2010-07-25(Sun)

すべてを知りたもう神 2010年7月25日の礼拝メッセージ

すべてを知りたもう神
中山弘隆牧師

 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。たくらみをもって御名を唱え、あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み、あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らをわたしの敵とします。神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください。
詩編139篇1~24節

 
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタイによる福音書6章1~6節

(1) 静かに神と対面する
 この詩は詩篇の中で最も優れた詩の一つであると言われています。さらに、その厚い敬虔さと宗教的な深い洞察の点で、旧約聖書の中でも特に著しい詩である、と見なされています。この詩の内容は神への賛美と信頼でありますが、ある聖書注解者はこの詩は「個人の魂が神と一対一で対面している静かな祈りである」と言っています。

 内容の構成は、四部に分かれていています。第一部は1~6節で、神はすべてのことをご存知であるという神の全知について語っています。第二部は7~12節で、神がどこにでも臨在しておられるという神の遍在について告白しています。第三部は13~18節で、創造者なる神の御業を思いめぐらしています。第四部は、19~22節で、神に敵対する悪の勢力が滅びるように祈り、23~24節で、神様が詩人の人生を探り究め、正しい道に導いてくださいという祈願で終っています。
 この詩人は主が全知と遍在の神であることに、特に深い感銘を受けています。しかし、それは教理として神の全知と遍在について知っているというのではありません。そうではなく、彼自身の体験の中で、はっきりと確信しているのです。あくまでもこの詩人は自己が確信できる範囲で正直に歩み、神様の御前で謙遜に歩みながら、神様から教えられてきたことを振り返り、熟慮し、神の御業を賛美しているのです。従いまして、この詩のアピールはヘブル民族的な枠を越えて、すべての人間に、しかもいつの時代にも通用する普遍的な価値を持っています。

 最初に、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」(1~2節)
 これは実に詩人が「個人」として神から知られているという信仰の表明です。神様は全知でありますから、万事をご存知なのですが、そのような一般的な事柄ではなく、全知の神であるゆえに、詩人を特色のある具体的な一人の人間として、「一つの人格」として知っていてくださるという確信です。
 「座るのも立つのも知り」とは、自分の行動のすべてを神様が知っておられると言う詩人の自覚です。そして、「わたしの計らいを悟っておられる」というのは、人は自分の行動に対して必ず目的や計画をもっているはずですから、神様は人の心の中の計画を見抜いておられるのです。ここでは一つ一つの行動だけではなく、自分の人生に対してどのような希望と目的を持って生きているかを神様は悟っておられるというのです。悟るという意味ははっきりと知る。あるいは識別すると言う意味です。さらに3節でこのように告白しています。
 「歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」(3節)
 1節では神様が詩人の過去を調べ、過去のすべてのことを探り、詩人が何者であるかを知っておられると告白しましたが、2~3節で、神様は詩人の現在の行動と計らいを調べ、本当にわたしを熟知しておられる、と言っています。
 ここで留意すべき点は、このような告白は、神への信頼と感謝の中で表明されているということです。これは詩人がこれまで神様との間で、一対一の人格的な関係を続けてきたことを物語っています。自分のことをすべて知っていてくださる神様の御前で生きているという深い自覚が表されています。先ず神様の方から詩人に呼びかけられ、彼が信仰をもって、応答することによって人格的な交わりが始まったのです。それ以来、詩人が神様の御言葉を心に留め、思いめぐらしながら、行動していることを示しています。さらに何よりも、この詩人が祈るとき、神様と対面し、神の方から詩人を知っていると、言われます。全知である神様にすべてのことを知られているのは、実に恐ろしいことですが、神様との人格的な交わりの中では、その事実が何ものにも勝る幸いなのです。なぜならば神の御心が実現することこそ、自分を真に生かすということをこの詩人は信じているからです。
 聖書の祈りは、人間の分際に過ぎない者を、神様が人格として認め、人格としてご自身との交わりに入れてくださることによって、成立します。その理由は実に神の本質が愛であるからです。祈りの中で人間が神に語り、神が人間に答えてくださることにより、人間は神様の御心を知り、御心が実現することを喜び、神様に従うのです。
 「わたしの舌がまだ一言も語らぬうちに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)
 祈りは神様との対話でありますが、神様はわたしたちが祈りにおいて、その願いを口で言い表さない前に、すでにそれを知っておられる方です。それは神様が全知であるからです。それでも全知の神様に向かって祈ると言うことは、そこに神様との人格的な交わりが「出来事」となるのです。このことこそ、人間が体験できる「聖なる出来事」であります。神様と語り合い、神様に知られているということを体験し、そして神様の御心を実行するために、そこから生活の場に向かって出て行くとき、自分一人で努力し、苦闘しているのでなく、神が共にいて、働いてくださることが確信できます。
 「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。」(5節)
 自分が主に知られているだけでなく、主によって捕らえられていることを詩人はこのように証言しています。それゆえ自分は主イエスから離れてどこかへさまようことは最早ないというのです。わたしたちは意志が弱く、気持ちの移りやすい甚だ頼りない者ですが、一旦わたしたちを捕らえられた主の御手は見えなくても力強い御手なので、いつでもしっかりと捕らえていてくださいます。この詩人は、自分が主イエスを信じるようになり、信仰の人生を送れるのは、主の御手によって囲まれていて、御手が自分の上に置かれているからだ、としみじみと実感しています。
 「その驚くべき知識はわたしを越え、余りにも高くて到達できません。」(6節)
 この詩人は自分を知ってくださり、捕らえていてくださる全知である神を信頼していますが、それと同時に神の全知に対して、畏敬の念を抱いています。神様の驚くべき知識は人知を遥かに越えた無限であることを告白、賛美しています。

