2012-10-14(Sun)

キリストにある生 2012年10月14日の礼拝メッセージ

キリストにある生
中山弘隆牧師

 ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記42章1~6節


 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
フィリピの信徒への手紙1章12~26節


(1)パウロの最後の証し
 キリストの使徒パウロは生涯に渡って、福音を語り、福音にすべてを献げた者です。彼はネロ皇帝によるキリスト教迫害のため、西暦64にローマにおいて、ペトロと共に殉教しました。
それ以前にパウロはエルサレムにおけるユダヤ人キリスト教会とパウロの伝道した異邦人キリスト教会の一致のために、エルサレム教会の貧しい人々を援助するために、異邦人キリスト教会で大々的な献金を募集しました。少なくとも1年を要した募金活動は達成されたので、それをエルサレムの使徒たちに手渡すため、西暦54年にエルサレムに行きました。
その時、エルサレム教会の代表者であったイエス・キリストの弟であるヤコブは、パウロが先祖伝来の信仰に対しては忠実なユダヤ人であることを証明するため、エルサレム神殿で礼拝することを勧めました。パウロはヤコブの勧めに応えて、エルサレム神殿に入ったとき、パウロに反対するユダヤ教徒たちが騒ぎ出し、エルサレムは大混乱に陥ったのです。
そのときパウロは暴徒と化したユダヤ人の中から、ローマの兵隊によって助け出され、ローマ兵の駐屯地であるカイザリアに拘束されました。ユダヤ教の当局は総督にパウロを訴え、パウロの処刑のため盛んに裏面工作をしました。そのためパウロは3年間そのままの状態で放置されましたが、パウロはユダヤ人であっても生まれながらに持っているローマの市民権を利用して、カイザルの前で裁判を受けるよう希望しました。その結果、61年にパウロは護送されてローマに到着したのです。
その後、裁判を待っている約3年間に、彼はフィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙を書きました。 それゆえ、フィリピの信徒への手紙は、彼が生涯愛して止まなかったフィリピの人たちへの最後の励ましの手紙となったのです。
パウロのことを心配していたフィリピの教会員に対して、1章12節以下で次にように言っています。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(1:12~14)
これはどういう状況かと説明しますと、パウロが監禁されたことにより、福音宣教の事業が大きな打撃を受け、停滞するのではないかと心配されましたが、実際は福音の前進のためになることが分かったというのです。
一つは、彼の監禁が公の関心の的となったため、民衆は裁判の行方に注目したということです。
一つは、彼の災難は宗教と関係があることが明らかになり、彼はキリストと呼ばれる新しい神を信じており、この信仰への献身が彼に困難をもたらしたらしい。それにしても、信奉者が苦難を自ら進んで引き受けるように鼓舞するキリストとは一体何なのか、という話題がローマ人の間に広まったことです。
一つは、ローマにいるクリスチャンは福音宣教へと新しく駆り立てられたことです。これまでよりも一層恐れなく、より大胆に福音を語るようになりました。
この点につきまして、15節以下で次のように言っています。
「キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。一方では、わたしが福音を弁明するために捕らえられていることを知って、愛の動機から、そうするのですが、他方では、自分の利益を求めて、獄中にいるわたしを一層苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(1:15~18)
ここには、同じクリスチャンでありましても、福音宣教に対する態度は様々です。一方では純粋は動機から熱心である者たちがおり、他方では不純な動機から熱心である者たちがいました。
どうしてこのような違いがあるのか、一見不思議に感じる人がいるでありしょうが、それには二つの理由があります。
一つは、キリスト教の中心はキリストの使徒たちが語った福音です。しかし、この福音理解には一定の許容範囲があり、その範囲内では多様性が認められているからです。

福音とは、人間が罪から解放され、神の御心を知り、感謝して神に従うことができるために、神が主イエス・キリストにおいて、人類の救いのために、実現してくださった神の事柄、特にキリストの十字架と復活において、実現してくださった客観的な事柄を知らせる神の言葉です。
さらに、この客観的な神の事柄が、福音として宣教されるとき、聖霊が働き、信じる者に聖霊が働くことです。その聖霊の働きにより、救いの客観的な事実が、信じる者の救いとなるのです。
言い換えれば、主イエスを信じる者は主イエスと結ばれ、主イエスが人間のために達成してくださった義と命を受け、神の御心に従い、救いの完成に向かう信仰の人生を歩むのです。それゆえに、福音は人間に対する神の最終的な神の行為と決定を知らせるものです。そういう意味で福音は究極的な神の言葉なのです。
さらに、福音は福音を聞いて、主イエスを信じる者に聖霊が与えられるという約束と、信じる者は洗礼によって、キリストと結び付き、キリストの体としての教会に属することを要求します。なぜならば救われるためにそうすることが必要であるからです。これが使徒たちの語った福音の内容です。
しかし神はこの福音に立脚しつつ、さらに福音の真理と恵みの豊かさを聖霊によってパウロに啓示されました。それは実にユダヤ民族の枠を越えた万国の民に対する福音です。復活のキリストはパウロに現れ、彼を万国の使徒として任命されました。
それゆえパウロは福音の真理を忠実に語り、それに即した行動を貫いて来ました。
もう一つは、クリスチャンは罪人であり、完全に神がキリストにおいて、啓示された福音の真理に対して忠実でなく、そこに自分たちの利益や名誉を持ち込んで、福音を不明瞭にしている点です。
特にローマの教会は後に自分たちの創立者はペトロとパウロであるという伝承を作り上げましたが、最初はそうではなく、ローマの教会は一般信徒によって作られた教会なのです。
ローマのクリスチャンたちは、確かに主イエス・キリストを信じているのですが、そして何よりもこの点がユダヤ教とは明らかに異なっているのですが、しかし律法主義的な傾向が強かったのです。
そのために、万国の使徒としての立場を明瞭にし、ユダヤ教の律法に対するキリスト者の自由を強調したパウロに反対し、感情面でも反感を抱いていたクリスチャンたちがローマ教会には多くおり、不純な動機でパウロを苦しめるため、福音を語ったのだと思われます。そのような事情があり、復活のキリストから福音を啓示された使徒パウロは、自分に委ねられた福音の正しさを熟知しておりましたので、そのような偏狭なローマのクリスチャンに失望と義憤を感じたかもしれません。
しかし問題は自分のことではなく、主イエス・キリストのことが重要であることを、心の底まで自覚していました。
それゆえに、パウロは18節で、「ともかく、キリストが告げられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」と言っています。これが彼の偽らない気持ちです。


