2012-08-12(Sun)

神に栄光を帰す信仰 2012年8月12日の礼拝メッセージ

神に栄光を帰す信仰
中山弘隆牧師

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
エゼキエル書36章22~24節


 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙4章13~25節


(1)生ける神を信じる
 聖書では、アブラハムは信仰の父と呼ばれています。それでは、アブラハムの信仰とはいかなる性質の信仰でありましょうか。本日の聖書の箇所にこのように記されています。
 「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてある通りです。死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」(4:17)
 このように実に、アブラハムの信仰は死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じることでありました。世の中にはご利益を求めて神仏に祈る人が多くいますが、人間の存在そのものが神の創造によるのです。神の創造の御手によらなければ、誰も一瞬たりとも存在できないのです。聖書の信じる神はそのような創造者です。それゆえ、また救済者なのです。
そこで、創造者とはこの世界が存在する以上、遠い昔に誰かがそれを造ったはずだ、という人間の推測から、言われているのではありません。そのような創造者はただの概念に過ぎません。
 それに対して、聖書の神は生ける神であり、自らの永遠の目的を実現するために時を支配し、歴史の中で働いておられる方です。
アブラハムは神の御言葉を聞き、神を信じました。その際「その御前でわたしたちの父となった」と聖書は言っています。
「御前」とは神が臨在される場に面してと、言う意味であり、彼は生ける神と人格的に直面していることを意識しつつ、神を信じました。それゆえ神を信じるすべての者の父となったのです。
  
(2)御言葉に対する応答
 次に、聖書の信仰は生ける神から呼び出されることから始まります。創世記12章にはこのように書かれています。
 「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。----』アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:1~4)
 このように彼は神の大いなる約束の言葉を聞き、信仰をもって、応答せざるを得ませんでした。
その理由は神の言葉に秘められた力を感じたからです。神は人間に御言葉を語られるとき、そして人間が神の御言葉を真剣に聞くとき、神は御言葉を通して、人間の心の中に臨在されるので、人間は神と出会うのです。
もちろん神は人間や他の被造物とは異なり、目に見える神ではありません。しかし、神の言葉に聞こうとするとき、御言葉を語っておられる神の存在と働きが目の前にあることが分かるのです。
そのようにして生ける神が自分に対して人格的に出会っておられることを知って、神を信じることが聖書の信仰です。それ以外に信仰の確かさはありません。もし信仰の確かさを求めて、御言葉以外に奇跡や予期せぬ幸い等の「しるし」を欲しがるならば、それは神が求められる信仰ではありません。それは神を試すことであり、神に対する反抗であり、神を否認することに他ならないのです。

しかし、御言葉を通して真の生ける神が自分に直面しておられることを知ると、人は自ら進んで、それを信じ、喜んで神の言葉を受け入れ、承認し、御言葉に従います。
主イエスは弟子たちに天国の譬え話を多くされましたが、わたしたちの心を強く打つものがあります。それは畑に隠された宝を発見した農夫と、高価な一つの真珠を発見した商人とが取った行動です。
「天の国は次にようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)
「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を捜している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:45)
畑に隠されている宝、または高価な一個の真珠とは、主イエスを通して神の国が到来しているという霊的な無尽蔵の宝です。それは人の目に隠された形で到来しているのですが、主イエスの言動を良く注意することによって、その宝を発見した人は、あらゆるものを犠牲にしても、喜び勇んで主イエスに従う人生を歩みます。これがクリスチャンの信仰であり、信仰による基本的態度です。

さらに、本質的に神の恵みである約束は、アブラハムに対する命令を含んでいました。それは「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」という命令です。
 それではこの命令はどういう意味を持っているのでしょうか。古代世界では、自分が属している部族から離れて遠くに行くならば、いつ生命と財産が奪われるかもしれないという大きな危険が待ち構えていたのです。
それにも拘らず、神がそのように命じられたのは、そのことを通して、神の創造的な力が働くためでした。
 信仰とは、御言葉をもって語られる神の意志に従うことです。それゆえ、アブラハムは行く先がどのようになっているのか皆目見当がつかないまま、遠い旅に出発しました。実に、この態度が神の呼びかけに心の底から応答したことを示しています。
 しかし、神の命令に従って、新しい土地に来て分かったことは、既に土地を所有している民族がいるという厳しい現実でした。明らかにそれはアブラハムの期待に反したことであったでしょうが、彼の信仰は弱まりませんでした。神は歴史を貫く長い時間を経て必ず約束を実現されると考え直して、そこに居住したのです。
 このように信仰者は予期しない困難に遭遇するとき、自分の信仰が試されます。様々な形で疑いの気持ちが起こるのですが、それにも拘らず信じるのが聖書の信仰です。
 アブラハムはそのような信仰者として、神を礼拝しました。
 「アブラハムは、そこからベテルの東の山に移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」(創世記12:8)
 新しい土地に来て先住民族の間で、寄留者としての生活を余儀なくされたアブラハムは、主のために祭壇を築き、御名を呼ぶことを生活の中心に据えました。それは礼拝を中心とする生活です。
 そのようにして、新しい土地においても、神はアブラハムに出会い、御言葉をもって約束を保証し、その確証を与えられました。そのことにより、アブラハムは疑いを乗り越えて信じ続けることができたのです。
 この体験は、創造者なる神は天地の支配者であり、何処にでも臨在され、その目的を実現するために働いておられることを証しています。このことが聖書の信仰の特徴なのです。
それゆえ、クリスチャンはどこの国に行って住もうとも、そこでイエスが臨在されることを体験します。また地球を離れて広い宇宙に出かけて行っても、そこに主イエスが臨在しておられることを知るのです。

