2012-07-22(Sun)

安息日の主 2012年7月22日の礼拝メッセージ

安息日の主
中山弘隆牧師

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
出エジプト記20章8~11節


 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。 人の子は安息日の主なのである。」 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
マタイによる福音書12章1~14節


(1)安息日
 わたしたちは日曜日の朝、教会に集まり礼拝を献げていますが、それは聖書によって、聖日は礼拝を行う日として定められているからです。この聖日を、安息日、或いは主の日と呼びます。
 もともと、聖書では「主の安息日」と呼ばれています。出エジプト記20章10、11節で次のように安息日について記されています。
 「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの門の中にいる寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 しかし、これは文字通りに、神様が七日目に休まれたと言うのではありません。神様は人間と違って万物の創造者であり、休まなければ仕事ができないと言う方ではありません。神様は倦むことなく、疲れることなく、常に働いて万物を支えておられる方です。
従いまして、「神様が休息された」と言う聖書の意味は、神様が創造の業を完成される暁に、永遠の安息、言い換えれば神様の祝福に満ちた日を与えてくださると言う人間に対する約束なのです。そしてその「しるし」として「安息日」を定められました。つまり「安息日」は人間が神の永遠の安息に入れられるとの「約束」を示しているのです。

(2)律法学者の理解
それではユダヤ教の律法学者たちは安息日を守る意義をどのように理解したのでしょうか。彼らは神がイスラエルの民に与えられた律法を厳密に守ることにより、最後の救いと永遠の安息に入れられると教え、すべての律法を守る中で、特に安息日の律法を守ることを重視していました。
彼らは安息日に仕事を休むと言うことが神の意志であると理解し、安息日に仕事をしないため、例外として安息日に認められる仕事の限界を事細かに決めました。
例えば、安息日に運んでもよい荷物を決めましたが、その荷物とは「干しイチジク一個と同じ重さの食物、大匙一杯分の酒、一口に呑み込めるだけの牛乳、一つの傷口に塗れるだけの蜂蜜、体の小さな部分に塗れるだけの油、目に塗る軟膏をぬらすだけの水、徴税所の通告書を書くだけの紙、アルファベットの二文字を書くだけの墨、一本のペンを作るだけの葦、---」です。
律法学者たちはこのような規則を作るために、毎日議論し、そして安息日には、ランプを一つの場所から他の場所に移してもよいだろうか、安息日には、入れ歯や義足をつけたまま外出してもよいだろうか、安息日には子どもを抱き上げてもよいだろうか、などと真剣に議論していました。
このようにして律法学者たちが決めた規則に縛られた生活をすることが、正統主義的なユダヤ教でありました。
次に聖書は言っています。
「そのころ、安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『ご覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。」(マタイ12:1~2)
ここで、ファリサイ派の人たちは弟子たちが他人の畑で、無断で麦の穂を摘んで食べ始めたことを非難しているのではありません。なぜならば、旧約聖書は貧しい人々に非常に同情的であり、空腹のときには、自分が食べる分であれば、他人の畑であってもそこに入って自由に食べてよいと定められていました。
従いましてファリサイ派の人々が弟子たちを非難したのは、麦の殻と実を分けるために、穂を手で揉んだことが安息日に禁じられている脱穀の労働に抵触したからです。それゆえ、ファリサイ派の人々は弟子たちが安息日の律法に違反したと非難したのです。

(3)神の意志としての律法
 それに対して、イエスは昔ダビデとその従者がした故事を引用して、神の律法の基本精神を重要視されました。
 ダビデの話はサムエル記上の21章に記されています。それはダビデが自分の命を狙っているサウル王のもとから逃亡したとき、先ず祭司アヒメレクのもとに行き、空腹を満たすためにパンを求め、身を守るために剣を求めました。そのとき、祭司アヒメレクは神に供えられたパンを与えました。しかし供えのパンは祭司以外の者は食べてはならないと律法に定められているのです。従って、彼らの行為は律法に対する明らかな違反でしたが、神はそれを認められという有名な聖書の物語です。
 そこに文字としての律法と神の生ける意志としての律法との間に、重大な差異があることをイエスは指摘されました。そして弟子たちの行為が神の意志としての律法に違反していないと言われたのです。
 「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし『わたしが求めるものは憐みであって、生け贄ではない』と言う言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」(12:6~7)
 ここで神殿より偉大なものとは、本当に神を知ること、神の意志に従って隣人や兄弟に対して憐みを実行することである、とイエスは言われたのです。
イエスが引用された旧約聖書の言葉は、ホセア書6章6節の神の御言葉です。「わたしが喜ぶのは、愛であって生け贄ではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」
 イエスのこの発言は非常に重大な意味を持っています。人間の伝承の中で伝えられた神の律法は、律法を与えられた神の意志を現わしていない。律法学者たちが編集した旧約聖書の中の言葉は、すなわち書かれた文字としての言葉は、そのままでは神の生ける言葉ではない。
旧約聖書の言葉を正しく理解するためには、先ず神と出会い、神がいかなる方であるかを知ることが必要であると、イエスは仰せになったのです。

