2012-10-21(Sun)
小犬も子どものパン屑は頂きます 2012年10月21日の礼拝メッセージ
小犬も子どものパン屑は頂きます
中山弘隆牧師
また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
列王記上17章8~16節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
マルコによる福音書7章24~30節
列王記上17章8~16節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
マルコによる福音書7章24~30節
(1)信仰の必要
本日の聖書の箇所には、主イエスと異邦人の女性との出会いが記されています。主イエスは、ガリラヤ地方における神の国の宣教活動に区切りをつけ、将来のことを考えるために、弟子たちを伴わずに唯一人で異教徒の地方へ行かれたときのことです。マルコによる福音書7:24節で、ティルスの地方へ行かれたと場所が明記してあります。ティルスとは地中海沿岸の港町でした。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、…」とだけ説明されています。
しかしこの簡潔な説明は非常に重大な意味を持っています。主イエスが唯一人で、しかもある期間過ごされるのは、神から遣わされたご自分の使命について、改めて熟慮するためです。
宣教を開始する前にも、主イエスは一人で荒れ野に入り40日間、祈りと瞑想の時を過ごされました。そこから始まりましたガリラヤ地方での伝道において、主イエスは神の民であるユダヤ人が神の國の福音を信じて、救いに入るため、全勢力を傾けて尽力されました。しかし結果として伝道は失敗に終わりました。
この危機の中で、主イエスは救い主として果たさなければならない使命をもう一度根本から考えるため、人々に邪魔されないことを願って、一人で異教徒の地方に行かれたのだ、と推測されます。それでも間もなく人々に気づかれてしまいました。
25節には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」と記されています。「ひれ伏す」とは、尊敬と祈願の気持ちを表す姿勢です。
26節で次にように説明しています。
「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」
この婦人は幼い娘が精神的にひどく苦しみ、理由の分からない激しい発作に襲われることがしばしばあり、母親の切なる願いを抱いて、イエスのもとに来ました。
子を思う母親の愛情から、癒して頂きたいという願いは真剣でありましたが、イエスに対する信仰がしっかりと確立していたかどうかは必ずしも明かではありません。この点が大きな問題です。
最初に主イエスはこの婦人の叫びに対して、すぐには答えないで沈黙しておられました。この記事と平行しているマタイ15:23の記事ではこのように記されています。
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」
それではイエスが見て見ぬ振りをされたのでしょうか。冷たくこの女性を突き放しておられたのでしょうか。いや決してそんなはずはないと思います。イエスは沈黙のうちに、この女性の心の中にある思いを、直感によって感じ取っておられたのです。そのようにして女性の言葉をご自分の心に受け止めておられたのです。
しばしばイエスは沈黙のうちに祈られました。イエスは耳が聞こえず、口の利けない人を癒される前に、その人の苦しみを思い、天を仰いで嘆息をつかれたと、この記事に引き続いて書いています。マルコによる福音書7:34で「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。それは『開け』という意味である。」と書いています。
言葉にならない嘆息が祈りであり、その深いイエスの沈黙から癒しの力が生まれたのです。ここでもイエスは沈黙のうちにこの女性の信仰が本物であることを見抜かれました。
しかしこの簡潔な説明は非常に重大な意味を持っています。主イエスが唯一人で、しかもある期間過ごされるのは、神から遣わされたご自分の使命について、改めて熟慮するためです。
宣教を開始する前にも、主イエスは一人で荒れ野に入り40日間、祈りと瞑想の時を過ごされました。そこから始まりましたガリラヤ地方での伝道において、主イエスは神の民であるユダヤ人が神の國の福音を信じて、救いに入るため、全勢力を傾けて尽力されました。しかし結果として伝道は失敗に終わりました。
この危機の中で、主イエスは救い主として果たさなければならない使命をもう一度根本から考えるため、人々に邪魔されないことを願って、一人で異教徒の地方に行かれたのだ、と推測されます。それでも間もなく人々に気づかれてしまいました。
25節には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」と記されています。「ひれ伏す」とは、尊敬と祈願の気持ちを表す姿勢です。
26節で次にように説明しています。
「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」
この婦人は幼い娘が精神的にひどく苦しみ、理由の分からない激しい発作に襲われることがしばしばあり、母親の切なる願いを抱いて、イエスのもとに来ました。
子を思う母親の愛情から、癒して頂きたいという願いは真剣でありましたが、イエスに対する信仰がしっかりと確立していたかどうかは必ずしも明かではありません。この点が大きな問題です。
最初に主イエスはこの婦人の叫びに対して、すぐには答えないで沈黙しておられました。この記事と平行しているマタイ15:23の記事ではこのように記されています。
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」
それではイエスが見て見ぬ振りをされたのでしょうか。冷たくこの女性を突き放しておられたのでしょうか。いや決してそんなはずはないと思います。イエスは沈黙のうちに、この女性の心の中にある思いを、直感によって感じ取っておられたのです。そのようにして女性の言葉をご自分の心に受け止めておられたのです。
しばしばイエスは沈黙のうちに祈られました。イエスは耳が聞こえず、口の利けない人を癒される前に、その人の苦しみを思い、天を仰いで嘆息をつかれたと、この記事に引き続いて書いています。マルコによる福音書7:34で「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。それは『開け』という意味である。」と書いています。
言葉にならない嘆息が祈りであり、その深いイエスの沈黙から癒しの力が生まれたのです。ここでもイエスは沈黙のうちにこの女性の信仰が本物であることを見抜かれました。
(2)異邦人の救い
しかし、異邦人が真の信仰を持ち、イエスを通して到来した神の救いを受け取るということは、イエスにとりまして決して当然のことではありませんでした。
その点について、イエスは未だ定かでなかったと思われます。なぜならば、それまでのイエスの理解では、神の救いは先ずイスラエルの民にのべ伝えられるべきであったからです。そこで、異邦人の女性に対して、一見冷淡と思われる言葉を語られました。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)
ここで、子供とはイスラエルの民のことです。小犬とは異邦人を指しています。ユダヤの律法学者たちは異邦人を犬と呼んで軽蔑していました。当時の律法学者であるラビ・エリエゼルは「偶像礼拝者と一緒に食事をする者は、犬と一緒に食事をするのと似ている。」と言っています。明らかにそれは異邦人を軽蔑し、忌み嫌う言葉です。
しかし、イエスはそのような軽蔑の意味を一切排除し、愛情を込めてユーモアをもって、異邦人を犬ではなく、可愛い「小犬」と呼ばれたのです。これはペットとして飼われ、家族の一員となっている小犬のことで、一種の愛称です。
また、ここでイエスは神の救いを「パン」と呼んでおられます。これらのイエスの言葉は神の救いを先ずイスラエルに与えるべきであり、異邦人に与えるときは未だ来ていないのだ、という意味です。
しかし、これは決して異邦人に対して救いを与えることをイエスが拒否しておられると言うのではありません。そうではなく、イエスの心はイスラエルに集中していたからです。
なぜならば神の救いの時が既に来ているのに、依然として救いを拒み続けているイスラエルの頑なな心、またその結果、イスラエルがこれから担わなければならない悲惨な運命に心を痛めておられたからです。
そうしたイエスの心境を異邦人の女性は敏感に察しながらも、そこで神に対する真の信仰をもったシリア・フェニキアの女性は、神の救いの計画について、自らの信仰を表明しました。彼女は自分が異邦人であることを謙遜に認めながら、なお厚い信仰をもって、このように言いました。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も子供のパン屑はいただきます。」(28節)
