2012-09-09(Sun)

人をいやすイエス 2012年9月9日の礼拝メッセージ

人をいやすイエス
江田めぐみ伝道師

 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
詩編146篇1~10節


 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
ヨハネによる福音書9章1~12



 皆さんは、生れた時から光を感じ、明るく生活しているのではないでしょうか。けれどもこの世の中には、生まれつき目が見えないで、光を感じられない人や、あるいは、ある日突然に高熱が続き、突然に目から光を感じられない闇の世界へあるいは、事故に遭遇して、光を感じられなくなった人もいるのではないでしょうか。
 神は初めに、天地創造をされました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった」(創1:1-3)のです。神が天地創造で、光をわたしたちに与えてくださったのです。
  
今朝の聖書のみ言葉は、生まれつき目の見えない一人の人を主イエスが癒したお話です。
 私は数年前、イスラエルに旅する機会があり、その時に、この盲人を主イエスが癒したシロアムの池を見ることができました。シロアムの池はヒゼキヤ王がギホンの水をひくために建設した地下水路の終端に位置する場所と見なされてきました。しかし2004年、そこから南東180mほどの場所に新たな遺跡が発掘され、現在ここが本来のシロアムの池であったと見なされております。(シロアムとは、「遣わす」と言う動詞から派生したシロア、「遣わされた者」と言う語です。)
聖書のみ言葉を読んでいると、もっと大きくて立派な池だろうと想像をしておりましたが、全然違いました。今は、周りに囲いができていてほんの小さな細長い池でした。その場に立ち、かの昔主イエスがこの場所で癒されて、盲人の目に泥を塗り、主イエスは、世の光であるという主張(5節)「わたしは、世にいる間、世の光である」、(8・12)。あるいは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と繰り返し、信じる者たちは、イエスの信仰によって、暗くされている世界に光を照らすのであり、その信仰こそ唯一の真実な神の業なのであることが言われているのです。そして、ヨハネは、身体的にも、盲人に光を与えるために遣わされた方としてのイエスについて語っているのです。
聖書に多くの奇跡物語が記されていますが、盲人開眼(開眼とは、目が見えるようにすることです。)の奇跡は旧約聖書には出てきません。新約聖書でも、生まれつきの盲人の開眼の奇跡を行われたのは、主イエスだけです。
福音書には、主イエスによる盲人開眼の奇跡が多く記されています。
(マルコ10:46-52、及びその平衡記事であるマタイ9:27―31、マタイ20:29-34、ルカ18:35~43参照)。マタイ9章を除く後者の聖書箇所のすべてにおいて、癒された視力の比喩的性格が特色をなしております。癒された者たちは、イエスに「従う」のです。その癒された男の視力は、霊的視力となって表れてくるのです。ヨハネ9:39では、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者はみえないようになる。」と記されております。共観福音書の癒しの奇跡は、規則的に、癒された人たちが彼らの健康を実証するのです。そして新しい登場人物たちは、イエスとではなく、癒された人と話し合うのです。
旧約聖書には、盲人開眼の奇跡がでていませんが、そのことができるのは主なる神ご自身である、と言われているのです。(出4:11、詩編146:8)。すると、開眼の奇跡を行った主イエスは、主なる神ご自身であるということになるのです。またイザヤ書では、盲人の開眼は来るべきメシアの業である、と告げられています。(イザヤ29:18, 35:5,42:7)。
このイザヤの預言は、主イエスが行われた開眼の奇跡にとって重要な意味を持っています。
主イエスはこの奇跡をご自分のメシア性の「しるし」として行われました。それは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)からです。

さて、主イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。イエス・キリストは、不幸な人、貧しい人を愛しておられますから、まずそのような人に目が行きます。多くの人が気付かないような、この気の毒な人に、第一に目を注がれるのは、ほかでもなく、神の子イエス・キリストであるのです。そしてそのことこそ、ここで言われていることの、大きな救いなのです。今、あなたの気にしていること、心配なこと、それにいち早く気が付かれ憐みの目を注がれるのは、あなたの主イエス・キリストであります。

ところが「弟子たちは、イエスに尋ねて言いました。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』」。

わたしたちもよく分かりませんが、何か不幸があると、その原因を訪ね、それは先祖のたたりだとか、前世の因縁だとか、色々と説明をもっともらしくつけてしまいます。あるいは、あれは本人が悪いので、自業自得だなどと言います。また親のせいだ、親の因果が子に報いたのでと。説明はいくつでもあるでしょう。しかし、わたしたちの説明は、いつも過去からの説明です。言ってみれば宿命観に支配されています。
わたしたちの日常生活で、たとえばひとの性格とか、自分の能力とかを考える時、いつのまにか何か決定的なものとして扱いませんか。「うちの人は、めんどくさがりで駄目なのよ」とか言わないでしょうか。けれども、駄目な人が、結構力を発揮する場合があるのです。問題は、わたしたちの中にある「過去思考」であるのです。駄目だと思う心が、一層駄目に拍車をかけることがないでしょうか。反省してみてください。

ところが今、主イエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。(ヨハネ9・3) これは、驚くべき宣言であるのです。肉体的なハンディキャップは、神の働きが現れるためでと言う積極的な新しい理解が主イエスにおいて示されているのです。いつでも弱者である者を包み、心の痛みを負っている者をそのまま守っている神の働きがあるという以上に、徹底的に彼自身の存在が積極的なものとして働くのです。このような存在を変えるような業が起き、見えなかったものが見えるようにあるということが現れるのであるのです。
言ってみれば、この主イエスの答えは、弟子たちや私たちのように過去からではなく、反対に将来から、これから、神がなさろうとしていることから説明します。「神の業が」と言う時、そこには、これから、この不幸な人に、神がなさろうとしておられる行為が問題になっています。
「神の業がこの人に現れるためである。」(3節)ということが、別の形で(4-5節)で、「私たしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰でも働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世のひかりである。」とみ言葉は言いあらわしています。