(3)信仰による義認
 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されることになります。----従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐものとなるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束に与れるのです。」(4:13~16)
このローマの信徒への手紙は、クリスチャンに向かって、主イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられるという信仰義認を力説しています。その文脈の中で、パウロはアブラハムの場合の信仰義認について言及しています。
アブラハムは神の約束を信じ、信仰によって義と認められたことにより神の約束が実現したことを、強調しています。
さらにアブラハムに与えられた神の約束は究極的に言えば、信仰者が「神の国を受け継ぐ」ことです。そしてそれは主イエス・キリストにおいて実現された神の恵みを、人が信じることによって受け取ることができるのです。
それゆえ、神の救いを受けることは、ただ信仰によることを旧約聖書も新約聖書も共に証しています。
但し、アブラハムの子孫であるユダヤ教徒は、神の国を受け継ぐことができるのは律法を実行することによる自己の義と功績によってであると、主張しています。
 それに対して、パウロはユダヤ教徒の父祖アブラハムが神の約束を信じることにより、神から義と認められる「信仰義認」によって神の約束が実現したのだと言っています。それゆえ、パウロはユダヤ人であっても律法の業を実行することによる自己の義によっては神の国を受け継ぐことはできないと言うのです。

 次に、アブラハムはユダヤ人に対してだけでなく、すべての人間の信仰の父であり、神の恵みは信仰によってのみ受領できると証している。それゆえ終わりの時に主イエス・キリストによって到来した神の救いを受けるには、実に主イエス・キリストを信じることにのみよると、パウロは強調しています。
 特に、アブラハムの信仰義認はクリスチャンの信仰義認を証するためであると言っています。
 「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(4:23~24)
 勿論、信仰は律法を無効にするのではなく、確立する働きをします。この点でもパウロはローマの信徒への手紙3:31ではっきりと言っています。
 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである。」(3:31)
 ところで、律法とはユダヤ教徒が主張する生活全般の種々の規則ではなく、生ける神の命令としての律法であり、信仰義認によって、神の恵みにしっかりと立っている者が、主イエスの命を受けて実行することができる律法です。
それゆえ、律法は人が救われるために必要な手段ではありません。従って、律法の業は自己の功績にはならないのです。あくまでも律法の遵守は信仰義認を受けた者たちの感謝の業であり、神を賛美するために行うのです。従って、ユダヤ教徒のように自己の業を誇る者は神の国に属していないのです。

(4)神の栄光のために
 このように人が徹頭徹尾、神の恵みに生きる信仰は、言い換えますと、神に栄光を帰す信仰です。
 しかし、信仰によってのみ義とされる。神の恵みによってのみ救われるということは、棚から「ぼたもち」式に救いが与えられる。それだから自分は何もしないで済む、というのではありません。あるいはキリストの十字架の死と復活はわたしのためであると信じることが重要なのだと言う場合にも、キリストの恵みを自己中心的に考え、自分勝手な願いが適うかのように錯覚している人がいます。神の恵みは神の御子である主イエスの十字架の死という尊い恵みであり、決して安価な恵みではありません。それはわたしたちが神の御前で神の御心を実行することによって生きるためであります。
神の意志への従順こそ、主イエスの性質であり、また主イエスの性質を映し出すクリスチャンの特質なのです。
 実はこのことも既に旧約聖書の預言者エゼキエルによって証されています。背信の民が救われるのは、彼らが汚した聖なる神の名を神ご自身が主張し、養護されるからだと言っています。
 「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。」(エゼキエル36:22)
 それゆえ、アブラハムは試練の中で、自分自身と戦い、自分を乗り越えて、神から与えられる真の命に生きるために、神に栄光を帰す態度をとりました。
 「彼は希望する術もなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの父となりました。」(4:18)
 アブラハムを取り囲む状況は神の約束の実現を不可能にするように見えました。しかし彼の信仰は、望む術はないと言う窮地に陥っていた「にも拘わらず」であります。
「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(4:31)
 つまり、彼は神に栄光を帰すことによって、生涯を通して神を信じ抜き、神の意志に従順に、しかも喜んで従いました。そこに信仰義認によって、神との人格的な交わりの中で生きる者の生き方があります。



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