この女性は主イエスの心の思いを察知し、愛と機知とに富んで、謙遜にしかも確信に溢れて、主イエスの中にある思いを一歩前進させたのです。
イエスが子供たちの食卓の下に待機している小犬に異邦人を譬えられましたので、イエスの思いはすでに、小犬がパン屑に与ると言う方向に向いているのを感じ取ったのです。そして、神の国は異邦人に対しても与えられていることを信じる信仰を表明しました。
食事の時にテーブルの下にいる小犬も、子供たちのパン屑を貰って一緒に食事をするように、異邦人もイスラエルの民と一緒に神の救いを受けることができるという信仰を表明したのです。
聖書における信仰は、単に全能者を信じると言うのではありません。それだけであるならば、それは偶像崇拝と何ら変わるところはありません。非聖書的な信仰は人間の力を越えた者を信じますが、その場合に超自然的な力は暗い運命のようなもの、あるいは独裁者のような気まぐれで力であったりします。
それに対して、聖書の信仰は全能者である神は、「恵み深く」、「真実な」神です。恵み深いとは、愛する価値のない邪悪な罪人を神はなお愛し、救いを与えられる方であると言う意味です。また真実とは、神が自ら欲したこと、そして約束されたことを必ず実現される方であるという意味です。
旧約聖書では、信仰の父アブラハムが、このことを信じて人生の最大の危機において、真実なる神に寄り頼み、将来に対する希望を持ち続けました。
さらに、新約聖書では、「神の恵みと真実」が主イエス・キリストにおいて、ことごとく「しかり」となっていること、実現・成就していることを信じるのです。
従いまして、そのような信仰をもって、主イエスに助けを求めている異邦人の出現は主イエスにとっても驚くべき出会いであったのです。そこに実に大きな主イエスの感動と喜びがあったのです。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(29節)
これは主イエスが神の御子の直感によって、この女性の幼い娘が癒されたことを知って、このように仰せになったのです。
まことに、主イエスはご自分を信じる者には、神の救いを与えることができるのです。それはイスラエル人であろうと、異邦人であろうとも少しも変わりはありません。
ここで、異邦人が救われたということは、このとき、主イエスは救い主としての御自分の使命は、イスラエルだけでなく、全人類を罪とその束縛から解放することであると、再確認されたのです。
この使命は宣教の当初から認識しておられたのですが、ユダヤ人に対する神の国の宣教活動で、まだ足りない点が何であるかを熟慮し、そのことに対する明確な理解と、父なる神のご計画に対する信仰をもって、今や人類の罪の贖いのためにご自分を献げる時が来たことを悟られたのです。
その点について、イエスは未だ定かでなかったと思われます。なぜならば、それまでのイエスの理解では、神の救いは先ずイスラエルの民にのべ伝えられるべきであったからです。そこで、異邦人の女性に対して、一見冷淡と思われる言葉を語られました。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)
ここで、子供とはイスラエルの民のことです。小犬とは異邦人を指しています。ユダヤの律法学者たちは異邦人を犬と呼んで軽蔑していました。当時の律法学者であるラビ・エリエゼルは「偶像礼拝者と一緒に食事をする者は、犬と一緒に食事をするのと似ている。」と言っています。明らかにそれは異邦人を軽蔑し、忌み嫌う言葉です。
しかし、イエスはそのような軽蔑の意味を一切排除し、愛情を込めてユーモアをもって、異邦人を犬ではなく、可愛い「小犬」と呼ばれたのです。これはペットとして飼われ、家族の一員となっている小犬のことで、一種の愛称です。
また、ここでイエスは神の救いを「パン」と呼んでおられます。これらのイエスの言葉は神の救いを先ずイスラエルに与えるべきであり、異邦人に与えるときは未だ来ていないのだ、という意味です。
しかし、これは決して異邦人に対して救いを与えることをイエスが拒否しておられると言うのではありません。そうではなく、イエスの心はイスラエルに集中していたからです。
なぜならば神の救いの時が既に来ているのに、依然として救いを拒み続けているイスラエルの頑なな心、またその結果、イスラエルがこれから担わなければならない悲惨な運命に心を痛めておられたからです。
そうしたイエスの心境を異邦人の女性は敏感に察しながらも、そこで神に対する真の信仰をもったシリア・フェニキアの女性は、神の救いの計画について、自らの信仰を表明しました。彼女は自分が異邦人であることを謙遜に認めながら、なお厚い信仰をもって、このように言いました。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も子供のパン屑はいただきます。」(28節)
この女性は主イエスの心の思いを察知し、愛と機知とに富んで、謙遜にしかも確信に溢れて、主イエスの中にある思いを一歩前進させたのです。
イエスが子供たちの食卓の下に待機している小犬に異邦人を譬えられましたので、イエスの思いはすでに、小犬がパン屑に与ると言う方向に向いているのを感じ取ったのです。そして、神の国は異邦人に対しても与えられていることを信じる信仰を表明しました。
食事の時にテーブルの下にいる小犬も、子供たちのパン屑を貰って一緒に食事をするように、異邦人もイスラエルの民と一緒に神の救いを受けることができるという信仰を表明したのです。
聖書における信仰は、単に全能者を信じると言うのではありません。それだけであるならば、それは偶像崇拝と何ら変わるところはありません。非聖書的な信仰は人間の力を越えた者を信じますが、その場合に超自然的な力は暗い運命のようなもの、あるいは独裁者のような気まぐれで力であったりします。
それに対して、聖書の信仰は全能者である神は、「恵み深く」、「真実な」神です。恵み深いとは、愛する価値のない邪悪な罪人を神はなお愛し、救いを与えられる方であると言う意味です。また真実とは、神が自ら欲したこと、そして約束されたことを必ず実現される方であるという意味です。
旧約聖書では、信仰の父アブラハムが、このことを信じて人生の最大の危機において、真実なる神に寄り頼み、将来に対する希望を持ち続けました。
さらに、新約聖書では、「神の恵みと真実」が主イエス・キリストにおいて、ことごとく「しかり」となっていること、実現・成就していることを信じるのです。
従いまして、そのような信仰をもって、主イエスに助けを求めている異邦人の出現は主イエスにとっても驚くべき出会いであったのです。そこに実に大きな主イエスの感動と喜びがあったのです。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(29節)
これは主イエスが神の御子の直感によって、この女性の幼い娘が癒されたことを知って、このように仰せになったのです。
まことに、主イエスはご自分を信じる者には、神の救いを与えることができるのです。それはイスラエル人であろうと、異邦人であろうとも少しも変わりはありません。
ここで、異邦人が救われたということは、このとき、主イエスは救い主としての御自分の使命は、イスラエルだけでなく、全人類を罪とその束縛から解放することであると、再確認されたのです。
この使命は宣教の当初から認識しておられたのですが、ユダヤ人に対する神の国の宣教活動で、まだ足りない点が何であるかを熟慮し、そのことに対する明確な理解と、父なる神のご計画に対する信仰をもって、今や人類の罪の贖いのためにご自分を献げる時が来たことを悟られたのです。
(3)人類の罪の贖い
旧約聖書における神と民との関係は、エルサレム神殿における礼拝の中で行われる贖罪の儀式によって維持されていました。それは年に一度行われる「贖罪日の礼拝」です。このことについはレビ記16章に詳しく規定されています。
それは大祭司が神殿の奥の「至聖所」に入り、至聖所の中に特に神聖な場所である「贖いの座」に「犠牲の動物の血」を振りまくのです。そのことによって、民の罪が赦されるのです。この礼拝を守ることによって、イスラエルの民は信仰を強められ、神に従い、神の戒めを守る信仰生活ができるというのが、旧約聖書の宗教の土台でした。しかし、それは本当の意味でイスラエルの民の罪を贖い、民が神に従う自由を与えることはできなかったのです。
なぜならば、動物は人格的な意志を持っていませんから、罪人の代理となり、その罪を贖うことはできないからです。罪を贖うことのできる者は、人間であり、しかも、罪のない者であり、自ら進んで他の者の罪を担い、罪を裁かれる神の意志に対して、死に至るまで従順である人によらなければならないのです。
このことをイエスは神に対する信仰によって、そしてイエスの中に働く聖霊によって認識され、人類の罪を贖うという使命のために自分が遣わされていることを認識されました。
