2012-07-15(Sun)

霊に蒔く者 2012年7月15日の礼拝メッセージ

霊に蒔く者
中山弘隆牧師

 寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
申命記24章17~22節


 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節


(1)生ける信仰
 わたしたちは信仰生活を長く続けていますので、信仰のことは一応心得ている積りでいますが、何となく生活に活気がなく、マンネリ化しているように感じることがあります。そのような時には、信仰が休眠状態に入ていると言えます。
 聖書の言う信仰とは、わたしたちが主イエスを信じることによって、心の中に聖霊が働くことであります。主イエスを信じることは確かに自分の心で決断することでありますが、それだけでなく、もっと深い次元では聖霊がわたしたちの中に創りだす働きなのです。
 聖霊の働きによる信仰は、わたしたちを常に眠れる状態から目を覚まさせ、何事も安易に流れやすい怠惰な生活から、神がわたしたちに求められている高い目的にチャレンジするように鼓舞します。
 自分の幸せを願い、生活が守られるように祈ることは認められていますが、神の愛の有難さを自覚するようになりますと、自己の願いを越えて、神の御心を行うことが本当の幸せであることを知り、神の御心を実践することが人生の最大目的であると考えるようになります。
 キリストの使徒パウロはガラテヤ人への手紙5章6節で次のように信仰生活を要約しています。
 「イエス・キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
 これは愛の実践を伴わない信仰もあるというのでなく、聖霊による信仰は必ず愛の実践を伴うと言う意味です。
なぜならば、信仰は聖霊の働きであると同時に、愛も聖霊の働きであるからです。従って、信仰は愛を通して働くのです。これが生ける信仰の働きです。

(2)なぜ信仰はマンネリ化するのか
 次に信仰のマンネリズムの原因は主イエスを信じることによって与えられている神の恵みとクリスチャンの自由を誤解していることです。自分は主イエスを信じて自由な者となっているから、何をしてもよいのだと考えていることです。これは自由の誤解です。
 自分は主イエスを信じているから、神の恵みの中に入れられているから、そして「隣人を愛する」ことが神の教えの中心であること自分は知っているという安心感が災いして、自分のしたいことをするという自己中心的な行き方をしていることです。それは決して自由ではなく、その正反対です。
 人を愛するということを、クリスチャンは当然のことのように受け取るならば、そこに盲点があります。クリスチャンが「隣人を自分自身のように愛する」ことを大義名分としている限り、その愛は利己的な愛に変質しているのです。否もっと正確に表現すれば、それは依然として生まれながらの人間の愛で、聖霊による神の愛とは異なっています。
 従いまして、クリスチャンが、キリストによって与えられている本当の自由を行使して、愛の業を行うためには、聖霊に従った生活し、聖霊に従って行動することが何よりも必要なのです。

(3)肉の思いを克服する聖霊の働き
 それゆえ、使徒パウロは愛の実践について教えているガラテヤの信徒への手紙では、聖霊の導きを前面に出しています。ここでは愛という言葉を使用せず、霊の働きと肉の働きの対比を語り、聖霊に従って生きる仕方を教えていますが、そのことによって、愛の実践を現実的に語っているのです。
 先ず、5章16~17節で次のことを強調しています。
 「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことをできないのです。」
 ここで霊とは聖霊にことです。またパウロは生まれながらの人間を肉と呼んでいます。要するに、パウロはクリスチャンが聖霊の導きに従って歩むこと、言い換えれば、聖霊に従って振る舞い、生活することを使徒としての立場から命令しています。そうすれば、クリスチャンは決して生まれながらの人間としての肉の欲を満たすことはないと言うのです。
 ここで、肉の思いと霊の思いとは対立し、相反していることを強調していますが、霊の思いは肉の思いを克服することを強調しています。従いまして、聖霊に導かれて歩むクリスチャンは肉の思いを克服し、実際に聖霊の思いを実行すると言うのです。
 さらに、これらの聖句を理解するために必要な視点は、霊と肉との対立はクリスチャンとは別個に、クリスチャンの外部での事柄でなく、聖霊とクリスチャン自身の思いの対立であることを、十分に自覚することです。
 従いまして、人はクリスチャンになりましても、一遍に聖化されるのではなく、生まれながらの肉の思いと性質は常にわが身にまつわりついています。しかし、聖霊に導かれているとき、そのように生まれながらの人間として持っているクリスチャンの思いを実行することはできなくなるのです。
 そういう意味で、パウロは「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことをできないのです。」と言っています。
 さらに、聖霊の導きには力がありますので、クリスチャンは自分の思いを克服し、主イエスの思いを実行するようになります。
具体的に言えば、そのとき人は肉の思いを追求することを止め、聖霊の導きを考えるようになります。そうすると肉の思いはいつの間にか消え去ります。但し、次に現れるまで当分の間は消え去っているのです。そこに聖霊が働いていると言えます。

次に、クリスチャンは肉の思いと聖霊の働きを認識し、二つの内の一つを決断することを迫られます。
二者択一の決断をすることを聖霊によって迫られるのです。これが聖霊の導きです。そのようにしてクリスチャンは聖霊の導きによって、絶えず眠れる信仰から目を覚まし、決断し、行動するのです。

