2012-08-05(Sun)

主イエスを告白おする教会 2012年8月5日の礼拝メッセージ

主イエスを告白する教会
中山弘隆牧師

 何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6章6~8節


 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙2章1~11節



(1)キリスト教の信仰の中心
 キリスト教の信仰は、人間が神を求める下から上への思索による信仰ではなく、神が人間を求められる上から下への啓示によって与えられた信仰です。人間の努力と功績によって救いを獲得するという信仰ではなく、人間の認識や努力に左右されず、人間の一切の活動に先行する神の行為すなわち神の恵みによって救われ、生きるという信仰です。

神は罪のために神から離れて、闇と束縛の中でさ迷い、苦しんでいる罪人を、イエス・キリストによって探し出し、イエス・キリストとの交じりの中に入れ、そのことによって、神は罪人を赦し、神の御前で新しく生きるようにされました。
さらにこのことは人間に対する神の救いの歴史の中で、たえず繰り返される出来事の一つではなく、特異な出来事であり、一回限りの出来事でした。なぜならば神はイエス・キリストの人格と言動を通して、御自身を人間に完全に啓示されたからです。
そういう意味で、イエス・キリストの人格と言動は人間とこの世界の生き方を最終的に決定する終末論的な出来事です。
 これは神の国に関するイエス・キリストの宣教活動を通して、神が共に働き、神が達成された決定的な出来事なのです。
特に中心的な出来事はイエスの十字架の死と復活です。
 イエスの宣教活動が最終段階に近づいた時期に、人々の中にはイエスを「預言者エリヤの再来である」と言う者、或いはイエスを「偉大な預言者の一人である」という者もいました。但し、ユダヤ教の指導者たちは、イエスがユダヤ教を根本から破壊する危険人物、神を冒涜する者と判断して、イエスを殺そうと計画していました。
 その頃、イエスは弟子たちに「それではあなたがたはわたしを何者だというのか。」と問われました。弟子たちを代表してペトロが「あなたはメシア(キリスト)です。」とイエスに対する最初の信仰を告白しました。(マルコ8:29)
 しかし、これは未だ本当の信仰ではなかったのです。なぜならば、ペトロはイエスの十字架に遭遇しましたとき、十字架の死を恐れ、「自分はイエスを知らない」と誓って、イエスを否認したからです。(マルコ14:71)
 このように弟子たちもイエスの十字架に躓きましたが、父なる神がイエスを死人の中から復活させられましたので、十字架についたイエスを主と告白する真の信仰がキリスト教の信仰の中心となりました。
 弟子たちの中でも疑い深いトマスに復活のイエスが現れたとき、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言ってイエスに対する信仰の告白をしました。(ヨハネ20:28)
 弟子たちはそのとき、十字架について死んだイエスが復活して生きておられるその確かさを知ったのです。しかし、それはイエスが生き返ったというのではありません。神として臨在し、神として弟子たちに対面しておられるイエスの生ける人格を明瞭に認識したのです。
主とは「主権者」と言う意味で、旧約聖書では天と地の支配者である神を主と呼んでいました。
 それに対して、新約聖書が十字架について死に、死人の中から復活したイエスを主と呼ぶのは、イエスが十字架の死と復活によって人間を救う神の権威と力を持っておられる方であるからです。
そのような方として、クリスチャンは旧約聖書が告白していた主の名称をイエスに適用しました。
 さらに、弟子たちは神の国を宣教しておられたイエスと共に神が働いておられたことは認識していましたが、イエスが神であることは全く知りませんでした。従ましてイエスを神として知ったのは、あくまで死人の中から復活したイエスが彼らのもとに臨在し、彼らと対面しておられるその事実が、イエスは神であることを示しているからです。
 そのようにして、イエスが神であることが分かったとき、イエスは最初から神であることも同時に分かりました。なぜならば、人間は復活しても、決して神になることはできないからです。
それゆえ、イエスは人間となられた神なのです。但し、イエスは死人からの復活によって神としての権威と力を現されるようになりました。それゆえに、「イエス・キリストが主である」という信仰告白がキリスト教の信仰の中心です。
しかも、「十字架に架けられて死んだイエスが主である」と信じることこそ、人間が初めて生ける神と直面し、神を本当に知ることなのです。

(2)従順としての信仰
 次に、十字架の死によって、人類の罪を贖い、死人の中から復活された主イエス・キリストは今や福音宣教の言葉を通して、神として、人類の救い主として働いておられます。
 ところで福音の言葉とは、人間を救う神の言葉であり、主イエスの十字架の死によって神が人類の罪の贖いを実現され、父なる神がイエスを死人の中から復活させ、主とされたことを語る言葉です。
 この神の言葉が語られるとき、復活の主イエスがその場に神として臨在し、聞くものと出会い、対面する者に主イエスご自身が語られるのです。
復活の主イエスは神として臨在されますので、その姿は目に見えませんが、しかし主イエスはご自身が生ける方として、人間に語りかけられるのです。イエスの十字架の死と復活が、すべての人間の生と死を決定する「神の恵み」であると語られるのです。
 言い換えれば、神は主イエスの十字架の死において、人類の罪を裁かれましたので、神は人が皆イエスの死によって、イエスと共に死んだ者であると宣告されるのです。
 同時に、神は人類が根本的に新しい人間として生きるために、イエスの十字架の死によって、人類を罪から解放し、人間が神の御前に生きる人間の義と聖と命をイエスによって達成されました。
そして、神はイエスを復活させ、人間存在の基盤を人間自身の中から、イエスの中に移し、イエスの義と聖と命によって生きる根本的に新しい人間を、主イエスの支配のもとに置かれました。
 それゆえ、復活の主イエスはわたしたちに向かって、神がわたしの十字架と復活を通して実現してくださったこの一回限りで、永遠の効力を持っている終末論的な出来事を、あなたは信じるかと問われるのです。
正に、復活の主の臨在とこの問いかけが復活の主の働きなのです。

