2010-07-18(Sun)

主はわが力 2010年7月18日の礼拝メッセージ

主はわが力
中山弘隆牧師

 神よ、守ってください、あなたを避けどころとするわたしを。主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々に申します。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません。」主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16篇1~11節

 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙4章2~7節

(1)神を避けどころとする
 この詩編はイスラエルの民がバビロンに捕らえ移された時代以降につくられた詩であろうといわれておりますが、神への深い信頼を歌った詩であります。
「神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしたちを。」(1節)という言葉でこの詩は始まっています。
 これは「神様、わたしを守ってください。」という切なる祈願でありますが、そこには「わたしはあなたを避けどころとする」という神への深い信頼があります。
避けどころとは、人生の嵐が吹くときの避難場所という意味で、神のもとにあることが、人生の荒波を乗り切るために一番安全な方法であるという、神への信頼を表明したものであります。
この詩人を取りまく環境は、世界全体が大きく変わる時期であり、多くの混乱や破壊がありました。そのような時期に、自分自身の思いや力によって将来の計画を立てようとするならば、すべての事柄が不確実となり、浮き草のような頼りない生き方しかできなくなります。
しかし、この詩人は歴史を支配しておられる神に信頼して、確かさと希望ともつことができたのです。わたしたちも今日の世界を力強く生きるためには、この詩編の作者のように、神への信頼が必要であります。
 この詩人は祈りの中で、神に対してこのような讃美を献げました。「主にもうします。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません』」(2節)
 実にこの詩人は神を「わたしの主」と呼んで、神に対する信仰を告白しました。信仰とは自分の心で思っているだけでは不十分です。神様にそれを言い表すことが必要です。そして自分に対しては、神をわたしの主とするのです。このことを決断するのです。告白と決断が信仰なのです。
そこでわたしたちは「神をわたしの主」と告白する意味を深く心に感じ取ることが必要です。
 第一に、人が知らなければならないことは、神はすべてのものの創造者であり、支配者、すなわち恵み深い主権者であるということです。神は、全知であり、全能であり、唯一であります。
 古代では、多くの民族が共に生きる一つの世界をどのように形成するかが、歴史の大きな課題でありました。諸民族がそれぞれの歴史的な背景や、文化の特色を維持しながら、より高い次元で、一つであるという、共通点を見つけることが必要でした。言い換えますと、どのようにすればすべての人間が平等で自由に生きることができるかということです。
結果的に言えば、そためには、多神教ではなく、また無神論でもなく、倫理的で、霊的な一神教が必要でありました。そこでアレクサンダー大王と共に登場したのが、ギリシャ哲学の理念です。それは物質を越えた理念の実在について思索し、その根元的で、統一的な真理を神としました。そして人間の目的は、自らの理性を働かせて、真理から由来する諸々の規範を、実行するため「自己訓練」することであると言いました。そこにおいて、人間は平等であり、人間としての尊厳を持ち、広い一つの世界の中で共に生きることができると考え、ヘレニズム世界を建設致しました。
しかし、ギリシャ哲学の神は、抽象的な真理の体系であり、人格を持っていません。
第二に人間が知らなければならないことは、真の神は、唯一の神であると同時に、人格をもった神であります。すなわち何物にも左右されない自由なる意志を持って働いておられる方です。この世界を創造し、歴史を支配し、人間に目的と命とを与えている力は、ギリシャ哲学の抽象的な冷たい真理ではなく、愛に満ちた神の意志なのです。
それゆえ、神はご自身を「われ」と呼び、わたしたち人間に向かって「汝」と呼びかけられる方です。「われと汝」の人格関係の中で、神が人間の歩むべき真理の道を示されるとき、「あなたはわたしの言葉を聞き、それを実行しなさい。」と命令されるのです。そして「あなたがわたしの言葉を実行するならば、生きるであろう。」と約束されるのです。
このような神と人間との人格関係は、応答の関係です。先ず神が呼びかけてくださいます。人間はその神の呼びかけに、応答することによって、人格関係が始まるのです。神の呼びかけに対して、「はい、わたしはここにおります」と応答することから、始まるのです。神の呼びかけを聞き流して、それに応答しなければ、人間は神から切り離された自己の闇の中に止まり、不毛の人生を歩まざるを得ないのです。
 第三に、神は愛による主導権をもって、人間に出会わってくださいます。御言葉をもって語りかけ、人に御言葉について考えさせられます。そのとき人は御言葉に心を引かれながらも、まだ十分に理解できない場合、御言葉を理解させてくださいと神様に祈るならば、神は人の心に光を与え、知性を強めてくださいますので、人は御言葉を理解するようになります。同時に信仰を強め、人の意志に力を与え、希望を与え、信仰者を御言葉の実行へ導かれます。そのようにして御言葉を実行するならば、人は高められ、人生に充実感を味わい、御言葉こそ人間を生かす神様の意志と力であることを体験します。
そこに信仰者の大いなる喜びと神への感謝の念が沸き起こるのです。その結果、信仰者は神を「わたしの主」として知るのです。

