2012-09-23(Sun)

魂の渇き 2012年9月23日の礼拝メッセージ

魂の渇き
中山弘隆牧師

 涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から。あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。」わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う「お前の神はどこにいる」と。
詩編42篇2~11節


 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書5章1~12節



(1)命の源なる神
 詩編42編はエルサレムの神殿からやもえない理由で遠ざかっている忠実な信仰者の礼拝に対する心の飢え渇きを表しています。
 「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」(42:2~3)
 鹿が谷川の水を慕い求めるという表現はその切実さをよく表しています。これは激しい渇きのために鹿が、水を求めて川に来たのですが、その川には全く水がありませんでした。これはパレルチナ地方にはよくあることです。ワディと呼ばれる川で、雨が降ったときだけしか水が流れていないのです。鹿はそのようなワディに来て、苦しそうな息をして、水を捜している光景が時々見られます。
 この詩の作者は鹿と同様に心の渇きの激しさと内的な力の枯渇を感じながら、切実に神を求めていると言うのです。

この詩編の作者が誰であるかについては、この詩編の内容から推測する範囲でしか言えないのですが、註解者はいろいろと解釈しています。
この作者は政治的な亡命者として、ヨルダンの高原地帯にいてエルサレムに帰れる時の来るのを待っていた者ではないかと言われています。あるいは瀕死の重病にかかっていた者ではないかとも見られています。あるいは異教徒の地に奴隷として売られたイスラエルの女性ではないかともいえます。当時はペリシテ人が一つの村を襲い、男性を皆殺しにし、女性と子供を捕らえて、奴隷市場で売り払いました。地中海に面したガザはそのような奴隷市場として古代世界では有名でありました。
 このような境遇の中で、作者が一番痛切に求めていることは、神を礼拝することです。そのためにエルサレムに行くことでした。作者は「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」と言っています。
 ここで「神の御顔を仰ぐ」という表現は、旧約聖書ではしばしば使用されている専門用語で、「礼拝に参加する」と言う意味なのです。さらにそれはエルサレムの神殿における礼拝に参加することによって、生ける神と出会い、神の祝福を受けることができるのですから、また礼拝の持っている意味を表しています。
 これは旧約聖書時代の神の民にとってエルサレムの神殿で礼拝をすることがいかに大きな意義をもっていたかを示しています。彼らは神殿での礼拝において、罪を赦され、神と出会い、神から人間を生かす真の命を受けることが、神に従う生活をする上で、いかに重要な事柄であるかを証しています。
 
 この詩編の作者は神を「命の神に、わたしの魂は渇く。」と言っています。人間の魂とは、人間の存在の中心部分であり、人間の様々な思いと行動を統合している自分の人生の司令部です。
その魂は当然、人生の様々な問題に対処していますが、それだけに関わっているのでなく、神との関係の中で、魂は初めて自分の人生を統合することができる視点と光を受けるようになるのです。神を礼拝し、神の御言葉と礼拝のサクラメント(礼典)(旧約聖書の場合は動物の犠牲を献げること)を通して、神の光と命を受けることにより、魂に最も必要な平安と喜びと活力とを得るのです。
それゆえ、魂は神との交わりから離れているときは、飢え渇き、人生を逞しく生きるために最も必要な気力と希望とが衰えるのです。言い換えれば、内的生命の衰弱をもたらすのです。
人間と神との関係は魂が神に対する飢え渇きを覚え、求め、神と出会うことにより、魂の要求が満たされ、生かされるという人間存在に関する根本問題なのです。それゆえ、魂にとって神は「命の神」なのです。

預言者エレミヤは、イスラエルを選ばれた主なる神ヤーウェこそ、「命の源」であると言っています。
 背信のイスラエルに対する神の審判の言葉として、次にように言っています。
 「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜を掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」(エレミヤ2:13)
 さらに、エレミヤは同胞に対して悔い改めを要求しました。
 「『立ち帰れ、イスラエルよ』と主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。』」(エレミヤ4:1)
エレミヤは預言者として、自分の愛する同胞の救いのために、神の言葉を語りましたが、不信仰な同胞は神の言葉を受け入れず、彼は国家に対する重大な犯罪者として処刑されそうになりました。そのような危険と同胞の激しい敵意に取り囲まれ、孤独の中で彼は悩み、自分の不運を嘆いたのですが、その中でも神はつねに命の源として彼に力を与えられたのです。
それゆえ、エレミヤはイスラエルの救いは命の源であるヤーウェがご自身の目的を貫徹されることの中にあると確信しました。しかし、神はエレミヤだけでなく、どのような時にも神を信じる者、言い換えれば「主は生きておられる」と真実と良心をもって告白する者に対して、命の源なのです。

