2012-09-16(Sun)

追い求める 2012年9月16日の礼拝メッセージ

追い求める
中山弘隆牧師

 わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように。板の上にはっきりと記せ。定められた時のために。もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
ハバクク書2章1~4節


 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
フィリピの信徒への手紙3章5~16節


(1)信仰生活の目標
 本日はわたしたちの信仰の人生が何に向かって歩んでいるのか、その目標について考えてみたいと思います。フィリピの信徒への手紙を通してパウロの生き方から学びたいと思います。
 パウロは自分の生涯の目的はキリストを知ることであり、これ以外には何もないと言っています。
 「そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてのものを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(3:8~9)
 彼は復活の主イエス・キリストと出会うまでは、熱心なユダヤ教徒であり、しかも新進気鋭の律法学者でありました。
彼は先祖伝来の信仰によって、天地万物の創造者であり、支配者であり、救済者である唯一の神を信じていました。そして神の与えられた律法こそ人間の正しい生き方を示していることを確信し、律法を与えられた神を賛美していました。
それゆえ人間は神の与えられた律法を完全に実行することによって、神から正しい人間と認められるならば、この世においては神の豊かな祝福と、この世の終わりには、死人の中から復活して天国に入ることができると信じていました。
つまり、彼は模範的なユダヤ教徒でありました。異教徒は唯一の真の神を知らないために、偶像に過ぎない神々を信じ、その心は暗闇の中をさまよっているのとは、対照的に自分たちは父祖たちや預言者たちに与えられた神の啓示によって、真の神を知っていることを確信していたのです。
しかし、パウロに信仰の転機が突然訪れました。それは彼がユダヤ教に対する熱心のあまり、主イエス・キリストに対して激しく反対し、キリスト教会を撲滅するため、奔走していた最中に起こりました。これはパウロの回心が使徒言行録9章に記されているので分かります。彼はダマスコにいるクリスチャンを逮捕してエルサレムに連行するためダマスコに向かっているとき復活の主イエスが彼に現れたのです。
突然天からの光が彼の周りを照らしたとき、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」(サウロはパウロの別名)と呼びかける声を聞きました。彼が「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との答えがあったのです。
これは復活の主イエスがパウロに現れ、福音を啓示された出来事でありますが、パウロ自身次にように証しています。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。--しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、--」(ガラテヤ1:12~16)
パウロはこのとき旧約聖書が証している神に対する信仰は、主イエスを通して初めて完全な信仰となり、神が与えられた律法に従う生活は、主イエス・キリストによって初めて成就したことが分かったのです。
主イエスによって神がご自身を完全に啓示されたこと、旧約聖書が約束している神の救いが主イエスを通して今や到来したこと、それゆえに律法の本当の意味が示され、その実行が初めて可能となったことを、パウロは明確に理解しました。
言い換えれば、旧約聖書は主イエスを通して初めて神の言葉となり、旧約聖書の信仰は主イエスに対する信仰によって、神に対する真の信仰となることが分かりました。
それゆえ、パウロはコリントの信徒への手紙二、4:6で次のように言っています。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
それゆえ、人間が神を知ること、神の御心を実行して神の御前に生きることとは、すべて主イエスを知るという一事に尽きるのです。
そういう意味で、パウロは「わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさ」のため、それに反対するユダヤ教の敬虔さと律法主義を「損失」と見做すに至ったのです。
それでは、パウロはユダヤ教それ自体が損失であるというのはどういう根拠に基づいているのでしょうか。
実にそれは神の御子が人間となられて地上の人生を過ごされた一回限りの生涯の中で、神を完全に知り、神の御心を完全に実行し、神が旧約聖書で与えられた律法を完全に成就されたからです。
とくに、生涯の最後に十字架の犠牲によって、人類の罪を贖われたからです。それゆえ、神は主イエスを死人の中から復活させ、人類の救い主として正式に任命されたからです。
今や復活の主は地上の人生において、達成された信仰の完成と律法の成就と罪の贖いをもって働いておられる方です。

(2)キリストの復活の命
わたしたちがキリストを信じるようになったと言うことは、これまでの生き方から、根本的に新しい生き方へ移行したことです。最初はキリストにおける赤ん坊でありが、成長することが期待されている新しい歩みが始まったのです。
そこで、新しい人間とは生まれながらの古い人間と異なり、存在の基盤を自分の中にではなく、キリストの中に与えられている者です。別の言い方をすれば、キリストに担われた人間です。
信仰と人格形成という視点から見れば、クリスチャンは自分の人格がその周りに統合されていくべき新しい中心をキリストの中に持っているのです。
人はクリスチャンになる以前は、多分すべての行動の動機は金儲けや有名になることであったでしょう。但し、クリスチャンになった後も、出世し、富を得、有名になることがあるかもしれません。しかし、それらの結果はより大きな目的であります神に従うと言う動機の中に埋没してしまいます。このような人生の新しい形成をパウロは次の基本路線から見ているのです。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10~11)
それでは復活の命に生きるとはどういうことでありましょうか。それはキリストに従って、キリストの生き方に倣うことです。それはユダヤ教が重んじている旧約聖書に書かれた律法ではなく、主イエスが新しく解釈された律法を実行することです。
山上の説教において、主イエスは旧約聖書の律法を解釈し、しかしわたしはこう言うと仰せになりました。
「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟を『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。」(マタイ2:39)
「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:42)
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
わたしたちはこのイエスの命令を真剣に考えますと、自分はこの御言葉に反した思いや行動をしばしばとっていることに気づきます。 
以前は自分の状態にさほど気にならなかったのですが、主イエスを信じるようになった今では、主イエスの言葉に反する生き方の中に罪が存在し、罪に支配されている自分の姿に気づきます。
このように、わたしたちは主イエスの御言葉に照らされるとき、自分の罪深い姿を直視することができるのです。
もちろんそれを直視することができると言うのは、自分の力ではなく、主イエスの力が聖霊によってわたしたちの心に注がれるので、自分を客観的に見ることのできる自由が与えられるからです。
さらに、それだけでなく人間の罪に勝利された主イエスの命を、わたしたちは聖霊を通して受けることができるのです。

