2010-08-01(Sun)

隣人と共に生きる 2010年8月1日(平和聖日)の礼拝メッセージ

隣人と共に生きる
中山弘隆牧師
 
 あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
申命記24章10~22節

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章25~37節

(1)平和のために
 本日の礼拝は、65年前の戦争の悲劇を二度と繰り返さないために、日本基督教団が定めた平和を祈願する礼拝であります。
 今日の日本にとりまして最も必要なことは、隣国諸国と平和共存する道を真剣に求めることではないでしょうか。

(2)ファリサイ人の質問
 本日の聖書の箇所は、人間に対する神の意志を啓示している律法を、イエスがどうのように評価しているかを、ユダヤ教徒である一人の律法学者が試した、と書いてあります。
 ここで律法学者とイエスとの問答が始まりました。先ず、律法学者がイエスに向かって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と議論の火蓋を切りました。イエスはそれを受けて立ち、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といって、問いを相手に返されました。これは律法の神髄は何か。律法の根本目的は何かという問いであります。
 それに答えて、律法学者は律法全体を二つの戒めによって総括しました。すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と律法に書いてある、と答えました。
 この第一の戒めは、敬虔なユダヤ教徒たちが毎日唱和している信仰告白である申命記6章4節と5節に含まれています。すなわち「聞け、イスラエルよ。わららの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という聖句の一節であります。
 また第二の戒めである、「自分自身のように隣人を愛しなさい」という聖句は、レビ記19章18節からの引用であります。事実、レビ記には「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と書いてあります。
 このようにして律法全体はこの二つの戒めの上に立脚していると答えた律法学者に対して、主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」、「あなたは正しく答えた。それを実行しなさい。そうすればあなたは永遠の命に生きるであろう。」と仰せられました。
 このイエスの言葉から分かりますことは、永遠の生命は「神と隣人とを愛する」ことに他なりません。神と隣人とを愛する者は、終末において到来する神の国の生命に、今この地上にあって、その先取りとして生きるのである、とイエスは仰せられました。ここには実に深い意味があります。
 しかし、律法学者は隣人に対する愛について、条件を付けることによって実質的に隣人愛を拒もうとして、次のように言いました。
 「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたのです。これは隣人愛の対象を制限することによって、隣人愛の義務を軽減しようとしたのです。あからさまに言えば、隣人愛を自分たちの仲間だけに限定しようとしています。そして自分たちの仲間を最大限に拡大すれば同胞のユダヤ人であり、最小限に縮小すれば、それは律法学者やファリサイ派の人たちです。しかし、それはこの律法を与えられた神の意図に反しているのです。

(3)溢れ出る愛
 これに対して、主イエスは善きサマリヤ人の譬え話をされました。しかしこの譬え話は、例話であり、人がその通りに実行すべき性質の物語です。
 イエスがここで示された隣人愛とは、民族の壁を越えて働く愛です。「あなたの助けを必要としている者は、どの民族に属していようとも、あなたの隣人である」と言われたのです。すなわち、イエスはここで「与えられた時と場所で、活きて働く愛をもって、あなたの助けることのできる者は、誰であっても、あなたの隣人なのだ」と教えられています。
 30節で、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追い剥ぎに襲われた。追い剥ぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」と話されました。
 これは当時頻繁に起こった事件です。エルサレムの町からエリコの町までは、約30キロの急な下り坂です。徒歩で約8時間掛かかります。しかも岩ばかりの荒涼とした道がどこまでも続いており、追い剥ぎが出没する悪名高き道路でした。それでも幹線道路でありましたので、人は危険を冒してもそこを通って行かざるを得ませんでした。
 31節、32節では祭司とレビ人が登場してきます。彼らは神殿での当番が終わり、次の当番までの間は、郷里に住むために、エルサレムから下っていったのだと思われます。ちょうどその時、追い剥ぎに襲われて、半殺しになって倒れている人の傍を通りました。祭司は神殿で民衆に律法を教える立場にある宗教家です。それゆえ隣人の災難には同情の念が厚いだろうから、きっと自分を助けてくれるに違いないと期待しました。それにも拘わらず彼は見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎていきました。祭司は自分の身にも危険が襲い来ることを恐れ、足早に立ち去ったのです。また、神殿に仕えているレビ人も同じように、そこを通り過ぎてしまいました。わたしたちだったらどうするでしょうか。やはり身の危険を感じて思わず逃げてしまうでしょうか。それとも途中で思い返して、気の毒な旅人を助けるために引き返すでしょうか。
 その時、サマリヤ人の旅人が近づいてきました。彼は商人でエリコからエルサレムへ上る途中でした。残念ながら強盗に襲われたユダヤ人にすれば、サマリヤ人から助けを期待することはできませんでした。なぜならば、サマリヤ人はユダヤ人がバビロンに捕囚された時期に、祖国に残ったユダヤの貧民階級で、その間に他の民族と混血しました。彼らは神と旧約聖書を信じていたにも拘わらず、ユダヤ人が捕囚から解放されて帰国したとき、ユダヤ教の教師エズラによって、サマリヤ人は純粋のユダヤ人でないという理由で、ユダヤ教から追放されました。それ以来、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあったからです。

