2012-04-01(Sun)

十字架上のキリストの祈り 2012年4月1日の礼拝メッセージ

十字架上のキリストの祈り
中山弘隆牧師

 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。
イザヤ書53章11~12節


 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカによる福音書23章32~43節


(1)十字架に付けられたメシア
 本日は棕櫚の主日とよばれていますが、それは主イエスが子ロバにまたがってエルサレムに入場された時、民衆が自分たちの服や棕櫚の枝を道に敷いてイエスを歓迎したことに因んでいます。今日でも棕櫚の枝は「勝利を象徴する」ものとして用いられています。それゆえ、棕櫚の主日の出来事はイエスがメシアとしてエルサレムに入場されたことを象徴しています。
そして今週の金曜日に、イエスは「されこうべ」という意味の「ゴルゴダ」の丘で、十字架に付けられました。ルカによる福音書23:33に次のように記されています。
 「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」
 このようにイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。それはイエスが罪なき神の御子でありましたが、罪人と自己を連帯化させ、罪人の代表として、十字架につけられたことを象徴しています。
 次に、38節では、「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」とあります。これは十字架につけられた理由を示す罪状書きです。
 まさに、イエスはユダヤ人の王として、メシアとして、さらに全人類の救い主として、十字架につけられたことを意味しています。この罪状書きの意味を人々がどのように受け取るかは別にして、イエス・キリストは歴史の事実として、十字架につけられたことを証言しています。
実に、イエス・キリストを通して現れた神の究極的な啓示と救いが、歴史の中での客観的な出来事と堅く結びついているという点が、キリスト教信仰の強みなのです。
それは単なる教えや特殊な人間の体験ではなく、人間を根本から変革し、救う普遍的な出来事であるからです。
 ローマ人はイエスを政治的なメシアと考え、ローマに反乱を起こそうとした危険人物とみなして、処刑しました。他方ユダヤ人はイエスがメシアと呼ばれることに猛反対し、彼らはイエスをメシアと自称する偽者メシアとして、処刑しました。いずれにせよ、イエスはメシアとして処刑されたのです。
実に、イエスの十字架はメシアの十字架として、世界の歴史の中心に立っています。人類の歴史の中心にイエスの十字架が立っているゆえに、人類は最早神から離れては存在しえないことを表しているのです。

(2)十字架の屈辱
それでは人々は十字架のイエスに対してどのような態度を取ったでありましょうか。彼らはみな異口同音にイエスの無力な姿を見て、イエスを軽蔑し侮辱しました。ユダヤ人社会で最高の権力を握っているサンヘドリンと呼ばれる70人議会の議員たちは、次にように嘲笑いしました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
彼らにとっては、自分を救う力のない者が神の選ばれたメシアであるはずがないのです。イエスは神の権威をもって神の国を宣教し、罪の赦しを語り、病に苦しむ者を癒したが、十字架につけられたことによって、最後にイエスがメイアでないことが判明した。結局、イエスは偽メシアなのだ、と言ってイエスを嘲笑ったのです。
またこの思いはローマ人にとっても同じです。さらにすべての人間は、自分を救う力のある者だけが救い主になる資格があると考えています。十字架の上で、自分の無力をさらけ出した者を救い主と宣伝することは、人類を侮辱することも甚だしいと憤激する人たちいます。
しかし、無力なイエスの姿を目の前にして、彼らが考え、口にした言葉と彼らの態度が、彼らが神の前に罪深い者、傲慢な者、無知な者、それゆえに非人間的な者であることを暴露しているのです。イエスを侮辱することによって、自らの罪を暴露しているのです。

ところで、最初の十字架の刑を考案したものはカルタゴ人であります。ローマ人はその処刑方法をカルタゴ人から受け継ぎました。十字架の刑こそ、歴史上に現れた最大の侮辱を与える刑罰でした。
それは伸ばした両腕を厚さ10センチ、幅20センチの横板に釘付けし、これを地面から垂直に立てた柱に縛り付けるのです。そして裸の身体がずり落ちないように、二股のところに当たる小さな支えが付けられ、足は柱に釘付けされました。
処刑される者は、出血多量で死ぬのではなく、緩やかに進行する衰弱の結果として死に至るのです。これは残酷な刑罰ですが、むしろ侮辱を与えるに最たるものなのです。
このようにイエスは最大の屈辱を受け、人類の救い主として人間の最も低い場所に身を置かれたのです。

(3)神の愛
しかし、イエスは十字架の上で、わたしたちすべての者のために祈ってくださいました。
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分で何をしているのか知らないのです。」(23:34)
ここに、神の御子の最も尊い姿があります。イエスは自分を十字架につけたローマの兵隊が赦されるために祈られたのでしょうか。それとも自分に反対し、侮辱しているユダヤ人の指導者たちのために祈られたのでしょうか。そうではありません。イエスは例外なくすべての人間のために祈られたのです。実にわたしたち一人一人のために祈ってくださったのです。
罪の全くないイエスが自分に敵対する者たちのために執り成しの祈りをされたと言うことを真剣に思うならば、わたしたち人間の内でイエスのように祈る人が果たしているでしょうか。
----誰一人としてイエスのように祈る人はいません。それゆえ、イエスこそ隠れた神である、イエスの祈りの中に神の無限の愛が現れている、とわたしたちは思うのです。
また、自分は神を知らず、彷徨い続け、罪を重ねてきた者であるが、このようなわたしをイエスは愛し、祈ってくださったのだ。ここに神の愛がある。このことによって罪深いわたしたちが赦され、神から受け入れたのだ、と言う信仰と信頼が芽生えるのです。
人は誰でもイエスの十字架の犠牲と祈りの中で示された神の愛を悟るとき、生ける神と出会ったのです。そしてイエスが神の御子であると信じられるのです。

ここで、イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪者のうち、一人が悔い改め、悔い改めないもう一人の犯罪者に向かって次のように言いました。
「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(23:40)
自暴自棄に陥って神も仏もある者かと思う者は、イエスの十字架には無関心であります。しかし、わたしたちは人間としての責任を真面目に考えるならば、そうは行きません。わたしたちは悔い改めた一人の犯罪者と同じ気持ちにならざるを得ません。
ここに罪の全くない方が、罪の結果である死と言う刑罰を受けておられることに対して、これはただ事ではないと気づき、畏敬の念に打たれるのです。ここに自分の人生にとって一番重大なことが起こっているという予感と恐れを抱くのです。
神は天地万物の支配者であり、人間の罪と不正を罰せられる方である。しかし、同時に神はイエスによって罪人と共にいてくださる無限に憐み深い神であると、直観するのです。それはイエスがご自分の罪のために罰せられたのではなく、わたしたちの罪を背負ってくださった結果、罰せられたことが分かるからです。

わたしたちはこれまで幸いにも刑法上の犯行を犯すと言う危険から守られて過ごしてきましたので、処刑されることはありませんでした。しかし、わたしたちの生活の表も裏も知り、わたしたちの人生全体を見通しておられる神の御前では、わたしたちは深刻な罪人です。高慢と無知、不信仰と感謝のないこと、冷淡と貪欲、怠慢と不正の日々を過ごしてきた者です。神の御前でその責任を問われるならば、死ぬより他はありません。正にその死をイエスはわたしたちのために引き受けて下さっているのです。

しかし、イエスがわたしたちの全責任を担い、わたしたちの罪のために死んでくださったことは、それ以上の理由によるのです。それは第一義的に神の意志によることです。神とわたしたちとの関係を正しくし、永遠に正しい関係として設立することを欲せられたのは神です。この神からすべてのことが出ているのです。
これまで神は人間の罪を見過ごしにして来られましたが、それは神の忍耐によるものでした。今や神が人間との正しい関係を樹立するためには、神の正しい仕方で、人間の罪が処理されなければならなかったのです。そのために、神の御子が十字架上で人間の罪のために死ぬ必要がありました。
このことは、神の御子であるイエスの犠牲の死がなぜ神の愛の啓示なのかということと密接に結びついています。
この点につきまして、パウロはローマの信徒への手紙3:25~26で次のように語っています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
ここで、神はこれまで人間の罪を見逃し、忍耐をもって罪人を罰せずに放任して来られました。しかし今やキリストの犠牲の中で、人間の罪を裁かれ、神の正しさを貫徹されたのです。
同時にキリストにおいて、正しい新しい人間を創造されることによって、人間を神の御前に正しい者として宣言されました。
実に人間に対する神の義の貫徹によって、神の御前に生きる正しい人間がキリストの中で創造されたのです。このことこそ、人間に対する神の愛であり、熱い愛の行為による神の最終決定なのです。
従いまして、キリストは神の目的を実現するために、人類の罪を担い、人類の代表として、神の前に人間の罪を告白し、神の裁きに徹底的した従順を献げられたのです。
このことによって、神はキリストを通して人類の罪を贖い、人間に義と自由を与え、人間を神との人格的な交わりの中で、永遠に生きる者とされました。
言い換えれば人間を神の子として採用し、神の子の従順と自由を人間に授与されたのです。実に、永遠に変わらない神と人間との人格的関係を創設するために、神は御子イエスにおいて、ご自身を投入されました。ここに神の無限の愛が働いています。

(4)永遠の贖い
悔い改めた一人の犯罪者は、十字架上のイエスに懇願しました。
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」(23:42)
明らかに彼はイエスを人類の救い主であると信じ、イエスの支配される御国こそ、永遠の国であると思いました。彼は自分がイエスによって覚えられる時、永遠の国に生きることができると信じたのです。
さらに、彼に与えられたイエスの答えは実に驚くべき内容です。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(23:43)
これはどういう意味でありましょうか。あなたは遠い将来ではなく、今日、ここで、この瞬間に、わたしと一緒に永遠の国に入るという意味です。
言い換えれば、永遠の神の国は、イエスの十字架によって建設された、樹立された、イエスの十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う永遠の効力を持っている、という意味です。
イエスは死において、わたしたちのためにご自身を与え、神の御心に完全に従われたのです。そのことこそ死ではなく、新しい命の泉なのです。
使徒たちが宣教した福音は、十字架について死に、死人の中から復活された生ける人格である主イエスの御名を語るものです。
イエスの生ける人格はわたしたちが地上においても天上においても寄り頼むべき千歳の岩です。そしてイエスの十字架の死こそ、わたしたちを新しく生かす命の泉です。永遠に涸れることのない命の泉なのです。



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