(2)わたしにとって生きることはキリスト
次にパウロは1章21~22節で彼の生き方を明瞭に示しています。
「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」
ここで、パウロは迫っている彼の裁判について語っています。無罪の可能性はなくもないが、もしかしたら自分はこの世から、そして愛するフィリピの信徒たちから取り去られるかもしれないと、彼らに暗示しています。たとえそのようになっても、彼らは悩む必要はない。なぜならどちらにしてもパウロには益であるからというのです。
その理由は、生きることは自分の内にキリストがいて働かれるからです。そのことが彼の人生における最大のそして唯一の意義であります。さらに死ぬことも益である理由を23節後半で説明しています。
「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」
クリスチャンにとって、死ぬことは自分一人で死ぬのではなく、キリストと共に死ぬことでありますので、死を通してキリストと共にいることになるのです。その状態がパウロにははるかに望ましい、ベターであると言っています。
クリスチャンにとって、死ぬことは自分の人生全体をキリストに献げることです。キリスト教が迫害を受けた古代では、殉教者たちはこの思いをもって皆、殉教しました。しかし、それは殉教者たちに限られた特権ではなく、死期に臨んでこの世を去ろうとしているすべてのクリスチャンに与えられている特権です。

(3)キリストにある一致
最後の励ましの言葉として、パウロは次のように言っています。
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されて、たじろぐことはないのだと。」(1:27~28)
ここでパウロは二つのことを言っています。
一つは、キリストの福音に相応しい生活を送るということです。

これはイエスご自身が、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気が無くなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。あなたがたは世の光である。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13~16)と仰せになった強調点です。
福音宣教の力は、クリスチャンたちが福音に相応しい生活をすることです。古代ローマ世界をキリスト教化したその力は実にこの点にあります。
もう一つは、クリスチャンが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために戦うということです。
この意味は次にように説明できます。パウロの人間観について言えば、人間は四つの面で構成されています。
一つは「肉体」です。一つは「体」です。つまり人間を構成する生命材料の組織です。そしてこの組織に命を与えているのが、「魂」です。一つは「心」「理性」「内なる人」「自我」です。ここで、「魂」は「体」と内的な人間性との両方に関係するとの見方もあります。ともかく「心」「理性」「内なる人」「自我」が一般的な人間の人格を構成しています。
しかし、もう一つはあります。それが「霊」です。聖書では普通に「霊」という場合は「聖霊」を意味します。しかし、それだけでなく、人間の内部の一つの要素も意味しています。これこそ、クリスチャンの心に聖霊が臨在するとき、聖霊に照らされ、導かれて、応答する人間の心と理性に「霊的な働き」が生まれることです。
この霊的働きが人格の中枢を占める人間を「キリストにある新しい人間」と呼ばれています。
従いまして、パウロが「あなたがたは一つの霊によって、しっかりと立ちなさい」と勧めているのは、聖霊の働きと、聖霊に照らされたクリスチャンの心の霊性に立脚しなさい、この点こそすべてのクリスチャンに共通する最も大切な霊的現実であるというのです。
従いまして、クリスチャンたちは何から何まで考えが同じで、同じ行動を取るという意味ではありません。多様性の中の一致です。神から教えられる考え方を各自が持っているという自主性に基づく一致です。その上で、クリスチャンは互いに協力するのです。
これが一つの霊による一致の本当の意味です。クリスチャンの霊性による一致です。霊性の欠けたクリスチャンとは外面的なクリスチャンに過ぎません。
同時に、自分の思いが本当にキリストの思いに一致しているかという恐れの念を忘れず、またキリストの思いは自分の思いを越えて広く、すべてを抱擁し、統一する高い思いであること知って、行動することが肝要です。このことによって、クリスチャンは福音を証し、伝道することができるのです。



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