(2) あなたの霊から離れることはできない
 次に、詩人は彼がどこに行こうとも主はそこにいて、彼を導き、彼を捕らえていてくださることを確信し、神への信頼を表明しています。
 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(7節)
 ここで「あなたの霊」すなわち「神の霊」とは、「神ご自身」という意味です。神ご自身を、畏敬の念をもって言うために、このような回りくどい表現をするのです。ことに、世界の中で力強い行為をもって臨在される神ご自身を表現する場合に、「神の霊」という言い方をするのです。
また、「御顔」という表現は神の臨在を意味する旧約聖書の一般的な言い方です。
 詩人は、自分がどこに行っても、神はそこに臨在しておられ、力ある神として働いておられることを体験し、告白しています。彼と対面し、彼に語り、教え、導かれる神ご自身を「生ける神」として賛美しているのです。
この確信こそ、聖書の信仰です。預言者エレミヤは次にように言っています。「もし、あなたが真実と公平と正義をもって、<主は生きておられる>と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(エレミヤ書4章2節)
神様がどこでも神として臨在され、神として働いておられるということは、単なる教理の問題ではなく、信仰者の切実な問題なのです。言うなれば信仰者の死活問題です。
 次に、この体験と確信から、この詩篇の作者は次にように神の遍在を賛美しています。
 「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(8~10節)
 現代の発達した科学技術をもって、天体のどこかに到達しても、神様はすでにそこに臨在し、働いておられるという確信をこの詩人は歌いました。
このことはちょうどアメリカの宇宙飛行士アーウインが体験したことです。彼は月に到着し、月面を歩いた瞬間に神様がそこに臨在しておられるのを実感しました。月面に何気なく転がっていた石をよく見ると、果たして自分の探していた石で、月の創世期にできた原石であることが分かったのです。彼はそのときの感動を今日の人々に伝えるために、「自分は月に行って神様と出会った」と言っています。
 次に、詩人は人間はどのように自分を神様の目から隠そうとしても、神様はすべて見ておられるという真に恐るべき神の力を告白しています。
 「わたしは言う。闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところはない。」(11~12節)
 口語訳聖書では、「闇はわたしを覆い、わたしを囲む光は夜となれ、とわたしが言っても、あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、闇も光も異なることはありません。」(11~12節)
 このように新共同訳は口語訳と違っていますが、それはヘブル語の原典が曖昧で、このように違った訳が可能なのです。それにしても、人は神様をごまかすことは出来ないのです。世の中には人が見ていなければ何をしても構わないと、考えている浅はかな者がいます。また人々の目をごまかして不当な利益を得ている悪者がいます。しかしすべては神様がご存知なのです。神様の目の前では、人は丸裸でいるのと同様です。神様の前では人は隠れる場所がないのです。人間は見えるところしか知らないのですが、神様は隠れたところをご存知であります。
 それゆえ、どこにでも臨在され、隠れたことを見ておられる遍在・全知の神様の前で、わたしたち人間は存在し生きているのだ、ということを悟ることが、一番大切です。
 人間の知恵をはるかに超えた神の偉大さに対して謙虚になり、神を信頼し、神の御心に従うことを本心より願う人間になれば、その人生が一番幸いな生き方なのです。すなわち、神との人格的な交わりこそ、命の道なのです。それこそ永遠の道です。この詩篇の作者は、最後に次のように祈っています。
 「御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください。」(24節)
 ここで「とこしえの道」とは、「神との人格的な交わり」です。それこそ命溢れる永遠の道です。

 今や、神様はこの永遠の道を、神の御子イエス・キリストによって究極的に樹立してくださいました。主イエス・キリストを信じる者はだれであっても皆、主イエスを通して神様との人格的な交わりの中で、この地上の人生を過ごし、永遠の國に入るのです。主イエスは祈りについてこのように教えられました。
 「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる。」(マタイによる福音書6章6節)
 ここでイエスは祈るときには、密室に入って一人で祈りなさい、と命じておられますが、礼拝における公の祈りの重要性を軽視されたのでは決してありません。そうではなく、祈りは公の祈りにおいても、個人の祈りにおいても、神との人格的な直接的な交わりであることを強調さたのです。
 それは人の目に隠された「聖なる出来事」です。神と一対一で相対する確かなる「神の現実」です。それゆえ、信仰者に与えられている神との人格的関係は、偽善者たちのように、人の前で称賛を得たいという魂胆で、芝居を演じる態度をとるならば、それは直ちに破壊されてしまうと、厳しく警告されたのです。
 祈りは、主イエスを通してつねに臨在される神とその恵みの威力を知る者が、正直に神に向かって語り、神の御心を知らされることを願い、自己を深く省み、神のみ前で決意し、神に自己とその業を献げる、ということによってその効果が現れるのです。隠れたところにおられる神に祈ると言うことは、こういうことです。
 要するに、祈りとは、そこで神と出会い、自己の罪を赦され、神の御言葉の約束に照らされて、将来の計画を立て、実行することを決意し、神にそのすべてを献げることです。そこから神と共に歩む日々が始まるのです。隠れたところにいて、隠れたことを見ておられる神の前で、わたしたちの新しい人生が現実的に始まるのです。そして努力と実践の中で、また祈りに立ち帰り、再び神と交わることにより、誤りを正され、軌道修正を行いながら前進するのです。まことに祈りこそ自己形成の原点であり、霊的生命の源泉です。




スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR