2012-06-17(Sun)

信仰の道 2012年6月17日の礼拝メッセージ

信仰の道
中山弘隆牧師

 わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
ハバクク書2章1~4節


 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
ヨハネの手紙一 2章18~29節


(1)命を与える信仰
 本日の聖書の箇所でありますヨハネの手紙は、110年代に無名の長老によって書かれた手紙であると今日の聖書学者たちは見ています。確かに、この手紙の内容はヨハネによる福音書と同質の信仰に立っており、またこの手紙の読者たちがヨハネによる福音書の内容を知っていることを前提として書かれています。
しかし詳しくこの手紙を検討しますと、この手紙の著者はヨハネ福音書の著者と異なると考えられています。この手紙は正式の手紙の形式を採っていませんので、手紙ではなく信仰の小雑誌であり、巡回宣教師たちによって、小アジアの諸教会に直接携えられたと推定されます。そして礼拝において繰り返して読まれたものと思われます。

 当時のキリスト教会の状況は信仰の多様性と当時の世界思想と融合した教理が氾濫し、キリスト教全体の秩序が無統制の様相を呈していました。それはキリスト教を内部から変質させ、崩壊させる大きな危険をはらんでいました。
 それゆえ、キリスト教の最初からあった神の啓示に基づいた信仰と生活を守るために、一定の基準を明確にする必要があると、責任感のある指導者たちは痛感していました。この手紙はそのような指導者たちの考えを表しています。

 この手紙の著者は、1:1~3で次のように言っています。
 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、良く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。----この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。----わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
 この「命の言葉」とは、主イエス・キリストに関する「福音」を意味しています。そして、「永遠の命」とは御父と共にある神の命を意味しており、その命が「主イエス・キリストにおいて」教会に現され、今日において「クリスチャンと御父及び御子との交わり」として、教会において継続している、と言っています。
 それゆえ、自分たちは「神との交わり」を体験して、証し、伝えると言っています。
 勿論この手紙の著者は第二世代のクリスチャンたちでありますから、キリストの使徒たちのように、直接キリストを見たというのではありません。しかし、神の御子イエス・キリストとクリスチャンの生ける交わりは、使徒的な教会の中に継続して働き、クリスチャンに命を与えているのです。
 
 それはどういう仕方で継続し、働いているかと言えば、教会の礼拝において、使徒たちと同じ信仰を持つ説教者たちがキリストの福音を語り、その福音が聞かれ、信じられることによるのです。
 彼らが語るキリストの福音を通して、復活のキリストが礼拝に集まっている者たちの一人一人と出会い、キリストご自身がわたしを信じるかと、信仰を要求されるのです。
その中で、キリストがわたしはあなたたちの罪が取り去られ、あなたたちが神の御前に正しく生きるために、死にそして復活した者であると、語りかけられるのです。あなたたちの義と聖と命はわたしの中で父なる神によって創造され、そして保存されている。
それゆえ、あなたたちは古い自分を捨て、わたしの中に存在している新しい自分に生きるため、わたしを信じ、わたしに従って来なさい、とキリストが語り、招き、約束し、信仰と決断を要求されるのです。
 この復活の生けるキリストと出会い、キリストを信じることによって、人は誰でもキリストとの親しい交わりを経験し、キリストの命と神の愛に生かされ、キリストに従い、神を知る者となるのです。
 この手紙の著者は、この体験を自分たちは皆、共有しているので、キリストとの交わりこそ、人間を本当に生かす命であると身をもって証しています。
 要するに、「最初からあったもの、そして自分たちが聞いたもの、見たもの、手で触れたもの」とはキリストの使徒たちの「福音」が正しく語られ、証されるとき、そこにクリスチャンと神との交わりが創り出され、クリスチャンは永遠の命に生きると言うことです。

(2)当時の異端の特徴
 ところで、当時のキリスト教会の存続に対する脅威となっていた異端、すなわちキリストに関する間違った教えとは何であったのでしょうか。その背景となった思想は、もちろんヘレニズムと呼ばれる広範囲のギリシャ文明の一つです。しかしそれはギリシャではなく、中近東のグノーシス主義、すなわち霊的認識と呼ばれている思想です。その思想は汎神論的な考え方であり、聖書の神概念とは異なっています。

物質は神の存在そのものの放射によってできたと考えます。しかも神性の放射が長い連続的な段階を経て出て行く中で次第に薄められ、もっとも薄められた段階によって物質が出現したと考えます。そして、物質の世界は神を否定して、神から分離したと言うのです。
 また、人間の魂の起源は神であるので、魂は神的性質を持っていますが、世界において、物質の牢獄に閉じ込められており、闇の支配下にあると考えています。従って、人間の魂は光の世界から降って来て、魂を永遠の命に案内する「啓示者」によって救われると主張していました。
このような考え方が教会の中に侵入し、二つの点でキリスト教に重大な危険をもたらしました。
 一つは、この世界に対する神の主権が縮小され、歴史の中に働く神の究極的な目的が見失われたことです。
一つは、人間の魂の救いは倫理的な要素と無関係になっていることです。

このような思想的環境の中で、特にこの手紙が論駁している教えは「キリストの仮現説」と呼ばれている異端です。
それは地上に降ってきた「神的な贖い主」は肉の身体を持つところまでは自己を低めなかった、と考えています。
従って、キリストが実際に人間として生まれ、十字架について死んだ、ということを否定する教師がキリスト教会の中にいたのです。
彼らはイエスをキリストと同一視すべきではないと主張しました。なぜならば、「キリスト」の持っている「神性」はイエスの「受洗」の際にイエスの上に降った。そしてイエスが「受難する直前」に、イエスから立ち去った、と考えているからです。
彼らは神の性質を持っているキリストが苦難を経験して、死んだと言うのは、事実ではなく、ただそのようの見えただけであると主張するので、この異端は「仮現説」(ドケティズム)と呼ばれています。
教会の中におけるグノーシス的傾向を持つ者たちは、そのような詭弁を弄しないクリスチャンを軽蔑し、また自分たちは放蕩な生活をしていました。
このような異端を唱える者たちをこの手紙の著者はキリストに反対する「反キリスト」と呼んでいます。そして次のように断言しています。
「偽り者とは、イエスがメシア(キリスト)であることを否定するものでなくて、だれでありましょう。御子と御父を認めないもの、それこそ反キリストです。御子を認めない者はだれでも、御父と結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(2:22~23)
仮現説を唱える「反キリスト」者たちは、自分たちが神を見たと主張していますが、それは偽りであり、彼らは「イエスが神の御子キリストである」ことを信じないので、神との交わりを持たず、その結果として永遠の命を持っていないのです。

(3)信仰と愛
それに対して、神を知っている者、神の恵みの中で、神に従うことによって、永遠の命を体験し、喜びと確信を持って生きている者たちが誰であるかを、この手紙は積極的に言い表しています。
第一に、神を信じるとは、神の啓示を信じることです。そして神の究極的な啓示は神の御子イエス・キリストの啓示です。
なぜならば、神の御子が人間になられ、歴史の中を歩まれたことによって、神はご自身を人間に「完全」に示されたのです。

神の究極的な啓示はそれ以外には存在しないし、それ以外では不可能なのです。
さらに、神の啓示の頂点はイエス・キリストの十字架の犠牲の死による人類の罪の贖いであります。正に、このことを告げ知らせるのが使徒たちの説教であり、「キリストの福音」です。
「御父のもとにおられる弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う『いけにえ』です。」(2:2)
イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じることが、正に、神に対する信仰です。その信仰とは、「イエスがメシアである」(2:22)と告白し、認めることです。さらに、同時に信じる者に聖霊が与えられるのです。
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」(4:2)
従いまして、わたしたちに「神の御子イエス・キリストの名を信じる」(3:23)させる方は、父なる神と御子から送られる聖霊です。
聖霊の働きにより人は神の啓示を信じ、御子イエス・キリストの名を信じるのです。
実に、神の御前に立っておられるイエス・キリストの永遠の贖いによって、わたしたちの罪は赦され、神は日々新たにわたしたちと出会ってくださるのです。
信仰によって、人は誰でも神との人格的な交わりを与えられます。このことが第一の点です。

第二点は、人間とこの世界を越えて存在し、自らの目的を実現するために働いておられる目に見えない神を知るということは、教会の兄弟姉妹が神の愛をもって互いに愛し、また隣人を神の愛をもって愛することです。
「いまだかって神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、あたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(4:12~13)
ここで、「神の愛がわたしたちの内で全うされている」ということはわたしたちが互いに神の愛をもって完全に愛し合うという意味ではありません。人間は罪深い者であり、キリストの贖いによる罪の赦しを通して、愛の業を行うのです。
従いまして、不完全であっても、ともかく愛の行為を行うことによって、愛すると言うことが単なる心の思いではなく、具体的な行為となることによって、愛が「現実化する」ことが重要なのです。愛の現実化によって、聖書は神の愛がわたしたちの内で全うされていると言うのです。

(4)主イエス・キリストとの交わり
最後に、神の御子イエス・キリストを信じ、告白することは、確かに人間が信じ、認識し、決断することでありますが、同時にそれはもっと深い次元で、聖霊が人間の心の中に作り出された信仰の働きであります。信仰そのものが聖霊の働きによって成り立っているのです。
同時に、クリスチャンが神の愛を持って、互いに愛し、また隣人を愛する愛の業はクリスチャン自身の働きでありますが、同時にもっと深い次元で、聖霊によって神の愛が人間の中に働くからです。それゆえ、愛の業は聖霊の働きであります。
このような信仰と愛は、泉から水が湧き出るように、クリスチャンと神との人格的な交わりから、常に湧き出るのです。
言い換えれば、神との交わりは、聖霊を通してクリスチャンの中に父なる神と御子イエス・キリストが臨在されることです。
この現実こそ、神が人間に与えられる最大の恵みです。この恵みの中で、クリスチャンは神を「わたしたちの父よ」と呼び、祈り求め、神の御心を喜んで実行するのです。

そうすることのできる自由をクリスチャンはイエス・キリストの中に与えられています。そして、聖霊を通して、その自由を使用しながら愛の業を行うのです。
あるいはイエス・キリストの贖いによって啓示された神の愛が、聖霊を通してクリスチャンに働くので、クリスチャンは喜んで自発的に愛の業を実行するのです。
聖霊による主イエス・キリストとの交わりこそ、クリスチャンがそこに立っている神の恵みなのです。
主イエスの恵みの中で、クリスチャンは常に喜び、救いの完成を確信し、神の国に入る希望をもって、自分の人生を歩み通すのです。



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