 ところが、サマリヤ人は普段自分たちを軽蔑し、差別しているユダヤ人が瀕死の状態で倒れているのを見ると、人ごとのように思わず、深い同情を覚えました。33節にこのように記されています。
「ところが、旅をしていたサマリヤ人は、側に来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」
 「憐れに思い」というギリシャ語は、実に深い意味があります。それは心の一番奥から出る感情に突き動かされ、その人の災難を自分自身の災難のように同情することです。そしてその人を助けることを、決意するという心の中での最も重要な働きを意味しているのです。
これは人間の行う最も高貴な決意であり、本心から出た行為なのです。サマリヤ人はこのように堅く決意することにより、これまで全く面識の無かった人を、宿屋に連れて行って、介抱し、身内の者のように世話をしました。
 さらに、翌日宿屋の主人にデナリオンの銀貨二枚をわたし、介抱してくれるように頼みました。この額は数日分の宿屋の料金に相当すると言われています。そして、もし余分に掛かった治療費は自分がエルサレムを出発するときに自分で支払いますと約束しました。

 このサマリヤ人の献身ぶりは、並大抵の親切ではありません。実に溢れ出る愛であります。法外とも言うべき親切であり、しかも無償の愛です。出し惜しみをする施しではありませんし、ひも付きの援助でもありません。心の中から溢れ出る豊かな愛です。そこには主イエスが山上の説教の中で、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:40~41)と教えられたその積極性があります。言い換えれば自ら喜んで与えようとする自発性が、このサマリヤ人の親切な行為にはあります。
 それでは、人はなぜそのような愛を実行できるのでしょうか。それは決して単なる義務感から実行できるのではありません。神様がわたしたちを愛して下さっていることを知っているからです。クリスチャンは主イエスがわたしたちを救うために、十字架について死に、ご自身の尊い命をわたしたちに与えて下さったことを、知っているからです。そして神様は聖霊を通して神の愛をわたしたちの心に注いで下さるからです。

