2012-10-28(Sun)

宗教改革の原点 2012年10月28日の宗教改革記念日礼拝メッセージ

宗教改革の原点
中山弘隆牧師

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15章1~6節

 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節


(1)ルターによる福音の再発見
 宗教改革者ルターはキリスト教の歴史の中で、長い間忘れられていたキリストの福音を再発見した人です。彼のパウワーと影響の大きさは実に福音的信仰によるのです。この信仰は彼のすべての書物の中に息づいており、彼の行動を支配し、激しい戦いの中で彼を支え、生涯の最後まで、盾となり、人生行路の錨でありました。
 彼は自分の魂の救いを求めて修道院に入り、清貧と苦行によって魂の平安を得るため努力したのですが、ますます自責の念が募り、内的な苦悩と混乱が増すばかりでした。
そのとき、年老いた修道士シュタウピッツの助けにより、しかし何よりも新約聖書のパウロの手紙の研究を続けることにより、「罪人は律法の業によるのでなく、信仰によってのみ義とされる」という確信へと徐々に導かれていきました。彼はこの事柄のすべての意味を十分に理解するようになる以前から、すでに心の中でこの真理を経験していました。彼は修道士の厳格な修業によっては得ることのできなかった魂の平安を信仰義認の中で発見しました。
それまで、日夜ローマの信徒への手紙1:17の御言葉、すなわち「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」の意味を考え巡らし、神の義とは罪人を罰する神の正しさであると考え、その度に恐怖を感じていました。
しかし、修道院生活が終わりに近づいた時、神の義とは、キリストを信じる者に対して、神がキリストにおいて、自由に与えられる神の賜物であるという結論に到達しました。
義とは自分の努力と功績によって獲得されることはできない。他方、キリストの中で義は完璧である。それゆえ、すべての罪人のなすべきことは、キリストの義を自由な賜物として神から受け取ることだという理解に達したのです。
信仰義認とは罪人を無罪放免し、罪人にキリストの義を衣のように着せる神の判決なのです。その場合に唯一の条件が信仰です。また信仰とは人格的な信仰で、キリストを理解し、キリストの義を受け取ることであり、それゆえにキリストの義を自分の善き業において示すことなのです。
ルターは信仰が怠け者ではない。良い木が良い実を結ぶように、信仰義認によってキリストの義をまとって正しい人間となった者は愛の業を活発に行い、信仰の働きを現すと言っています。しかしこのような信仰は人間の力によるのではなく、聖霊の働きなのです。また、この信仰は福音と共に啓示されました。
これが福音的信仰の力です。パウロが「福音は、ユダヤ人を初め、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である。」(ローマ1:16)と言っている通りです。
この点、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の義認の教理の相違がはっきりとしています。
ローマ・カトリックの義認とは信仰者が信仰と善き業とによって徐々に正しい人間に向上して行き、遂に正しい人間となることによって、義と認められると言っています。
それに対して、プロテスタントの義認とは、神の判決というただ一つの行為です。そして信仰義認の行為に聖化の過程がつづくのです。従って、義認とはキリストの義に基づいています。そしてキリストの義が信仰によって信じる者に与えられるのです。

それゆえ、信仰と聖化とは区別すべきです。しかし、義認が聖化の過程をもたらすのですから、義認と聖化は密接につながっています。これがプロテスタントの信仰義認の教理です。
この信仰義認によって、クリスチャンは魂の平安と神の子の自由が与えられ、神との人格的な交わりの中で、御言葉を聞き、御言葉を喜んで実行する者となります。
従いまして、聖化とはキリストにある神の恵みの中で生る道を歩むことであり、その中で性質と行為において、キリストに似るようになっていく過程です。
さらに救いの完成はクリスチャンがキリストに完全に似る者へと変貌することで、それは専ら神の業であり、聖霊の業であります。

(2)神との正しい関係
 次に、信仰義認とは神との正しい関係の樹立であるといえます。神は聖なる神であり、愛に満ちた神であり、真実な神であります。そこには何らの汚点や暗さは全くありません。神は唯一であり、創造者であり、救済者であり、支配者であります。生ける神は真理と命の源泉です。
この神が神であるところのすべてのことを神の義と聖書では呼んでいます。
従いまして、聖書における神の義とは現代人が神の性質や行動を概念的に分析して理解する仕方を遥かに超えた豊かな内容を持っています。
 神は人間を愛し、交わりの対象とすることを欲しておられましたが、義なる神は罪ある人間を交わりの相手とすることはできません。そのためには神は罪ある人間を正しい人間とすることによって、初めて交わりの相手とされました。
 それゆえ神は先ず人間を正しい人間とするために、神の御子が人間となったイエスにおいて、神の義を人間の中に実現されたのです。実にイエスの生涯こそ、信仰によって、そして聖霊の働きによって、神との正しい関係の中で歩み、そのことによって神の義を啓示されたのです。
 特に、十字架と復活の出来事を通して、神の義が啓示されました。そして、神の義の啓示と共に、それを信じる信仰が聖書の歴史の中で、初めて人類に到来したのです。
聖書はこの点に関して次にように言っています。
 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。--しかしし、信仰が現れたので、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:23~25)
 それゆえ信仰とは単に神を信じる信仰ではなく、神が主イエス・キリストにおいて神の義を啓示されたことを信じる信仰なのです。
 その信仰をもって、主イエスを信じるとき、主イエスにおいて実現した神の義が人間に与えられ、人間は正し人間となるのです。
 それゆえ、聖書おける神の義とは神ご自身の本質であると同時に神が人間に自由に与えられる神の賜物です。