このことによって、わたしたちは完全にではありませんが、たとえ部分的でありましても主イエスの命令を実際に実行することができるのです。ここに信仰者の喜びと確信があります。
次に、福音書に記録されている主イエスの教えは、わたしたちが実行すべき高い理想を語っているのではありません。そうではなくそれらを完全に実行された主イエスの姿がそこに映し出されているのです。
従って、主イエスの教えは主イエスの人格と行為から離れた単なる教えでありません。主イエスの生涯において達成されたという事実があって、その事実の光の中で、信仰者の生き方が語られているのです。
この点を良く心に留めますならば、福音書の教えはわたしたちを突き放す冷淡なものではなく、わたしたちと実に密接な関わりを持っているように思えてきます。
なぜならば、そこにおいて、主イエスがご自身をわたしたちに示し、わたしたちをご自身との交わりに入れてくださるからです。

讃美歌493の一節は「慈しみ深い 友なるイエスは 憂いも罪をも 拭い去られる。 悩み苦しみを 隠さず述べて、重荷のすべてを 御手に委ねよ。」
また二節は「慈しみ深い 友なるイエスは われらの弱さを 共に負われる。 嘆き悲しみを 委ねて祈り 常に励ましを 受ける嬉しさ」となっていますが、これは主イエスとわたしたちとの交わりの現実を美しい言葉で歌っています。
この讃美歌は、厳しい誘惑と試練とに打ち勝って神の御心を実行されました主イエスが、わたしたちを突き放さず、わたしたちを担ってくださる救い主であることを賛美しています。
主イエスはわたしたちの弱さをご存じでありますので、それを担い、ご自身の命と義と聖をわたしたちの心に注いでくださる方です。それゆえ、わたしたちは何事でも包み隠さず、祈りによって主イエスに申し上げるならば、主イエスはわたしたちの中に聖霊によって臨在し、わたしたちを支え、わたしたちの中に働いてくださるのです。
すなわち、主イエスはわたしたちの罪と弱さを担い、その悲しみと苦しみを共にし、そうすることによって、わたしたちの中にご自身の復活の生命を働かせ、わたしたちが罪と弱さを克服して、主イエスの教えを少しでも実行できるようにし、またますます多く実行できるようにしてくださるのです。
この讃美歌は何事に出会っても、その困難と苦しみを祈りによって主イエスに申し上げ、主イエスの教えを実行しようとするならば、主イエスがわたしたちの中に働いてくださることという神の恵みを賛美しているのです。
英国の有名な神学者でありましたフォーサイスは、この主イエスの働きを、「わたしたちの魂の中におけるキリスト」と呼びました。
「キリストはわたしたちに対して、人格的な関わりを保っておられる。すなわち、彼はわたしたちの状況、必要、愛、恥、罪の中で、わたしたちの救い主である。」
「彼はわたしたちと結びつき、わたしたちの魂に、彼ご自身を詰め込まれる。わたしたちは聖霊としてのキリストの中に、わたしたちの孤独な生命を清める者、わたしたちの心を読む者、わたしたちを窮地から助け出す者、わたしたちの最も聖なる告白を起させる者を持っている。」
フォーサイスは実に鋭い洞察をもって、キリストが「有りのままのわたしたち」と完全に「連帯化」してくださることを見ています。わたしたちが正しい良いことを行い、愛と献身の働きによって神に従っているときだけでなく、罪と困窮と恥の中にあるときも、すべての状況の中で、キリストはわたしたちと連帯しておられると言うのです。
そうすることによって、キリストはご自身の愛と命を働かせ、わたしたちが自分の壁を打ち破り、それによってわたしたちが人を愛せるようになると言うのです。

(3)追い求める中で
パウロは自分が絶えずキリストの復活の生命を受け、それによって自分の中にある罪を克服してきたが、それでも決して罪の力に完全に勝利し、キリストの復活の力が完全に現れる救いの完成に達したのではない。
そうではなく、復活の力が完全に現れることを追い求めているのであると言っています。そうすることは自分がキリストに捕らえられているからであると言います。
最後に、言えますことはわたしたちがキリストを追い求め、苦闘している中でこそ、キリストは常にわたしたちと出会ってくださると言う恵みです。
そこで、わたしたちは苦闘しているときキリストの輝きが少ししか見えないのは、わたしたちがキリストを理解することが少ないためです。しかし、わたしたちが完全に救われてキリストに対面する暁には、苦闘していた時出会ってくださったキリストの栄光の姿と輝きの素晴らしさを有りのままに見ることができるのです。



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