いやしの第一幕が6節から始まります。生まれつき目の見えない人の前に立っておりそのことが前提となっています。イエスは言葉で宣言されたことを直ちに行われたのです。
それは「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目におぬりになった。」これは多くの奇跡伝承の中で非常に原始的な形のものだと言われております。
そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と主イエスは言われました。
シロアムと言う語は、「遣わされた者」の意味とされております。シロアと言うのは、「水道」と言う意味があり、新約聖書ではそれがシロアムとして用いられております。
イエスの言葉を聞いてそのとおりにしたら彼は目が見えるようになりました。彼は物乞(ものご)いであり、目に障害を持っていたので、社会的にも宗教的にも市民権を失っていた彼は経済的にも人に依存して生きて行く以外に考えられない存在でした。けれどもその人が、主イエスに癒され目が見えるようになったという事実に、近所の人々が驚いて、次のような問いを発しているのです。「これは、座って物乞いをしていたひとではないか」……『その人だ』と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う。それに対して本人は、「わたしがそうなのです」ギリシャ語で、(エゴー・エイミ)と言っております。
彼は自分の癒しについて報告しており、自分自身の目が開いたと言うことに彼の関心はあるので、癒しをしてくれた主イエスには全然関心を払っていないのです。なぜならば、12節で、人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言うのです。

イエスは生まれつき目の見えない一人の人を癒し、その癒しにおいて彼の目に泥を塗りました。ヨハネは、神の業を行う必要性の自然な補いの言葉として、イエスは世の光であると言う主張を繰り返しております。
「わたしをお遣わしになった方の業」(4節)とは、スヒレベークが「神の肯定性」と名付けて光の業である。夜が来ると誰も働くことは出来ない。夜は否定性の時であり、あらゆる被造物の有限性が主導権を取るか、あるいは悪魔的な、もしくは人間的な神の意志に対する活発な抵抗が主導権を取るか、そのどちらかである、そうした時であるのです。

 神の御業が行われるには、時があります。事を行う時、待たなくてはなりません。そのためにイエス・キリストは、昼と夜の例で、説明しています。昼は働くとき、夜は待たなくてはならない時です。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(ヨハネ9・4)一日の内に夜と昼とがあるように、わたしたちの人生も、夜と昼とがあります。主イエスが殺されておしまいになる夜が来ます。しかし、「わたしは世にいる間、世の光である」と言われた時、「世にいる間」というのは十字架で終わったわけではありません。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」魂において、霊において目が見えなくなった者たちの闇の深さの中から、父なる神によって引き出される甦りの勝利を体験なさいました。そしてその闇から光への業の中にわたしたちを今立たせていてくださいます。
(使徒言行録13:41)では、「わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を」。
そして人間ではなく、神がそれをなさる時、宿命とみられるような不幸すらも、その恵みの業の対象なのです。神は最も不幸のどん底におられ、他では見られない素晴らしいことを行われるのです。「このような人のために生きる時のみ、人は神の栄光の輝きを見、その光に照らされた生を発見するのです。」

「神の業」それは、神が行ってくださる業です。神が言ってくださるなら心配はいりません。そのために今、ここで主が行われる業が、シロアムの池(遣わされた者)と言う意味を持っているところで、行われました。
主は、目を開けるために、まず泥を作りました。それはある意味で、わたしたち目をふさぐ行為です。神の業が行われるためには、まずふさがれねばならないのです。「目をおおうことではなく、開くことが必要なのに、イエスはわざわざその目をおおってしまいます。しかし、まさにイエスがその目をおおうことによって、目の見えない人に、光が与えられるのです。その覆(おお)いは、いつまでもくっついてはなりません。覆いは落とされます。隠されおおわれることを通して啓示は出来事となります。」(15節)「あのかたが、わたしの目にこね土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」。
 見えるために、わたしたちは一度地上の泥を経験しなくてはなりません。
わたしたちはよく、「泥をかぶる」と言うでしょう。泥をかぶらないで、本当の経験はありません。
「光は闇の中に照るのです。しかし、闇は光には勝たなかったのです。」また「罪の増すところに、恵みもそれ以上にまし加わったのです。」(ローマ5:20)。


 主イエスは、数々の奇跡を人々に示されました。それが今尚奇跡が起こることが、イスラエルの旅をしている中で、目にすることができました。
 それは、イスラエルの地を、旅した時に、同じグループのお一人の女性で、杖を突いて歩いていた方が、イスラエルの旅を続けている途中で起こりました。その女性の方は、足で歩く時に杖をついて、歩かなければならないので、階段の途中で、休みながら一歩ずつ杖を先にして歩いている状態でした。ところが旅の途中で、ふと気が付くと、彼女は手に持っていた杖がありませんでした。かの昔、主イエスが歩いた道を歩いて旅しているうちに、彼女の中にこんな不思議な出来事が起こり、今まで、グループの最後杖を突きながら歩いていた人が、今度はグループの先頭を杖のない状態で、歩けるようになりました。
わたしたちが神を崇め、信じて祈る中で、多くの事が叶えられるのです。でも、自分勝手な思いや、欲望は叶えられません。幼子のような心を持ち、主にすべてをお委ねして、主イエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とシモンとアンデレに言われ、二人はすぐに網を捨てて従ったように、わたしたちも、主に従う心を持てるように、すべてを主に任せていける者として、お一人お一人の信仰を強めていきましょう。



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