(2)喜びの溢れる信仰
次ぎに、この詩人は神に対して、「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」と言っています。これは決して、現実を逃避する陰鬱な淋しさを感じるタイプの信仰ではなく、溢れ出るような豊かさと明るさを持った信仰です。別の言い方をしますと、「わたしの所有しているすべての良きものは、あなたからの賜物です。」と思うことです。
 きっと、彼は今までの生活の中で、素晴らしい体験を重ね、自分は幸福であると、しみじみ感じているのでありましょう。彼は自分の係わる人たちや事柄に関心を抱き、多くの人々と出会えたことを喜び、感謝しているのでありましょう。また、自分の思いや態度につきましても、麗しいもの、価値あるもの、善なるもの、あるいは献身的な無私なる愛が少しずつ育ってきたのは、すべて神から与えられた恵みであると自覚していたのでしょう。そのために、「わたしの所有するすべての良きものは、あなたが与えてくださったものです。」と神に向かって告白しているのです。
多分、彼は将来の人生で出会であろう様々な場面に対しても、神が自分に何かを学ばせて下さるに違いないという期待で顔を輝かしながら、希望で胸を膨らませながら、前向きに生きているのでありましょう。実に、この告白には神の恵みの豊かさが感じられます。

(3)主と対面する
次ぎに、詩人はこのように神を讃美しています。
「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭して下さいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」(7-9節)
詩人は、「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごとに諭して下さいます。」と言っていますが、彼にとって、人間に対する神の意志は、聖書の中で完全に顕わされています。聖書を読むとき、そして御言葉を心に留めて、思いめぐらし、自分の生活全体を御言葉に照らして検討するときに、主が詩人の心に語られるのです。そして彼の心を励まし、心に力を与え、御言葉に従う生活へと導かれるのです。
特に、詩人にとって夜は神の御言葉を深く想うときでありました。夜ごとに、聖書の御言葉に照らして自分の今日の行為を反省するとき、神によって自分の生き方を正されるのです。讃美歌21の6番2節で、「全能の神を賛美します。嵐と波を静めて、こころみに打ち勝つ力 与える恵みに感謝して。」と歌っています。このように聖書の御言葉を通して神と対面することが聖書の信仰です。

(4)主はわたしの右にいます
また、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」言っています。聖なる神である主は、人間の眼には見えませんが、人間が何処に行こうとも常に近くにおられます。この詩人は、主がすぐ近くにおられることを信じ、自分が主に相対していることを自覚していました。しかも、この主が創造者であり、歴史の支配者であり、審判者であり、救済者でありますので、自分を取りまく環境がどのように変化しようとも、どのような困難や試練を経て行かなくてはならないとしても、自分の立っている基盤は少しも揺らぐことがないと確信できるのです。なぜならば、主がこの詩人の右に立っておられるからです。右とは力と権威を意味します。主に対する畏敬の念を抱きつつ、なお「主こそわが力である」と告白しているのです。
今日の人間にとりまして、これはいかに必要なことでありましょうか。しかし、この唯一の神以外のものに向かって自己の安全を求めようとするとき、それが多神教の神々であったり、国家であったり、人種であったり、思想であったり、その他、この世界の中の魅力ある何かであるとしても、それらは必ず挫折と失望とをもたらします。
 この詩人は主との交わりの中で、人生を歩むときに、喜びは溢れ、平安と安全が与えられる、と言っています。「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。」と歌っています。要するに人生それ自体が歌となる、といっています。

 このような心と魂と体との全人格的な喜び、感謝、平安が人を生かすのです。今日の日本社会で残酷な犯罪が多発していますが、ごく普通の人間がそのような犯罪を犯すという点に、大きな危機を感じさせられます。それは科学や経済が発達しましても、人間として最も必要な点を見失っているからです。また犯罪だけでなく、低俗な享楽に自己満足している人たちも多くいます。その最も深い理由は、今日の人々がこの詩篇の作者が歌っている本当の喜びを知らないということだ、と思います。

(5)クリスチャンの確信
 最後に、この詩人は聖なる神を「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(5節)と歌っている意味について考えたいと思います。これは自分に与えられた財産は主である、という意味です。
 それではわたしたちクリスチャンはどうでありましょうか。わたしたちもこの詩人の主と同じ神を、「主はわたしたちの杯」と告白する者であります。そして、彼ら以上にもっと明瞭に、もっと自由に、もとっと喜びをもって、もっと誠実に告白するのです。
 その理由は、主イエス・キリストを通して、主なる神を知り、神と交わり、神に仕え、神に従うからです。主イエスこそ神の言葉であり、聖書の神の言葉はすべて、主イエスという名と人格をもっているからです。主イエスの人格を通して、神は御言葉を語られるからです。
主イエスを通して語られる神の命令は、律法学者たちが解釈している以上に、人間の心と行動の全存在に対して、神への徹底した従順と、隣人にたいして神の愛アガペーを実行することを要求します。それは主イエスの言葉と愛の行為こそ、神の人格的な意志を完全に示しているからです。
それゆえ、主イエスはわたしたちクリスチャンに、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと、思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とマタイ福音書5:17節で仰せになっています。さらに同じ箇所の20節では、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」と警告されました。

尚、旧約聖書の信仰者たちは悔い改める者の罪を神様が赦して下さると考え、そのことを頼りとしていますが、赦しの真相は未だ彼らには明らかにされていなかったからです。実に、主イエスの十字架と復活とを通して、神は人類の罪を贖い、主イエスを信じることによって、罪の赦しを与え、聖霊をわたしたちの心に与えられるのです。
聖霊によって、主イエスがわたしたち信仰者の中に働かれるのです。この聖霊を通して主イエスがわたしたちの人格と生活の中で、主権者として働かれることにより、旧約聖書の信仰者たちが言うことが、わたしたちのもとで本当の意味と実体をもつようになります。

わたしたちはパウロのように、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、最早わたしではありません。キリストがわたしの内で生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)、と告白します。実にこの事実こそ、「主はわたしの右にいます」ということ、「主こそわが力である」ということです。




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