それゆえ、イエスはユダヤ人だけでなく、すべての人間の罪を贖い、すべての人間が神を知り、神に従う命と自由を与えるために、ご自身を献げることを決意されたのです。
このイエスの信仰による認識と決断は、イエスの中に働いた聖霊の導きによるのですが、このことによって、イエスの宣教活動は前半と後半との転換期となりました。
ユダヤにおける宣教活動は、ユダヤ人の不信仰と、ユダヤの指導者たちの敵意をもたらしました。彼らはイエスがユダヤ教を根本から否定する者と判断し、イエスを抹殺しようとしており、またヘロデ王もイエスを危険視していました。この状況はイエスを死に追いやる運命を示していました。
しかし主イエスはそのことを承知の上で、殉教されたのではありません。そうではなく、自分に与えられた使命の中心が人類の罪の贖いであり、自分の命を献げることにあったからです。贖いの業が達成された暁に、主イエスを父なる神が復活させられるのです。そのとき初めて自分が救い主の地位に就くことを信じ、認識されました。実に、人格的な行動が十字架の死に至る道を選んだのです。
ユダヤ人が待望していたメシアはいつまでも死なないメシアでした。神から遣わされた本当のメシアは、人類の罪を贖うために死に、死から復活することによって、名実ともにメシアとなり、聖霊を通して、信じる者の中に働かれることが救いの現実なのです。
このように、自ら進んで十字架への道を選びとり、ご自身を献げるために、不退転の決意を持って、再びガリラヤに戻られました。
そのときから弟子たちに主イエスに対する信仰を要求されました。しかも、十字架の犠牲の死によって、人類を罪から救う救い主としての信仰を要求されたのです。
それは大祭司が神殿の奥の「至聖所」に入り、至聖所の中に特に神聖な場所である「贖いの座」に「犠牲の動物の血」を振りまくのです。そのことによって、民の罪が赦されるのです。この礼拝を守ることによって、イスラエルの民は信仰を強められ、神に従い、神の戒めを守る信仰生活ができるというのが、旧約聖書の宗教の土台でした。しかし、それは本当の意味でイスラエルの民の罪を贖い、民が神に従う自由を与えることはできなかったのです。
なぜならば、動物は人格的な意志を持っていませんから、罪人の代理となり、その罪を贖うことはできないからです。罪を贖うことのできる者は、人間であり、しかも、罪のない者であり、自ら進んで他の者の罪を担い、罪を裁かれる神の意志に対して、死に至るまで従順である人によらなければならないのです。
このことをイエスは神に対する信仰によって、そしてイエスの中に働く聖霊によって認識され、人類の罪を贖うという使命のために自分が遣わされていることを認識されました。
それゆえ、イエスはユダヤ人だけでなく、すべての人間の罪を贖い、すべての人間が神を知り、神に従う命と自由を与えるために、ご自身を献げることを決意されたのです。
このイエスの信仰による認識と決断は、イエスの中に働いた聖霊の導きによるのですが、このことによって、イエスの宣教活動は前半と後半との転換期となりました。
ユダヤにおける宣教活動は、ユダヤ人の不信仰と、ユダヤの指導者たちの敵意をもたらしました。彼らはイエスがユダヤ教を根本から否定する者と判断し、イエスを抹殺しようとしており、またヘロデ王もイエスを危険視していました。この状況はイエスを死に追いやる運命を示していました。
しかし主イエスはそのことを承知の上で、殉教されたのではありません。そうではなく、自分に与えられた使命の中心が人類の罪の贖いであり、自分の命を献げることにあったからです。贖いの業が達成された暁に、主イエスを父なる神が復活させられるのです。そのとき初めて自分が救い主の地位に就くことを信じ、認識されました。実に、人格的な行動が十字架の死に至る道を選んだのです。
ユダヤ人が待望していたメシアはいつまでも死なないメシアでした。神から遣わされた本当のメシアは、人類の罪を贖うために死に、死から復活することによって、名実ともにメシアとなり、聖霊を通して、信じる者の中に働かれることが救いの現実なのです。
このように、自ら進んで十字架への道を選びとり、ご自身を献げるために、不退転の決意を持って、再びガリラヤに戻られました。
そのときから弟子たちに主イエスに対する信仰を要求されました。しかも、十字架の犠牲の死によって、人類を罪から救う救い主としての信仰を要求されたのです。
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