主イエスの問いかけは、主イエスの十字架の死と復活を信じるか、どうかです。そして神はイエスを復活させて主とされたことを、わたしたちが信じるように要求されるのです。
それと同時に、わたしたちの存在が主イエスの十字架の死により、すでに滅んでいることを認めるように要求されるのです。
そして神はわたしたちの新しい存在を主イエスの中に創造し、わたしたちの存在の基盤をわたしたちの中から主イエスの中にすでに移されたという神の行為と決定、言い換えれば「神の恵み」に対して服従し、それを受け入れることを要求されるのです。

 それゆえ、信仰とは、人間の思いと努力に先行する神の恵み、すなわち主イエスの十字架の死と復活の出来事に対する従順なのです。
 従いまして、従順としての信仰は、主イエスの臨在と語りかけ以外には何のしるしも保証もないのに、主イエスの語りかけを、わたしたちは喜んで信じ、認識し、自ら承認し、感謝し、告白することなのです。そしてわたしたちがイエスを自分の主として選ぶ決断をすることなのです。

まさに信仰の決断がわたしたちを新しい人間にします。そこにおいては信仰の決断が「従順の自由な行為」であると言えます。なぜならば、信仰の決断が新しい自由なる人間を成立させるからです。
 このような信仰の認識と承認と告白と決断は、神の恵みに対する従順であり、感謝です。従いまして、そのような信仰の決断は「聖霊の働き」なのです。「聖霊の働き」がわたしたちを主イエスの中に存在する新しい人間にするのです。

礼拝において、神の言葉である福音が語られ、わたしたちは復活の主イエスと出会う度に、神の恵みと神の決定に対する従順としての信仰を告白します。その度に主イエスとの繋がりを確認し、神の恵みの中に留まり続けるのです。
さらに、主イエスと存在的に結びついている新しい人間として、愛と希望の働きを通して、生き、神を賛美し、福音を証するのです。 
そして愛と希望も神への「従順の自由なる行為」でありますゆえに、愛も希望も「聖霊の働き」なのです。

(3)国家に対する主イエスの主権
 最後に、復活の主イエスの主権は教会と国家との両方の範囲に及んでいます。但し、教会と国家では主イエスの主権の働きの形態と内容が異なっています。
 つまり、教会における主イエスの主権は、教会がキリストの身体であり、主イエスの命令に従う信仰共同体です。そして教会に連なる個々のクリスチャンは、主イエスとの人格的な交わりの中で、主イエスを信じ、主イエスを知っている者たちです。
 それに対して、国家に対する主イエスの主権は、見えない仕方で働き、国家や国民は主イエスの支配を知っていません。それにも拘らず、正義と公平と憐みを行うことによって、主イエスに仕え、その支配のもとにあるのです。
 それゆえに、主イエスの主権のもとで、国家が諸々の霊力に支配され、悪魔的な国家になることから防止されています。
但し、国家を支配する諸々の霊力は、主イエスの十字架の贖いによって既にその支配権は打ち破られていますが、しかしまだそれらの霊力は依然として働いているので、国家は自らを絶対化する危険性がなお残されています。
 「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ3:10)
 この時に至って、初めてすべての人間に対する神の救いが完成し、神の国が完成するのです。
 従いまして、キリスト教会はイエス・キリストが主であると告白するとき、教会の頭である主イエスを告白するとともに、国家と世界に対する主イエスの主権を告白すべきなのです。

 世界第二次大戦に至る日本国家は、神でない天皇を神とし、天皇を国家の主権者としました。その結果、韓国や中国を初め、東南アジア諸国を侵略し、最後に敗戦を迎えました。
その後、日本は新憲法を制定し、平和国家として再出発しましたが、なぜ日本国家がそのような敗戦の惨事を迎えるに至ったかについて、その経過と原因の検証をしないまま、今日を迎えています。
一口で言えば、天皇制国家は無責任国家であったために、近隣諸国に対して人道に反する犯罪を行う結果を招きました。天皇制は、国家の指導者や一部の階級に権威を与えますが、それらの指導者や一部の階級の無責任と犯罪行為を制御し、防ぐことは不可能でした。
 日本キリスト教団では、8月の第一日曜日を平和聖日と定めています。特に関東教区では日本キリスト教団が、天皇制国家の中に繰り込まれ、天皇を拝む国家行事に参加し、侵略戦争を黙認し、またその他の点について、日本基督教団が戦時中に犯した多くの誤りを告白し、神に謝罪を祈る日としています。

 しかし、聖書における信仰告白とは、自分自身の状態を反省して神の赦しを願うことではなく、信仰の対象である主イエスがいかなる方であるかの告白です。主イエスの主権を認識し、承認し、喜んでその主権のもとに服従することなのです。
クリスチャンとして、自分の罪を自覚し、神の赦しを願うことは必要ですが、最も大切なことは懺悔よりも、神が主イエスを通して働かせておられる主権を正しく告白することです。
 すなわち、国家を絶対化して神の位に祭り上げることは、主イエスの主権に対する重大な反抗であることを警告し、そのようにならないために、キリスト教会は国家のあるべき正しい姿について大いに発言することが必要です。

またクリスチャンは国民の一員として、そのような態度を鮮明にし、国家が国民の目をごまかして、悪い方向に進んで行かないように監視し、またそのような考えと行動を取る良心的な人たちとクリスチャンは協力する責任を負っています。
 もとより、平和のために祈ることは教会として必要です。しかし、祈りは主イエスの主権の告白の上に立って、教会やクリスチャンの責任を果たすための祈りでなければなりません。



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