(4)神の安息
 さらに加えて、イエスは重大な宣言をされました。7節でこう仰せられました。
 「人の子は安息日の主である。」
 ここで、人の子とは人間と言う意味ではありません。人の子とは、人間となられた神の御子イエスの人格の秘密を暗示する言葉として、イエスはこの名称を御自分に対して用いられました。
これはダニエル書に預言されている人の子です。神の国が到来する終末の時、神は彼に万物を支配する主権を与えられるのです。
「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』
前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル書7:13~14)
 それゆえ、イエスは御自分が人の子として、安息日の主であると仰せになったのです。このイエスの言葉の意味は、旧約聖書の安息日が約束している「神が与えられる永遠の安息」がイエスと共に今始まっていると、仰せになったのです。
 また、それは旧約聖書が約束している神の救いの成就であります。ルカによる福音書4章16節~21節に記されていますが、イエスは安息日にナザレの会堂に入り、預言書イザヤの書を開き、次の聖句を読まれました。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18~19)
 そして、次のように宣言されました。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21)
 イエスは神の安息に入れられることを待望している者たちに、神の安息を与えるため自分は神から遣わされた、と仰せになっているのです。そしてイエスご自身の言葉と働き、すなわち「イエスご自身」そのものが人間に与えられる神の安息である、と宣言されたのです。
 人は「あなたの罪は赦される」と宣言されるイエスの言葉を聞き、イエスによって有りのままの自分が受け入れられる時に、自分の罪が赦されて、神の前に立つことができるのです。
そのとき、聖と義と命の所有者である神が主イエスによって人間に聖と義と生命を与えられるので、人間は神に従って生きる喜びと感謝に満たされるのです。

 そのとき、人は根源的な平安を見いだします。この平安が孤独の悩み、人生に対する不安、自分が滅亡に至ると言う恐れ、虚無に呑み込まれる無力感から、人を解放するのです。
アウグスチヌスは長い魂の遍歴を経た末、主イエス・キリストを信じて、魂の本当の平安を発見しました。
彼の書いた有名な「告白録」の中で、人間の魂は神によって創られているので、神以外のいかなるものによってもわたしは平安を得ませんでした。しかし「今あなたはわたしに真の平安をお与えくださいました」と神に向かって告白しています。

次に、「人の子は安息日の主である」と仰せになったことが、完全に実現するには、イエスは十字架の死において、自己の命を与え、人類の罪の贖いとなられることが必要でありました。
それに対して、律法学者たちは、律法の根幹を誤解し、イエスが律法を破り、神を冒涜するものであると考え、イエスを殺そうとしました。このような事実が、人間の罪深さを露呈しているのです。
律法を誤解し、律法による自己の正しさを確信し、自己を誇っていた律法学者たちの姿は、正に罪深い人間の姿であります。同様に自己を誇っていることによって、神から離れて闇の中を歩んでいる罪深いすべての人間を救うことが神の御心であり、神は主イエス・キリストによって、その救いを実現されるのです。

(5)主の日における礼拝
人類の救いを御子イエスによって、開始し、達成し、前進させ、完成させられる神は、十字架の死によって人類の罪を贖われたイエスを死人の中から復活させ、神の国の支配者である主とされました。 
そして復活された主イエスはこの地上から、別の場所に引きこもられたのではなく、天地万物の支配者となり、神の国の主として今や神の権能をもって働いておられるのです。
さらに重要なことは主イス・キリストの復活が日曜日に起こりました。それゆえに日曜日をキリスト教会は「主の日」と呼び、礼拝を主の日に行うこととなりました。
今や神は主イエスの十字架の死と復活を通して、人間に対する判決を下し、福音によって判決の内容を告知されられたのです。つまり、罪人である古い人間は主イエスの十字架によって、死に定められ、すべての人間は罪人であるにも拘らず、主イエスの復活によって、主イエスの義と聖と命を与えられて、神の御前に生きる新しい人間とされたということ、これが神の判決の内容です。
この内容を神は十字架の言葉、和解の言葉として、キリストの使徒たちに語られました。
そして使徒たちを通して、その後はキリスト教会を通して、伝道者を通して、この福音が語られるとき、復活の主イエスが臨在し、福音の言葉を通して、聞く者たちに対して復活の主イエスご自身が語られるのです。そしてこの判決を受け入れ、同意するかどうかを問われるのです。そのことを通して、復活の主は福音の言葉と共に神として働いておられるのです。
それゆえ、主の日は神の民が主イエスと出会い、神を礼拝するために集まる日なのです。その礼拝は神の御言葉である福音が語られることによって行われます。同時に、主イエスが十字架につく前夜に定められました聖餐式を行うことによって行われます。
聖餐式が行われる際に、初代のクリスチャンたちは「マラナ・タ(主よ、来てください)。」コリント一、16:22)と祈りました。
これは復活して神の国の支配者となられた主イエスに対する祈りです。この祈りに答えて、主イエスは聖餐式に臨在し、十字架の死によって人類の罪を贖い、復活されたご自身の生命を聖餐に与る者たちに与えられるのです。
また、聖餐式は神の国の完成の先取りとして行われます。神の国の支配者である栄光の主イエスがそこに臨在されるからです。

このことによって、クリスチャンは神の国が完成し、自分たちの救いが完成する希望が確かにされるのです。同時に自分たちの救いが人類全体とこの世界の救いに関連していると言う主イエスの救いの広大な視野が与えられるのです。
このように、主の日に共に集い、御言葉と聖餐を通して、復活の主と交わり、主の導きを受けることにより、教会が新しく形成されて行くのです。



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