2012-07-01(Sun)

異邦人の救い 2012年7月1日の礼拝メッセージ

異邦人の救い
中山弘隆牧師

 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
ヨナ書4章6~11節


 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
エフェソの信徒への手紙2章11~22節


(1)旧約聖書における神の約束
 聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせて一つの書物となっています。
新約聖書は旧約聖書なしには存在しないし、他方また旧約聖書の約束は新約聖書において果たされていますので、旧約聖書は新約聖書を抜きにしては本当の意味を理解することはできません。
このように旧約聖書と新約聖書は互いに密接に結び付いています。他方、旧約聖書と新約聖書の間では、その内容が対立し、相反するという緊張関係を含んでいます。
先ず、両者が共通する点は、両者ともに同じ唯一の神を信じ、礼拝していることです。そして両者ともにその信仰は神の啓示に基づいていることです。
それでは旧約聖書の神の言葉と導きによって形成されたイスラエルの民の存在とその意義は何であるのでしょうか。
非常に簡略した言い方をすれば、イスラエルの民は彼らが救われていると言うのではなく、神の救いを約束されているといことです。しかも約束された救いは全人類に及ぶと言う内容です。
神は実に当初から全人類に対する救いを実現するために、イスラエルの父祖アブラハムを選び、信仰を与え、神の約束を信じて生涯を歩ませ、約束を信じて地上の旅路を終わらせられましたが、神の約束はイスラエルの民によって担われることになりました。
このイスラエルの長い歴史を通して、神は御自身がいかなる方であるかを示されたのです。神は人間と世界の創造者であり、支配者であり、審判者であり、救済者であることを示されたのです。
神は憐みに富み給う恵み深い支配者であり、神の定められた目的を人類の歴史を通して実現される全能の神であることを語り、教え、そのような方の行動を示して来られました。

アブラハムの子孫がエジプトで奴隷の身分となり、エジプトで強制労働を課せられていたとき、神はモーセを預言者として立て、イスラエルの民をエジプトの圧制から解放し、シナイ山で律法を与え、イスラエルと契約を結ばれました。
その後、イスラエルの民はヨシュアに導かれて、カナンの土地を占領して、シケムの神殿における祭儀を中心とする礼拝と軍事の二つの面での部族同盟として存続することになりました。
その後、サウルがイスラエルの初代の王となり、サウルが失脚したとき、ダビデがイスラエルの王位を継承しました。
そのようにして、イスラエルはエルサレム神殿における礼拝と律法を生活の規範とする宗教国家として発展しましたが、ソロモン王の死後、イスラエルは北と南に分裂しました。
その時代にイスラエルは世界史の激流にさらされ、アッシリア帝国により北イスラエルの首都サマリアが陥落し、北イスラエル国家は消滅しました。生き延びたユダ王国はアッシリアの侵略によって極度に疲弊しましたが、バビロン帝国の勃興によって、ついに国家として消滅するに至りました。
しかしこの未曾有の危機の時代に、神は偉大な預言者たちを送り、審判と救済の神の言葉を語り、イスラエルは悔い改めて、最早国家としてではなく、信仰共同体として存続するように命じられたのです。その中で、神は全人類に対する救いを約束する神の言葉を預言者たちによって語られました。
このイスラエルの存在は、偶像崇拝に満ちたこの世界の闇の中で、真の神の存在と神の意思を示す光となったのです。神はイスラエルに対する審判と救済を通して、ご自身が世界の歴史の唯一の支配者であることを示し、世界の民に向かって、神の意志に従った生活をするように要求されたのです。

従いまして、新約聖書の時代にはユダ国家の消滅により世界の各地へ散在して行ったユダヤ人が、自分たちの会堂を立てて礼拝を守っていました。その結果、彼らの礼拝に多くの敬虔な異邦人が参加するようになりました。
彼らはユダヤ人が唯一の神を礼拝し、道徳的な面での正しい生活をしていることに心を惹かれて、その礼拝に参加していたのです。
しかし、自分たちも割礼を受けて、ユダヤ教徒となり、ユダヤ教徒としての煩雑な戒律を守ることには同意していませんでした。
このような状況の中で、使徒パウロやその他の使徒たちは、会堂で主イエス・キリストの福音を語ったことにより、敬虔な異邦人は喜んで福音を受け入れ、洗礼を受けてキリスト教徒となりました。

(2)真の礼拝と新しい人間
次に、主イエス・キリストによる救いとは、旧約聖書で神が約束して来られました終末論的な神の救いの実現であります。
但し終末論的な救いとは、救いの完成と言う意味ではありません。
それは神の救いが今や開始され、信仰者はその実質を享受することができ、その中で救いの完成に向かう路線を歩んでいると言う意味です。従いまして、終末論的な救いの実質の特徴は、次の三つの点です。
第一点は、礼拝者が主イエス・キリストを通して、神との直接的で人格的な交わりに入れられると言うことです。
本日の聖書の箇所でありますエフェソの信徒への手紙2:18は、次のように言っています。
 「それで、このキリストによってわたしたち両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(2:18)
 ここで、キリストによって、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができると言っています。一つの霊とは「聖霊」です。
さらに、両方のものとはユダヤ人と異邦人です。これまでは旧約聖書に記された礼拝規定の律法によって、エルサレム神殿における礼拝において、異邦人はユダヤ人と差別されていました。神殿の庭には低い壁があって、異邦人はこれより中の庭に入ることはできない。もし入るならば死に値すると警告の言葉が刻まれていました。これがいわゆる「隔ての壁」です。
それにも拘らず、旧約聖書の民は礼拝に関する律法に基づいて、神殿で神を礼拝していましたが、礼拝においては、神に近づく道は未だ開かれていなかったのです。
 なぜならば、ユダヤ人が献げる犠牲の動物はユダヤ教徒に課せられた祭儀に関する様々な違反を贖うことはできましたが、神の命じられた最も大切な道徳的な律法に反する罪を贖うことができなかったからです。
それゆえ、ユダヤ人は神の御前に出て、神と出会うことはできませんでした。
さらに、エルサレム神殿の一番奥にある至聖所に年に一度だけ大祭司が入り、そこにある贖罪所に犠牲の動物の血を注ぎました。
しかし、そのことはあくまで天上における真の礼拝の象徴に過ぎず、そのものは何ら霊的効力を持っていなかったからです。
それはあくまで神の御子イエス・キリストの犠牲の死によって道徳的な面で犯したすべての罪が贖われることを象徴するものでありました。

しかし、今や神の御子である主エス・キリストの十字架の死による道徳的な罪の贖いにより、信仰によって、聖霊によって、主イエスと結ばれている者は、神に近づくことができるのです。このことこそ、神が人間に与えられた最大の恵みです。
なぜならば、死人の中から復活された主イエス・キリストは天上におられる父なる神の御前に出て、大祭司としての務めを果たしておられるからです。
礼拝者が主イエスによって、父なる神を礼拝する時に、父なる神は聖霊によって、礼拝者の内に臨在され、礼拝者は父なる神と出会い「あなたは主イエス・キリストにあってわたしの愛する子である。わたしの言葉に従って行動し、わたしの与える永遠の命に生きなさい」との御声を聞くからです。
その時、礼拝者は聖霊によって自分の思いを清められて、父なる神を「アッバ、父よ」と呼んで神に祈り、神への感謝の献身を献げるのです。

第二点は、エルサレム神殿における礼拝を規定している様々な律法とユダヤ人の生活習慣を規定した様々な律法は、主イエス・キリストによって破棄されたことです。
この律法はユダヤ教の特質を現わしていますが、それはすべてユダヤ教徒が神を礼拝するために必要な規定でした。しかし、その規定によっては、神に直接に近づくことができませんでした。
それは主イエス・キリストによる真の礼拝を象徴しているものとして意味も持っていましたが、あくまで暫定的な律法でした。
本当の礼拝が可能になった以上、最早暫定的な律法は廃止され、無効となったのです。
その結果、礼拝におけるユダヤ人と異邦人との差別はなくなり、エルサレム神殿における隔ての壁は取り去られたのです。

第三点は、主イエス・キリストによって、「一人の新しい人間」が創造されたことです。このことは、神の御子である主イエスの十字架の死による人類の罪の贖いによって、実現しました。
先ず14節は次のように言っています。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。--」(2:14)
ここで、ユダヤ人と異邦人の差別と敵意の原因となっていた律法が廃止されたことにより、両者の間に平和が到来したのです。
そして平和は単なる思想や哲学ではなく、主イエスの人格と存在そのものなのです。
「実にキリストはわたしたちの平和であります。」
これは非常に強調した言い方です。「キリスト」が「わたしたちの平和そのものである」と宣言しています。
さらに、14節はキリストが「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」された方であると言っています。
次に、15節は次の点を強調しています。
「(キリストは)規則と戒律ずくめの律法を破棄されました。」(2:15)
ここでは、キリストが旧約聖書の礼拝規則とそれと関連したユダヤ人の生活規則の律法を破棄されたことを一層明瞭に語っています。
ギリシャ語の原文では、新共同訳と違って、「こうしてキリストは双方をご自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」と言う文は16節に移しています。
そして、16節が14節と15節の宣言の「根拠と内容」を説明しているという仕方で、全体のまとまりが構成されています。
「こうして、キリストは、双方をご自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2:16)

要するにキリストの十字架の死による罪の贖いによって、ユダヤ人も異邦人も共に道徳的な面での律法に反する罪から贖われて、神との間に和解を与えられたと言うことが重要なのです。
その和解の現実の中では、最早旧約聖書に記されている礼拝に関する祭儀的な律法とユダヤ人を異邦人と区別するための割礼やその他の生活習慣に関する律法はすべて破棄されているのです。
その理由は、主イエスによって神と和解された神の民、すなわちキリスト教会は新しい人間であるからです。
聖書はここでクリスチャン一人一人を新しい人間と言わずに、神の民であるキリスト教会を「一人の新しい人間」「一つの身体」と呼んでいます。それは実に深い意味を持っています。
なぜなば、キリスト教会には一人の新しい人間がいて、教会員の一人一人がその一人の新しい人間を映し出しているからです。その一人の新しい人間とは、神の御子イエスであり、死人の中から復活して、生きて働いておられる主イエス・キリストであります。
キリスト教会の構成員は主イエス・キリストの命と思いを与えられて、神の御前に共に生きる者たちです。
そこにおいては、生まれながらの人間としての性質や行動、またユダヤ教や異教の考え方や生活の仕方がすぐには無くならず、いつまでも影響を及ぼすことはありましても、そのような考え方や行動は新しい人間には最早通用しないのです。
神は一人一人に向かって、あなたが教会に属しているならば、そのような出身地の古い影響を捨てて、教会の頭であり、新しい人間である主イエスの思いと命を現す生き方をしなさいと常に仰せになっているからです。

(3)万民の救いとしての伝道の情熱
それゆえ、キリストの贖いによって立てられたキリスト教会は、使徒たちや預言者たちを基礎とし、キリストが建物全体の要石となっておられるのです。
そして、父なる神は聖霊を通してキリスト教会全体に臨在しておられます。そういう意味で、クリスチャン全体が神の臨在される神殿なのです。またクリスチャンは神殿を構成する一つ一つの石として神殿に繰り込まれるのです。
キリスト教の伝道の情熱は、主イエスの救いが万民の救いであるゆえに、自分もその一人として救われているという確信から湧き出るのです。それが新しい人間としての教会の確信と伝道の情熱です。



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