2012-05-06(Sun)

弟子は師のようになれば十分 2012年5月6日の礼拝メッセージ

弟子は師のようになれば十分
中山弘隆牧師

 知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。「いつまで、浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを好み、愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。しかし、わたしが呼びかけても拒み、手を伸べても意に介せず、わたしの勧めをことごとくなおざりにし、懲らしめを受け入れないなら、あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い、恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い、災いがつむじ風のように起こり、苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」
箴言1章20~27節


 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
マタイによる福音書10章24~31節



(1)主イエスに従う者
わたしたちクリスチャンの生活を端的に現す言葉は何でありましょうか。それは主イエスに従う者たちの生き方であると言えます。わたしたちは人生のあるときに、主イエスに出会い、視点を変えれば主イエスがわたしたちを探し出されて、「わたしに従って来なさい」と呼びかけられましたので、それ以来主に従う者となっています。
 信仰生活の長い人生を歩まれたある方が、わたしは主に忠実でないことがしばしばある者ですが、主はわたしに対して常に忠実な方ですと言われたことは、今でもわたしの心に刻まれています。
これがわたしたちクリスチャンの共通した認識です。わたしに洗礼を授けてくださった名古屋の金城教会で50年間牧会伝道された樋田豊治牧師は、わたしは信仰の訓練を主イエスから受けて、多くのことを学んだことは何ものにも代えられない感謝です、と言われました。また、顔をほころばせ、主はこれまで多くの素晴らしいことをわたしにしてくださった。これからもどんなことをしてくださるかと思うと、胸が膨らむ思いがする、と喜びながら言われたことを今でも思い出します。

確かにクリスチャンは皆主イエスに従って自分の人生を歩んでいる者たちです。わたしたちの先に立ってわたしたちを導いておられるイエスに従い、イエスに見習っている者たちです。こういう面からすれば、「主イエスに見習う」ということが最も重要な視点になります。
プロテスタントの自由主義的神学が栄えた19世紀には、イエスは父なる神に絶対的な信頼を置き、神の愛を完全に実行された方として、イエスの信仰と愛に見習うということがクリスチャンの生き方であると、強調されました。
他方、イエスがクリスチャンの罪を贖う救い主であるという点が実践面では軽視されるか、殆ど忘れられていたことが問題であります。そこに自由主義的神学と信仰の弱点がありました。
主イエスはクリスチャンにとって見習うべき教師であると同時に、クリスチャンの罪を贖うことによって新しい命に生かす救い主です。 
キリストの使徒たちは、キリストの弟子としてキリストとの師弟関係にありましたが、同時にキリストは彼らの主であり、彼らの神でありました。この関係は師弟関係とは全く別の関係であります。

(2)特殊な師弟関係
それゆえ、主イエスとわたしたちクリスチャンの師弟関係は、一般的な師弟関係ではなく、全く特殊な関係なのです。
「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ10:24)
普通の師弟関係であれば、良くできた弟子は師にまさることがあります。「出藍の誉れ」と言う言葉がありますが、藍から採った青色は藍より青いので、師から学んだ高弟が師を越えると言う譬です。
それに対して、主イエスは「弟子は師にまさるものではなく、師のようになれば、それで十分である。」と仰せられます。
つまり弟子は師にまさることはないと言うのです。しかし、師のようになる可能性はあるのです。しかも師のようになれば十分であると言うことは、師のようになると定められているという意味です。
このような特殊な師弟関係にイエスはクリスチャンを入れて下さっております。従いまして、この特殊な師弟関係の基礎はあくまでも、クリスチャンは自分の中に主イエスの命を受け、主イエスに見習うようにされていると言うことなのです。
主イエスの贖いによって、主イエスの命がクリスチャンの中に働きますので、クリスチャンは主イエスに見習うことができるのです。
さらに、最後はクリスチャンが主イエスのようになると言うのは、クリスチャンが決して救い主となると言うことではありませんし、ましてクリスチャンが神になるということではありません。
そうではなくて、クリスチャンは最後に主イエスの性質に似る人間となると言うことです。なぜならば、その根拠は主イエスの贖いにより、すべての人間は神と和解させられていることです。そして、主イエスにあって、すべての人間は罪のない者、穢れのない者、純潔な者として神の御前に存在するからです。
この点につきましては、パウロは次のように言っています。
 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の身体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、疵のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:21~22)
 キリストにあって、クリスチャンはすでに神の御前にキリストの性質を映し出したこのような聖なる者として、存在しています。しかし、終わりの時にキリストが再び現れ、救いが完成する時、クリスチャンもそのような者としてキリストと共に現れるのです。
 この歴史の中では、クリスチャンがキリストに従うことによって、そのような自分に向かって前進して行くのです。
 
 従いまして、キリストは弟子たちにこのように仰せになりました。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい、自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)
 ここで、「自分を捨てる」ということは、新約聖書の原語では、「アパルネオマイ」となっていますが、「自分が自分の所有者、あるいは主人である」という当然の権利を放棄すると言うことなのです。
 つまり、自分の所有者は最早自分ではなく、キリストであり、自分はキリストの所有物であることを認め、承認することなのです。

従いまして彼らは皆自分の力と意志によって、自分の救いを獲得することを欲しながら、神の律法を行うユダヤ教徒たちでありました。しかし、今やキリストの弟子となり、キリストに従う以上、自分の命によってではなく、キリストの命によって、神の命令に従う人生を歩むとき、キリストの救いに入れられると言うのです。
ここにクリスチャンとキリストの師弟関係は、特殊な師弟関係であることが明らかにされています。それはユダヤ教徒が神の救いを得るためにラビ(ユダヤ教の律法学者)と師弟関係を持っているというのとは全く異なっています。