従いまして、パウロはここで、肉の思いと霊の働きを5:19~22で具体的な例を挙げながら説明しています。
「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他この類です。」(5:19~20)
これらは肉の働きを網羅したのでなく、その特徴を示しているだけですが、偶像崇拝と明らかな不道徳、そして敵意、利己心と利己心によるライバル、「利己心」とは原語で「エリセイア」と言います。また「利己心によるライバル」を「エリス」と言います。新共同訳ではこれを「仲間争い」と訳しています。またそのほかに肉の働きとして妬み、自制心の欠如を挙げています。こういう点が生まれながらの人間が持っている罪の傾向です。

それに対して、聖霊の働きを次のように列挙しています。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22)
聖霊の働きの中で最大のものは愛であり、喜び、平和です。これらは人間存在そのものを生かす最も大切な霊的生命です。
寛容とはまた「忍耐」を意味しています。親切とはまた「憐み深いこと」を意味しています。善意とはまた寛大を意味しています。柔和とはまた「謙遜」を意味しています。節制とは自制と言う意味です。

 要するに、これらすべては言葉だけのことではなく、わたしたちの日常生活の態度、生き方と密接に結びついています。従って知識を持っており、立派に語ることができても、その人の態度や生き方となっていなければ、すべて空しいのです。
 また、肉の働きとは不道徳で、悪い考え方をしている特別の人間ではなく、利己的な人間を現わしていますので、これは生まれながらの人間が持っている一般的な性質です。
 聖霊の働きとは、正にそれを克服し、主イエスの思いを実行させるのです。それゆえ、人間は誰しも聖霊の導きにより、主イエスの思いを選び、主イエスの思いを自己の思いとすることによって、新しい人間として生きるのです。

(4)教会の使命
 この基本路線の上に立って、クリスチャンの実生活に関して、特に教会生活について、パウロは6:1~10で、次のように勧めています。
 ここで気づく点は、愛と言う言葉をどこにも使用していませんが、パウロは愛の実質的な行為を語っているのだと、思います。
愛の特質は第一に人を赦すことです。人は主イエスの贖いの死によって神から罪を赦されているように、人を赦すことが愛の根本的態度なのです。
 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」
 ここで、人の罪を赦すと言うことは、その人を柔和な心をもって、罪から立ち帰らせ、正しい生き方に導くことです。その際に自分は正しい者であると言う高慢な態度で教え、忠告するのでなく、謙遜な態度で教え、導かなければなりません。

 そのためには自分が聖霊を通して、主イエスと対面していることが不可欠です。主の贖いによって、神に自分の罪を赦され、神との交わりの中にあって、神の恵みを受けていることを直視し、感謝しているその思いをもって、兄弟に罪から立ち直るように勧めることが、聖霊に導かれている者の忠告です。
 同時に、神の赦しは新しい人間として生きる命を与えることであると確信していることが必要です。神の赦しは、悪から離れると言う消極的な事柄でなく、主イエスの命を受けて、神の御心を行うと言う積極的な自由を与えることであります。
それゆえ、人を正しい道に立ち帰らせる力は、どれほど信仰的で愛に満ちたクリスチャンであっても、自分の中にあるのではなく、あくまでもそれは聖霊の働きなのです。このことを確信しているならば、誤った道から兄弟を立ち直らせる聖霊の働きに、クリスチャンは奉仕することができるのです。

 次に「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6:2)
 互いに相手の重荷を担うと言うことは、いかに重要なことであるかを強調して、パウロはそうすることによって、初めてクリスチャンはキリストの律法を全うすると言っています。
このキリストの命令は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということです。
また、キリストは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と仰せられました(ヨハネによる福音書13:13:34)。
互いに重荷を担い合うとは、相手の欠点や弱さを担うということですが、その根本に隠れている人間の罪を赦しつつ、様々な短所や不足しているものを担うと言うことです。そのようにして初めてキリストの律法を実行することができるのです。

最後に、教会の目的は、キリストの福音を証し、伝道する信仰共同体を形成することです。言い換えれば、その中にキリストが臨在し、救いの業を前進させておられるキリストに仕える信仰共同体となることです。
それゆえ、パウロはガラテヤの教会員に対して、共に霊に蒔くために励もうではないか、と言っています。
「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(6:8~9)
要するに、教会に連なるクリスチャンの働きとは、主イエスの命を聖霊の働きを通して受け、善を行うことであります。
善とは神様の御心に沿った思いと態度と行為です。しかし善は決して人間の功績ではなく、人はその善によって救われるのではありません。善を行うことは、自己を誇ることや自己の功績を主張する野心から解放され、純粋に神の恵みを感謝し、主イエスの御名を賛美するために行うのです。それがクリスチャンに与えられた自由なのです。
そのためには、たゆまず、飽きずに励むことが大切です。
「たゆむ」とは原典では「エグカケオー」です。これは「落胆する」「倦みつかれる」と言う意味です。また「あきる」とは原典で「エクルオマイ」で、「諦める」と言う意味です。
クリスチャンは伝道の成果の現れるのが遅い時にも、「落胆せず」「諦めない」ことが大切です。それは正に聖霊の働きです。
そのようにして、与えられた時を無駄にせず、善を行うならば、教会形成と福音の伝道になるのです。



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