 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐しておられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義とされるためです。」(ローマ3:25~26)
 この聖句は、神が主イエスの十字架の死において、神の義を実現され、そして神の義を主イエスの復活の中で啓示し、イエスを信じる者に神の義を与えられる方であることを語っています。
これは主イエスが死に至るまで神の御心に従順であったことによるのであり、実にそのことを通して、神がご自身の意志を貫徹されたゆえに、神の義が啓示されたのです。
そして、主イエスを復活させ、主イエスが人間の義となり、聖となり、贖いとなられたことを明らかにされました。それゆえ、主イエスを信じる者に神の義が与えられるのです。

「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるならば、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:9~10)
 それゆえ、信仰によって主イエスと結ばれた者は、主イエスの義をまとい正しい者として、神の御前に立つことができます。言い換えれば、信仰によって主イエスと結ばれるならば、主イエスが信仰者の中に臨在されるので、クリスチャンは神の御前で正し人間となるのです。このようにして、神は罪人である人間との正しい関係を樹立されました。
確かに、クリスチャンといえども人間である以上、主イエスとは異なり、罪人です。しかし、神は罪人に主イエスの義を与えることにより、神との正しい関係の中に招き入れられました。この関係こそ、決してどのような状態の中でも撤回されることのない永遠の関係です。
 この関係の中で、神は日々クリスチャンと出会い、神の御言葉を語り、ご自身の意志と人類の救いとこの世界の救いを実現させるという神の計画を示されるのです。そして神の広大な計画の中で、クリスチャンは自分の果たすべき事柄を神から命じられるのです。
 同時に、神はその御言葉の実践を可能とする認識と霊的力と命とを、主イエスの中に既に与えていてくださっていると、仰せになるのです。要するに、主イエスの中に、神の御言葉をクリスチャンが自ら進んで実行する新しい人間の自由が備えられていることを神は明らかにされたのです。

 次に、信仰とは確かに人間の行為です。人間の最も主体的な行為です。神が人間の救いのために主イエスにおいて実現し、またそれを完成へと導かれることを、理解し、決断し、承認する行為です。
 主イエスの十字架の死によって、主イエスはわたしたち罪人のためにその責任を取り、審判を通して新しい正しい人間を実現されるという神の意志に徹底的に従順であったことにより、神はイエスを復活させられ、わたしたちの主とし、わたしたちの救い主とされました。
 このことを本当に理解するならば、わたしたちは最早自分の支配者が自分でなく、主イエスであることを承認し、主イエスを自分の主とし、自分は主イエスの所有される者として、生きることを決断し、すべてを主イエスに委ね、主イエスに従うことを決断するのです。これが信仰です。このことは極めて人間的な行為であります。
 しかし、それは人間の力で出来るのではなく、聖霊が人間の心に与えられ、聖霊の働きにより、そのような理解と承認と決断が可能となるのです。それゆえ、信仰は聖霊の働きです。
したがって、信仰の働きの全体が聖霊の働きであり、同時に信仰の働き全体が人間の働きです。ここまでが人間の働きの領域、ここからは聖霊の働きの領域と区別することはできません。
 実にこのような信仰を通して、キリストの義がクリスチャンに与えられるので、クリスチャンは神との正しい永遠の関係に入れられるのです。
このことこそクリスチャンが神の子と呼ばれる新しい人間である根拠であり、クリスチャンの生きるその立脚点なのです。クリスチャンはこのことを感謝し、喜ぶのです。その喜びはクリスチャンの心の中に絶えず湧き出るのです。

(3)主イエスに聞き、従う新しい人間
 次に、主イエスに従う新しい人間は、主イエスが様々な誘惑と戦い、貧しさと困難を経て行かれたように、自分たちも苦難を回避せず、それを担って行かなければなりません。
しかし、そうすることによって、自分たちの中に復活のキリストの命が活発に働くのです。
 信仰義認を福音の内容の中心とした使徒パウロは自分の弱さを喜ぶと言っています。パウロは自分の弱さを取り去ってくださいと三度も主イエスに願いましたとき、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と仰せられました。それゆえ彼は次のように言っています。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリント二、12:10)

 最後に、信仰によって、キリストと繋がっている者はどんな時にも、どんな場所でも、キリストの復活の命と神の子の自由に満ちている霊的空間に取り囲まれているのです。それゆえ、その霊的空間の中で、胸一杯に霊的空気を呼吸するならば、神の御言葉を真剣に聞き、御言葉を喜んで実行するのです。その場合に、自分の名誉や、自分の利益を求めようというこの世的な一切の野心から解放され、御言葉の実行を単純に喜ぶのです。キリストにあって与えられている神の恵みを証するために、神を賛美するために、喜んで実行するのです。それが福音的な行き方です。
 言い換えれば、それは主イエスの御足の跡をどこまでも辿って行くことにより、キリストが地上の生涯で考え、祈り、決断し、実行された事柄を、クリスチャンは現代の自分の立場で自分の決断と実行として、追体験するのです。
これが信仰義認によって歩む者たちの生き方です。



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