しかし、キリスト教の中にも、キリストとの師弟関係をユダヤ教のラビとの師弟関係のように誤解している人たちがいます。キリスト教の歴史の中で最も有名なグループはペラギウス主義者たちです。
西暦411年から431年まで、アウグスチヌスとペラギウス主義者たちとの間で論争が起こりました。アウグスチヌスは人間の救いはキリストの恵みによるという福音主義を主張し、ペラギウスは人間の意志の自由と努力によるという律法主義を主張しました。
ペラギウスは行動において、清潔で正しい修道僧でした。内的な激しい戦いを経ないで、道徳的な面で順調に発展し、律法的な敬虔さを獲得した人です。彼は聡明な人で、真摯な道徳的目的を持っていましたが、高い理想に対しては熱心でありませんでしたので、聖化の低い水準に達することは彼にとって困難でなかったのです。
それに対して、アウグスチヌスは空高く舞い上がる知性と灼熱の心を持った人でありましたので、情熱の波に翻弄された後に、キリストにおける魂の平和を見いだしました。罪の悲惨さを味わい、その後にキリストの贖いの栄光を味わったのです。アウグスチヌスは体験と教義において、使徒パウロに最も似ており、宗教改革者たちに対して、パウロに次いで大きな影響を与えました。
この論争は、人間の罪の理解とキリストにおける神の恵みの理解を巡ってなされました。人間の救いに関して、福音主義とキリスト教的律法主義の対決でありました。アウグスチヌスは罪に支配された人間の意志は決して自由ではないと言いました。キリストの贖いを受け、聖霊によってキリストの思いを持つことによってだけ、人間の意志は自由になると主張しました。
ペラギウス主義は、20年に及ぶ論争の末、アウグスチヌスの働きにより、異端としてキリスト教から排除されましたが、ペラギウス主義は修正された形で、その後もキリスト教に影響を及ぼしています。
要するにペラギウス主義の教義はキリストの感化と人間の意志の自由がその内容です。その際に、彼らの言うキリストの感化とは聖書の中に記録されたキリストの崇高で偉大な姿が、教師としてクリスチャンに影響を与えていることに過ぎないのです。
彼らはキリストが復活し、主となり、生ける人格として、クリスチャンに出会い、命令し、ご自身の命をクリスチャンの中に働かせることによって、クリスチャンをキリストに従うように導いておられると言う視点が全く欠落しています。

(3)主イエスの支配と導き
主イエスは今や復活して主となり、天地の支配者となり、教会の頭となり、生きて働いておられる方です。
実に、主イエスは生ける人格として、わたしたちに指示し、命令し、それを実行させられるのです。

わたしたちが主の命令を聞き、それに従い、命令を実行するときに、キリストの命がわたしたちの中に働くのですが、それはわたしたちを取り巻いている神の力強い現実です。
言い換えれば、それはわたしたちが神の子として生きる場所です。すなわち神の国です。神の国とはわたしたちの生きる場所ですが、神の支配、キリスト支配と同じことです。従いまして、パウロは次にように言っています。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(コロサイ1:13)
父なる神はキリストの贖いにより、わたしたちを罪の支配する闇から救い出し、神の御子である主イエス・キリストの支配下に移してくださったと言うのです。
どうしてでしょうか。わたしたちは罪による闇の力から解放されば、自由なる人間として、あるいは神から愛される神の子たちとして、自分一人で自由に生きて行くことができるのではないでしょうか。決してそうではありません。
わたしたちは闇の力から解放されても、これまで神の御心を自ら進んで行うと言う「本当の意味での自由」を一度も使用したことはありませんので、自分では何もできないのです。
それゆえ、キリストの支配される神の国の中に入れられることによってのみ、その自由を使用することができます。神の国とは正にわたしたちに与えられている自由を使用する場所なのです。

実に、そのような神の国は既にわたしたちを取り囲んでいます。そして、神の国の支配者であるキリストは、生けるキリストとして、日々わたしたちに出会わるとき、わたしたちを神の国に入るように指示し、案内し、誘導されます。
キリストがわたしたちの手を引いて、神の国に案内されることによって、わたしたちは神の国に入り、そこにある自由の空気を胸一杯に吸いながら、キリストの命令を実行するのです。
この「自由」とは言い換えれば「キリストの命」です。それはペラギウス主義者たちが主張する「意志の自由」ではありません。それは「キリストの思い」であり、わたしたちの中にある「キリストの働き」そのものなのです。
そのようにして、神の国でわたしたちに与えられている自由の使用の仕方が分かり、そのことに慣れ、神の国に生きる喜びを知ります。
わたしたちを既に取り巻いている神の国に入り、神の子としての自由を使用し、その勝手がわかるために、常に主イエスの指示と案内と手引きが必要なのです。否、そのような指示、案内、手引きは実は主イエスご自身です。
最後に、主イエスが弟子は師のようになれば、それで十分であると仰せられた意味は主イエスが既に実行された主イエスの体験を、わたしたちが主イエスに従うことによって追体験するということです。

わたしたちが主イエスに従って、主イエスが支配される神の国の自由を一杯吸いながら、神の命令を実行すると言うことは、実は主イエスが地上の生活の中で、神に絶対的に依存し、信頼し、従順であり、神の命令を完全に実行されたというキリストの体験を、わたしたちがそれぞれの立場と状況の中で、繰り返し、追体験することです。
そういう意味で、わたしたちは主イエスの歩まれた御足の跡を辿って行くとき、主イエスの歩まれた時代と環境の異なる現代の様々な場所で、イエスの歩みを追体験し、主イエスの歩まれた御足の跡を自分の立場で再確認するのです。
この意味で、主イエスは弟子が師のようになれば、それで十分であると仰せになりました。



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