(2)苦難の涙
 次にこの作者は異教徒の中にあって、虐待と嘲りの中で忍耐しなければなりませんでした。その苦難を次にように言っています。
 「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と」(42:4)
 この詩人がもしもペリシテ人の襲撃により、捕らえられ、ガザの奴隷市場に連行され、異教徒に奴隷として買われたイスラエルの若い女性であるとすれば、「お前の神はどこにいるのか」という嘲りの言葉は文字通り彼女の置かれた状況を現しています。
 卑しめられたイスラエルの女性は体に鞭打たれた生傷をとどめ、いわば「骨の髄まで傷を受け」さらに「嘲りの言葉で打ちのめす」衆人環視の中に立たされているのです。
 「お前の神はどこにいるのか」と言う言葉は、「お前の神は実際に存在するのか」と言う意味ではなく、「お前の神は現実に生きて働いていないではないか」というイスラエルの神に対する嘲りを表しています。
 このような試練の中で、詩人の身体的苦痛は大きかったのですが、それよりももっと耐え難いことは「心の痛み」でした。周囲の人たちが信仰を持たない者ばかりで、詩人の不幸を嘲り、そしてお前はこのような状態になっても自分を助けることのできない神を信じているのかという詩人の信仰への侮辱でした。そして彼らはこの詩人が間もなく信仰を捨てるだろうと予測していました。このような試練と苦悩の中で、詩人の心は沈んだのです。
それゆえ、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。」と言っています。涙の毎日でありました。わたしたちはこの率直な感情の表現を見て、この人は何と弱い人間であろうかと、疑うかもしれません。しかし、悲しい時に悲しいと言い、辛い時に涙を流すことは本当に人間らしい行為です。
人は往々にして悲しみに陥り、絶望しますと自暴自棄になって他の人を怒鳴りつけたり、周囲の人に当たり散らしたり、嫌味を言ったりするなどの醜態を現すことがあります。それに対して、この詩人は素直な心を持っていましたから、昼も夜も涙を流しました。その涙で心が洗われ、一層純粋な気持ちになり、以前の幸いな時代を懐かしく思い起こしました。
ところで、人間は魂の飢え渇くことは当然なのです。その時、飢え渇きによって、自分に確信がなく、力が出ない状態をそのまま放置しないことが信仰者にとって必要なのです。そのような精神状態の時こそ、命の源である神に求めるならば、神は満たしてくださいます。それは神との交わりの中で生きる人間の真実な姿なのです。
それゆえ、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:3~4)と仰せになりました。

この詩人は悲しみの中で、以前の幸いな状態を思い起こしましたので、次のように言っています。
「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。」(42:5)
これは祭りの巡礼者の列に詩人も加わり、或いはそれを導き、神殿の礼拝に向かって行進する人たちの先頭に立って進んだときの情景です。その行列はエルサレムの城門の入り口から出発して通りをいくつも過ぎ、真っすぐに神殿の中へと入って行ったのだったと、過去の幸いを思い起こしています。

その時期はなんという幸せな人生であったことか、わたしたちは声を張り上げて叫び、感謝の歌声を響かせた者であったのだ、と過去を振り返ることは確かに慰めになります。
しかし、それによって現在の苦しみが取り去られることはありません。詩人の魂が今打ちひしがれていることは事実なのです。この事実を覆い隠しては何の解決も望めません。そこで自分の魂の苦しみをそのまま認めています。
「なぜうなだれるのか。わたしの魂よ、なぜ呻くのか。」(4:5)
「うなだれる」とは、首を低く垂れ、うなじを曲げ、嘆き悲しむ様を表しています。また、「呻く」とは心が極度の不安と恐怖に襲われ、激しい悩みの中で言葉にならない嘆息を漏らすことです。

(3)祈りに答えられる神
同時に、詩人は祈りにおいて、自分の試練と苦しみを包み隠さず、神に申し上げています。
「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。『お前の神はどこにいる』と。」(42:10~11)
このように、祈りにおいて、自分の嘆きを神に申し上げ、その窮地を神に知らせるならば、神はその祈りを聞きあげ、未来に対する希望と確信と力が魂に与えられるのです。
そのとき詩人の口から、神への信仰と信頼の叫びが泉のように沸き起こりました。
「神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」(4:6)
「神を待ち望む」とは、現実の事態に反して取る態度です。それによって現実の暗さを乗り越える在り方なのです。

それは生ける神が自分の将来に既に存在しておられることを確信することです。未来について希望を持つことは、生ける神を信頼することです。なぜならば、命の泉である神は、人間にとって「絶対的な未来」であるからです。
この詩人は今一度神への信頼を新たにし、自分の心に、神を待ち望めと言い聞かせています。それは信仰を生きて働く信仰として、確認することです。「神のみ」が自分の助けであることを今一度新たに確信し、そのような試練と悲しみの中で、明るく強く、神を賛美したのです。
この作者の姿がわたしたちの心を強く打ちます。この詩編の霊的な力はここにあります。
そしてこのことがこの詩編のテーマとして繰り返されています。
すなわち、12節で、「神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と、わたしの神よ。」と信仰を告白し、神を賛美しています。

主イエスは神への心の飢え渇きを覚える者は幸いであると仰せになります。それは神を慕い求める心こそ、神の子の心であるからです。人は主イエス・キリストの救いを受け、心に聖霊を頂くときに、このように本当に神を慕い求めるようになります。
そのような者の祈りに神は答え、ご自身を聖霊によって信仰者の魂の中に与えられるので、喜びと感謝と希望と確信が与えられます。
パウロはわたしたちクリスチャンに祈ることを勧めています。
「どんなことでも、思い煩うのは止めなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)



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