(4)発想の転換
 次ぎに、「わたしの隣人とは誰であるか」という律法学者の発想に対して、善きサマリヤ人の譬え話をされたイエスは、「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問いかけ、「その人を助けた人です」と律法学者が答えますと、イエスはこう命じられました。
「行って、あなたも同じようにしなさい」。実にイエスの発想は「助けを必要としている人の隣人になる」ということです。ここに発想の転換があります。「わたしの隣人はだれか」ということから、「わたしが隣人となる」ということへの変換です。
 わたしはこの譬え話を読んで大いに感じますことは、平和を守るためには、すなわち戦争を防止するためには、わが国が中国や韓国、北朝鮮その他の諸国の隣人となることの必要性です。
 これまで、日本人の心の中に、そして日本人の道徳の中に、聖書が言う隣人という意識は全く欠如していました。日本人の道徳や価値観の中に、家族や国民そして民族ということが中心的な位置を占めていました。そのために、日本は中国や東南アジアの諸国を侵略する無謀な戦争をしたのです。その結果、日本は隣国の諸国から激しい憎悪を受けました。それ対する日本の対処はこれまた極めて自己中心的であります。
 それに対して、ドイツは日本と同じように、自分たちの民族の優秀性を絶対的な理念として、ユダヤ人の根絶を計り、近隣諸国に対して侵略戦争を始めた結果、遂に敗戦国となり、周囲の隣国の激しい憎悪にさらされました。しかし、ドイツの戦後処理は、全く日本とは対照的です。
 ドイツでは、戦争犯罪者に対する戦勝国による裁判を受け入れただけでなく、その後も自らの手で、ナチスの戦争犯罪者を捜し出し、裁判を行いました。同時に、侵略戦争にドイツ国民を導いたナチスの思想とその運動を非人道的な思想として徹底的に排除しました。
同時に、直接戦争に荷担しなかったドイツ市民や戦争を知らない世代に対しても、歴史的な犯罪行為の責任をドイツ国民は担うべきであることを教え、そして巨額な賠償を隣国諸国に払いました。さらにそれは侵略戦争の被害を受けた多数の個人に対して、国家に対する賠償よりも多くの賠償を支払いました。「それは侵略戦争の被害者に対する道義的責任を果たすことが、ドイツ人の名誉のためである」という根本的な考え方をドイツ人が共有したからです。そのために、新しい国家の指導者たちが努力したのです。
 その結果、チェコ、ポーランド、オランダから信用を獲得することができました。そして従来歴史的な宿敵であったフランスと和解し、両国の指導のもとで、ヨーロッパ共同体を建設しました。
 ある時に、西ドイツの首相が日本の首相に対して、「日本も、周囲に隣人を持つように努力すべきだ」とアドバイスをしました。しかし、この真摯な助言を日本の指導者たちは聞き流してきました。
 日本も東南アジアに賠償金を支払いましたが、日本の企業から日本政府が買い上げた設備を、無償で提供するという仕方を用いました。それは日本企業が東南アジアに進出するために、官僚たちが考え出した巧妙な仕方であり、いわゆる紐付き援助という悪評を受けました。
 それだけでなく、日本が歴史問題で近隣諸国と対立しているのは、日本の軍国主義的な国家の理念が、非人道的な間違った理念であるという根本的な認識の欠如によるものです。隣国の何十万、何百万という住民が略奪され、虐殺され、様々な苦しみを受けたことに対する人間としての道義的責任感の欠如によるのです。これはまことに世界に対する日本民族の恥さらしです。日本で問題なのは、庶民の意識が低いということもありますが、同時に政治家の意識が、ドイツの政治家とはまるきり違うという点です。
 戦時中、国教でありました靖国神社は戦後、一つの宗教法人に成りましたが、教理と儀式の面では戦時中の靖国神社と何ら変わりがありません。軍隊は天皇の兵士であり、戦死した兵士の英霊を国家の守護神として祀るのが靖国神社の務めである、と言う考え方で、今日の靖国神社は存続しています。そして、靖国神社は政治家に働きかけて、宗教法人ではなく、戦時中のように国教にしようとしています。このような戦時中の考え方を持っている人々が宗教界また教育界にいて、盛んに発言し、文部科学省にも影響を及ぼしています。実に憂うべき点は、侵略戦争の精神的支柱であった実体が、今日の日本にまだ温存されているということです。日本国家と日本民族がこのグローバルの世界で存続するためには、ドイツのように非人道的な理念を完全に払拭することが必要です。そのために、「隣人となる」ことを日本人の根本的道義とするべきです。
 日本キリスト教団の関東教区では、平和聖日に世界平和を祈願して、日本キリスト教団が犯した罪の告白を礼拝の中に取り入れようとしています。その要点は、日本基督教団の諸教会が、侵略戦争に荷担し、近隣諸国の人民に甚大な苦しみを与えたことです。この罪を神の御前に告白し、その赦しを願うことです。次は、戦時中の教会は天皇を神として崇める宗教行事を受け入れ、神を第一とせず、天皇を第一とし、キリストの主権を否認したという信仰における最も中心的な罪を告白し、その赦しを願うことです。次は、ホーリネスの群れの牧師が、天皇崇拝を拒否したために投獄されました。そのとき教団はその牧師たちの教師籍を剥奪したことです。これは教団の組織を守るために、キリストに対する信仰を裏切ったという深刻な罪の悔い改めです。今日、教団が福音を正しく宣教し、キリストの体である教会を建設するために、この根本的な誤りを克服して行くことが必要なのです。それはまた、日本社会や国家が、世界の中で近隣諸国と共存し、世界平和に寄与するために必要な課題であります。
要するに、主イエスが仰せになった「隣人となる」ことがクリスチャンの使命であり、さらにグローバルの世界の中にあるわが国の使命なのです。




スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR