2012-04-22(Sun)

主の霊の働き 2012年4月22日の礼拝メッセージ

主の霊の働き
中山弘隆牧師

 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる。
イザヤ書51章5~8節


 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。
使徒言行録8章26~40節


(1)散らされたクリスチャン
 福音の伝道はクリスチャンの移動に伴って行われてきました。以前わたしが8年間、牧会伝道しました東京の世田谷区にあります桜新町教会は、戦後再出発をしましたが、最初の伝道は大正時代におこなわれました。
青山女学院の教師をしておられました工藤秀逸さんが、当時は駒沢村字深沢と呼ばれていた場所に、ご自宅を新築し転居して来られたのが、きっかけとなりその地で伝道が始ったのです。
 工藤さんは熱心なクリスチャンで、ご自宅を開放し、青山学院神学部より神学生に来てもらい、先ず近所の子供たちを集めて、日曜学校が開かれました。
当時は日本基督教団がまだ設立されていない時代で、各教派に分かれていましたが、桜新町教会はメソジスト教会との関係で、まもなく牧師を招き、近くに住むクリスチャンが集まり、大人の礼拝が始まりました。また、ご夫妻には子どもがありませんでしたので、土地と建物を教会に献げられたのです。戦後古い家を壊して教会らしい建物となりましたが、戦時中の幾多の変遷を経験しならが、教会が形成されてきました。
このように、福音はクリスチャンの移動に伴って広められて来ました。使徒言行録8章4節以下で、聖書はこのように言っています。
「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」
このきっかけとなった事件は、エルサレム教会に対するユダヤ教当局による迫害でした。クリスチャンは迫害のためにエルサレムを去ることを余儀なくされましたが、その事態を前向きに受け取り、行く先々で福音を語ったのです。
クリスチャンにとりまして、一番大切なことは自分たちが生かされているキリストの福音でありますから、どのような状況の中でもクリスチャンは福音を語らざるを得ないのです。
クリスチャンの移動は迫害によるにしても、或いは個人的な都合によるにしても、それらはすべて伝道のチャンスとなります。これらのことを考えますと、物事の深い次元では聖霊がクリスチャンを導き、行く先々で福音を語らせられるのだ、と言えます。
    
(2)サマリアの伝道
当時そのような人々の中でも、フィリポは伝道の新しい局面を開きました。
それまでクリスチャンはユダヤ人だけにキリストの福音を語っていたのですが、フィリポが初めてサマリア人にも伝道したのです。
確かにサマリア人は、完全な異教徒ではなく、ユダヤ教徒と異教徒との中間に位置する民族でした。大局的に言えば、彼らは聖書の信仰の継承者でした。彼らは父なる神ヤーウェを礼拝し、安息日を守り、割礼を受けていました。
しかし、旧約聖書の中で、いわゆるモーセ五書と呼ばれている創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを正典として受け入れており、その他の文書は聖書として認めていませんでした。
さらに民族としてはユダヤ人と他の諸民族との混血民族でありましたので、ユダヤ人から軽蔑され、嫌われていたのです。
このようなサマリア人に対して、イエスは深い同情と関心を寄せ、彼らにも神の国の福音を語られました。さらにイエスの譬え話の中には、善きサマリア人の話が出てきます。これらのことを考えますと、イエスはつねにサマリア人を受け入れておられたことが分かります。
しかし、イエスの地上での伝道の期間は限られていましたので、イエスの伝道の対象はあくまでユダヤ人であり、彼らが悔い改めて神に立ち帰ることを最優先されました。それでもイエスはすべての民族を同じ愛と憐みをもって、深く心に留めておられました。
今や、フィリポはこのイエスの思いを抱いてサマリア人に福音を伝道したのです。
ペンテコステを体験したキリストの使徒たちとその代表でありましたペトロは、復活の主イエスが彼らの中に働いておられますので、ユダヤ教当局の尋問に対して、主イエスこそユダヤ人の待ち望んでいる救い主・キリストであると確信をもって答えています。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない。」(使徒言行録4:12)

しかしユダヤ教の当局者たちが、「イエスの名」によって今後は教えてはならないと厳しく命じ、福音宣教を禁止しました。しかし使徒たちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」(4:19)とその命令を拒否しました。
「イエスの名」とは、ただの名称ではありません。それは神が人間の内に臨在し、救いの業を実行しておられる神の働きそのものを示しています。それゆえ、この神の働きに直面して、信仰の応答をする者は救われ、信じない者は救われないというのが人間に対する神の定めなのです。
フィリポはこの確信をもって、サマリアの人たちにイエスの名を語りました。それに対してサマリア人は「イエスは主である」と告白したのです。
「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」(8:12)

またこのとき、フィリポを通して力ある癒しの業が行われたと使徒言行録は伝えています。
「実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。」(8:7)
このような癒しが行われたのは、決してフィリポの力によるのではなく、フィリポの語った主イエスを信じた者の中に、主イエスが働かれたからです。つまり、それまでその人の心身に様々な害を及ぼしていた罪の影響から解放され、心に平安と活力とが与えられたことにより、その人の心身が正常な状態に復帰したのです。
この点が魔術とは根本的に異なっています。魔術とは利己的な目的で、物事の自然な過程を自己の知恵とごまかしにより、支配し変化させようという試みです。
それに対して、キリストの福音がもたらす奇跡とは、キリストが信じる者の中に臨在されることにより、人々の生活が変えられ、諸々の恐れが取り去られ、障害が除去され、利己主義が制御され、身体的な歪が霊的な成長に伴って緩和されることなのです。
奇跡とは人間が神の意志に身を委ねることにより起こります。フィリポは自分の名誉ではなく、神の栄光が現れるように、神の僕の務めを果たすことに徹したのです。
このことにより、フィリポを通して神の力が働きました。魔術師シモンはフィリポが奇跡を行うのを見て、自分の魔術をはるかに凌ぐ神の力が働いているのを見て驚き、彼も洗礼を受けました。

このようにフィリポの宣教の結果、サマリアの町は喜びに満たされました。「町の人々は大変喜んだ。」(8:8)と書いてあります。
福音は人々を罪と悪の諸々の霊力から解き放つために喜びをもたらすのです。また、福音の教えが人々に訓練を命じる場合にも、その訓練は真の自由が得られる手段として、喜んで受け止められます。なぜなら、そこに聖霊が働くからです。

(3)聖霊の働き
次に、聖霊はフィリポに次の任務を命じました。
「さて、主の天使はフィリポに、『ここを立って南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け。』と言った。そこは寂しい道である。」(8:26)
ここでは「主の天使」が言ったとありますが、これは「主の霊」、または「聖霊」を意味しています。
そこは極めて人通りの少ない寂しい道でありましたが、フィリポは躊躇することなく、「すぐ出かけて行った」のです。聖霊が彼に語りかけたので、彼は内的な促し、衝動を感じたでありましょう。しかし信仰者にとって注目すべきことは、彼がそれに応答して直ちに行動したことです。
人は聖霊による内的な促しを感じながらも、自分にはそれはできないという不安から、実行を躊躇しがちです。あるいは聖霊の力が満ちるまで待たなければならないと考えるかもしれません。だがそれは神の命令から逃れようとすることです。
自分にできなくても、神の命令であると思うときには、決断し実行することが聖霊の働きなのです。
フィリポはその結果一人の人に出会いました。
「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」(8:27~28)
ここには聖霊の不思議な導きがあります。フィリポが聖霊の促しに答えて寂しい道を下ってきたために、女王カンダケの高官と出会うことができました。
彼はエチオピア人でしたが、ユダヤ教徒となり、巡礼でエルサレムに来て、今帰る途中でありました。しかも、「彼は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していました。」
その時、聖霊は「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じられたので、馬車に走り寄りました。すると、預言者イザヤの書を朗読している声が聞こえたのです。彼は直ちに呼びかけました。
「読んでいることがお分かりになりますか。」
これは全く劇的な出会いです。神様が彼らを出会わせてくださったと言うより他はありません。そして彼らの会話は極めて率直です。しかも自分たちにとって一番大切なことを短い言葉で対話することができています。
宦官は、「手引きしてくれる人がなければどうしてわかりましょうか」と言い、早速馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました。
さらに驚くべきことは、宦官が読んでいたのは、旧約聖書のイザヤ書53:7~8の御言葉でした。
イエスは十字架の死を遂げる前から、自分に与えられた救い主の使命は人類の罪を贖うために、自己の命を犠牲として献げることであるという明確な認識を持っておられました。それだけでなくこの聖書の箇所をイエスは、御自分の自覚を確証するものとして重要視されていたのです。
そしてイエスの十字架の死と復活の後、キリスト教会が十字架の意味を理解する上で、この聖句は非常に重要な指針となりました。いわゆるキリスト証言句の中でも中心的な聖句です。
しかも、この聖句をカンダケの高官が読んでいたのです。そしてこの苦難の預言は一体誰のことを指しているのかと、フィリポに質問しました。
フィリポは、おもむろに口を開き、この預言は主イエスの苦難を預言していることを語りました。主イエスは人類の罪を贖い、救うために十字架の苦難を受けられたことを語ったのです。
この宦官は神を知り、人間の正しい生き方をするためにユダヤ教を信じていた人です。
確かに、ユダヤ人が正典としている旧約聖書には神が天地万物の創造者であり、人間の歴史の支配者であり、審判者であり、救済者であることが書かれています。人間は神を信じ、神を礼拝し、神に従うことによって、神の祝福を受ける正しい生き方ができると書いてあります。さらに人間が守り従うべき神の戒めが書いてあります。これらのことすべてをこの宦官は信じて実践していました。
しかし旧約聖書の中には、人間の救いの必要性と救いの約束が与えられていますが、救いはまだ到来していません。
エルサレムの神殿では、イスラエルの民の罪を贖う儀式が行われていましたが、それは民の罪が贖われることの象徴であり、その儀式によってはまだ罪が贖われないことが示されていました。
それゆえ、神殿の礼拝に参加していたイザヤが預言者として立てられた時の召命は、特別な赦しに基づくものです。
彼は神殿において、神の栄光を仰ぎ見ることができたその瞬間、「災いだ。わたしは滅ぼされる。汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)と恐怖の叫びを上げています。
しかし神は彼に特別の赦しを与え、神との人格的な交わりに入れ、神の言葉を語らせられたのです。イザヤの先駆者であるアモス以来、巨星のように出現した預言者たちは、あくまでも例外的な方法で神から罪を赦され、神の言葉を語った人たちです。
従いまして、本格的に与えられる救いとは人間の罪が贖われて、人間が神の御前に立ち、神ご自身の働きを心の中に直接受けることであります。
今や神の救いは主イエスの十字架の死と復活の中で実現したのです。そして主イエスの福音が神の究極的な言葉として宣教されたのです。 
そのことによって主イエスの命に生かされる信仰共同体が出現し、信仰共同体を通して、神の救いが開始されました。
このことをフィリポは語りました。するとエチオピアの高官は、主イエスを信じて、洗礼を受けました。ここに、聖霊が働いたのです。
福音の伝道は、一方でペンテコステの日のように、一度に多くの人々の魂を捕らえ、主イエスに対する信仰を起させることもあります。他方では、このように一人の魂を追い求め、その人を主イエスの救いへと導きます。
しかし多くの場合、クリスチャンに課せられた使命は、自分の周囲にいる一人一人が救われるために祈り、福音を語ることです。それは主イエス・キリストが一人一人の魂を追い求めておられるからです。 
キリストの愛と思いをわたしたちが自分の思いとするならば、周囲の人々の救いを自分自身の救いのように感じ、その人のために祈りながら、福音を語ります。それが聖霊の働きであります。



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