2012-09-30(Sun)

父なる神 2012年9月30日の礼拝メッセージ

父なる神
中山弘隆牧師

 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ。主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。
詩編2篇1~12節


 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
ルカによる福音書10章21~24節



(1)聖霊の働き
 本日の聖書の箇所のすぐ前に、神の国伝道のため派遣された弟子たちが帰ってきて、その報告をしたと記されています。
 ルカによる福音書10章17節は次にように言っています。
 「七十二人は、喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」
 これはどういうことかと説明しますと、弟子たちは悪霊につかれて精神的障害をもたらし、長年苦しんでいる人と出会いましたので、主イエスの名を用いることによって、その人は癒されたのです。悪霊に向かって主イエスの名をもって命じる、この人から出て行けと宣告しますと、奇跡的にその人は癒されたのです。それは聖霊が働いたからです。このことを弟子たちは顔を輝かせながら報告しました。
 そのとき、主イエスは次にように仰せになりました。
「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10:18~20)
 主イエスによる神の国の宣教活動は、今や主イエスを通して、神の国が開始していることを示しました。神の恵み深い支配が主イエスを通して始まっていることにより、神に反対している諸々の霊力はその力が打ち破られ、主イエスに従うようになったのです。言いかえれば、主イエスを通して働く権威と力は、聖霊の働きです。 
この聖霊の働きは、神の国が到来するときに与えられる全く新しい賜物です。旧約聖書の預言はそのことを約束しています。終末論的な神の救いが実現すると、聖霊が人間に与えられ、人間は聖霊を通して神を知り、神に従うようになるというのです。
このことが神の国の実体であると預言しています。例えば、イザヤ書44:3で次にように言っています。
 「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いていた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」
 ここで、「あなたの子孫にわたしの霊を注ぐ」と約束されていますが、それは人間に聖霊が与えられることを意味しています。
 従いまして、終わりの時に与えられる聖霊の働きは、人間が奇跡を行うようになると言うよりも、むしろ人間が神を知るようになることです。
イザヤ44:5はこの点を強調しています。「ある者は『わたしは主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に『主のもの』と記し、『イスラエル』をその名とする。」これは神の救いが異邦人にも及び、人類が救われることを意味しています。
さらに預言者エレミヤもエレミヤ書31:34で次にように言っています。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
 それゆえ、主イエスは弟子たちが聖霊の働きによって、病人を癒す奇跡を行ったと言うことを喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に記されたことを喜びなさい、と仰せられました。
  
(2)主イエスの賛美とその意味
 次に、主イエスは神を賛美して言われました。
「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことです。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』」(10:21~22)
ここには主イエス・キリストの人格の一番奥にある神聖な領域が示されています。
四世紀にバシリウスという教父がいましたが、神は人間が理論と概念とをもってその中に踏み込むことのできない方であると言っています。また彼の弟子でありましたグレゴリウスは、「神について言われるすべての概念はおおよそ偽物であり、人間の造り上げた偶像に過ぎない。真実の神は人間が頭で造り上げた概念によっては、自己を人間に示されない」と言っています。
それでは人間はどのようにして神を知ることができるのでしょうか。
実にそれは神がご自身を人間に示されることによるのです。それは神の大きな愛による出来事であり、神の御子である主イエス・キリストを通して、神は御自身を示されたのです。

 この神ご自身の計画と実行をイエスは賛美しておられるのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と言っておられます。 
これは神が主イエスを通してご自身を人間に知らせることを欲し、今そのことを実現しようとしておられる神の御業を賛美しておられるのです。
それゆえ、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」と仰せになりました。そして、「父よ、これは御心に適うことです。」と神の計画と実行を賛美しておられるのです。
ここには、曖昧さや妥協は一切ありません。人間が神を知る道はただ一つ、それは主イエスを通しであります。それゆえに、人間は明確に、最終決定的に神を知ることができるのです。それが神の決定であり、神が喜ばれることなのです。

 次に、この神への賛美の中で、イエスは神を「天地の主」と呼ばれました。主とは天地万物の唯一の支配者と言う意味です。
主とは万物の創造者であり、支配者であり、審判者であり、それゆえ救済者なのです。主はご自身の無限の愛と絶対的な自由によりご自身の意志と計画を実行し、実現される人格的な神であり、永遠に生きて働いておられる神です。
 それゆえ、人間は、主を礼拝し、崇め、賛美し、主に求め、主に従い、主の御心を実行することによって神の国で永遠に生きるのです。
要するに、人間が神を知るということは、神を「主」として知ることです。本当の意味で神を知るということはこの一事に尽きます。

 さらに主イエスは「天地の主である父よ」と神に呼びかけておられます。天地の主である唯一の神は、主イエスにとって、本来的な父なのです。この「父」と言う言葉は、父とイエス自身との人格的な関係を表しています。
主イエスは実にこの関係において、ご自身が神の子であると言う深い自覚が与えられました。父と言う言葉はイエスが神に対して父よと呼びかけ、父と出会い、また神から子よと呼ばれ、父よと答える体験の中で意味を持っている言葉です。
 イエスが神に向かって深い信頼を込めて父よと呼びかけられた言葉は、「アバ」というアラム語でありました。それは片言を話すようになった幼子が父親を呼ぶ言葉です。ちょうど今日の日本語で言えば、幼子が「パパ」と呼ぶのと同じ響きを持っています。イエスにとって神は何という親しい存在でありましょうか。
 旧約聖書の中で、神を父と呼んでいる場合が多くありまが、それは個人的な関係ではなく、イスラエルの民と神との関係で、神はイスラエルの父と呼ばれたのです。しかし、それは「アバ」ではありません。旧約聖書では、神は人間が近づきがたい「聖なる神」でありました。
それゆえ、アバと言う言葉で、神に呼びかけたのはイエスが初めてであり、弟子たちや律法学者たちは非常に驚きました。
主イエスは本質的に神の御子でありますが、人間となられたイエスでありますので、幼い時から会堂や神殿に出席して、神を礼拝し、祭司や律法学者から聖書を学び、自分で祈り、瞑想し、神の御心を知り、そして神との交わりの中で神の力を与えられて、御心を実行しながら育った方です。この間、誘惑に打ち勝ち、父なる神から与えられた使命を知り、そのために全生涯を献げることによって、神を人間に完全に示された方です。
特に救い主としての公生涯に入られた時、また公生涯の重大な時、父なる神はイエスに直接語られました。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天から御声が聞こえて来ました。
「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:11)
さらに、十字架の死を前にしても、天からの御声が聞こえました。これはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちを伴って高い山に登られた時のことです。そこでイエスの御姿が変わり、エリヤとモーセが現れました。これは旧約聖書が預言している救い主の使命をイエスが果たすことを示しています。このとき神は弟子たちに語られました。
「これはわたしの愛する子、これに聞け。」(マルコ9:7)
このように、父なる神が語り、イエスの中に聖霊が満ち溢れて、主イエスは父なる神の御心を知り、それを完全に実行されたのです。

(3)イエスを復活させられた父なる神
このように、死に至るまで神に従順であったイエスは、人類に対する神の愛をもって、自ら進んで人類の罪を担い、十字架の犠牲を全うし、人類の贖罪を達成されました。
それゆえ、父なる神はイエスを死人の中から復活させ、イエスを主とされたのです。言い換えれば死人の中から復活されたイエスに主という名を与えられたのです。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:9~11)
ここで実に重大な意義は、父なる神がイエスに授与された御名はあらゆる名にまさる名でありますので、それは正に神ご自身の名である「主」という御名なのです。
それゆえ、父なる神は御自身の持っておられるすべての権限をイエスに委ねられたことを表しています。
さらに重大なことは、主という御名が授与された方は、父なる神によって死人の中から復活させられた「イエス」であります。つまり、神の御子が受肉してイエスとなり、地上の生涯を全うされましたその人間性は、復活された主イエスにおいて堅持されていると言う点です。神の御子が受肉して、マリアから誕生されたイエスの人間性は主イエスにおいて永遠なる人間性へと高められました。
それゆえ、復活して神の右に挙げられた主イエスは自らの中に完成された人間を担う「神の霊」となられたのです。
神であり、完成された普遍的人間として、実際的な意味で、人間に「永遠の命を与える霊」となられたのです。「霊」は神であり、この世界を越えた超越者であると同時に、この世界に遍在し、内在される神としての働きなのです。
それゆえ、主イエスは父なる神の右に座しておられる主権者であると同時に、霊としてこの世界のどこにでも臨在し、人間の心の中に内在し、ご自身の命を人間に注ぎ込まれる方なのです。
霊としての主イエスは聖霊とは異なるパーソンです。それゆえ、主イエスは主イエスを信じる者に聖霊を与えたられる「聖霊の授与者」なのです。
父・子・聖霊の唯一の神は人間の救いのために、このような仕方で、人間と深く、そして存在的に関わっておられるのです。
その中で、聖霊が人間に与えるものは、主イエスが誰であるかの認識と主イエスに対する信仰とさらに主イエスの命です。
それゆえ、主イエスに対する信仰は、父なる神がイエスを復活させられたことによって、イエスが主となられた暁に、初めて地上に出現した信仰です。それまで弟子たちは「イエスは主である」と告白していませんでした。
イエスが主となられたことにより、イエスが本質的に神であり、地上のイエスは神が人間となられた方であることをキリスト教会は初めて理解しました。今やイエスが主となられたことにより、イエスは名実ともに人類の救い主であるキリストとなられたのです。
そのことによって、『イエス・キリストは主である』という告白がキリスト教会の告白となりました。

以上のように、わたしたち人間の救いに関するすべてのことは父なる神から出ています。それゆえ、クリスチャンはイエスを死人の中から復活させ、イエスを主とされ、名実と共に救い主とされた父なる神を賛美します。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死人の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受けえ継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一、1:3~4)



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