行動しておられる神の働きを信頼して、一切の思い煩いと動揺を捨て、忍耐しつつ歩むことが試練に勝利する秘訣であると、イザヤは預言しました。
 この時、事態はユダの王ヒゼキヤと国の指導者たちの予想に反して、反乱はたちまち征服され、足並みが乱れる中で、ユダは孤立し、ユダの王ヒゼキヤは遂に「籠の中の鳥」のようになりました。そして、ヒゼキヤは降伏し、莫大な貢物を納めて国家の滅亡を免れたのです。
 しかし、イザヤはアッシリア帝国が自分たちの勝利は、「背信の民ユダに対する神の鞭」として用いられたことが原因であると謙遜に認めず、聖なる神に対する恐れを持たなかったために、神はアッシリアの傲慢を必ず罰せられると預言しました。
 この点に関して、イザヤ書37章36~37節に記されている記事は、アッシリア軍の陣営でペストが発生し、18万5千人が死亡したので、アッシリアの王は首都ニネベに引き揚げて行き、そこで暗殺されたという内容であります。
しかし、これは後の時代にイザヤ書を編集した者による記事であると推定されています。これは単なる物語であり、歴史の事実ではありません。イザヤの預言はそのような奇跡が起こらなくても、聖なる神を信じ、忍耐しているならば降伏せずに、ユダ国家が未曾有の危機を脱することができるというメッセージなのです。

(4)聖なる神の究極目標
 以上のように聖なる神は、イザヤの預言活動を通じて「神の民」の不信仰と不誠実を裁き、清め、赦し、全人類に対する「聖なる神の証人の務め」を果たさせようとしておられることを示されました。さらに神の究極目標は、全人類に対する「神の救い」を実現するために人類の歴史を支配しておられるということです。
 イザヤはユダ国家の混乱と激動の時期を通して神を信じ、信頼し、動揺することなく、終始一貫した神の言葉を語りました。
 他方、ユダヤの王アハズと王ヒゼキヤ、さらにユダヤの指導者たちはすべて神の言葉を信頼せず、この世の知恵と力に頼り、動揺し、最後は彼らの計画が破綻し、死に至りました。
その原因は彼らがすべて肉なる人間であって、聖なる神と人格的な交わりを持っていなかったからです。

 彼らは皆、形式的に神を信じ、神を礼拝していましたが、それは礼拝において人が生ける聖なる神の御前に立ち、神の言葉を聞き、神は御自身の真理を貫き、真理を実現される方であることを理解せず、神の御言葉に従い、実行することをしなかったからです。
その根本的問題は、その礼拝が神との正しい関係に基づいていなかったからです。今や、神は主イエスの十字架と復活により、罪人である人間が聖なる神と出会うことのできる正しい関係を樹立し、真の礼拝を可能にしてくださいました。
主イエスの十字架の死による罪の束縛からの解放と、主イエスの復活による主イエスの義と命が聖霊を通して、主イエスを信じる者に与えられていますので、わたしたちは神との正しい関係の中に入れられたのです。
この基礎に立脚した霊的な礼拝において、人は聖なる神に直面することができるのです。この時、御言葉と共に聖霊がわたしたちの心を照らしますので、わたしたちの存在の中に、神の真理が働きます。それゆえ、わたしたちは御言葉を実行することができるのです。
 主イエスの十字架の死と復活において、神ご自身が実現し、わたしたちすべての人間に無償で提供されている神の真理と恵みを受けることにより、神に従い、神に仕える礼拝が可能なのです。



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