2010-07-11(Sun)

神に哀願する魂 2010年7月11日礼拝メッセージ

神に哀願する魂
中山弘隆牧師
 
 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。主よ思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと。主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り、子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し、恥を受けることのないようにしてください。あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。神よ、イスラエルを、すべての苦難から贖ってください。
詩編25篇1~22節


 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書5章1~12節

(1)詩篇の種類
 本日の詩篇25編は、個人による哀願の詩篇であると見られています。詩篇は全部で150編ありますが、色々な種類の詩篇が含まれており、今日では、おおよそ5種類の詩篇が収録されていると言われています。
第一は、神への賛美の詩篇です。これは神殿における礼拝で使用された合唱の歌コラールです。
第二は、共同体の嘆きの歌です。国民的な災難から救われることを願う詩篇です。
第三は、ユダヤの王のための詩篇です。
第四は、個人の嘆きの歌です。種々の試練からの救出を祈願する詩篇です。この種類の詩篇が最も一般的な詩篇であります。  
第五は、個人の感謝の歌です。これは神殿の礼拝の中で用いられました。
その他は、小数の雑多な詩篇です。例えば、終末の時に神が全世界、全宇宙の王の座に着かれることを告白する詩篇、また信仰の確信を表明した詩篇、さらに神殿の儀式用に作られた詩篇などです。
 この25編の詩篇は、困難に直面して苦悩している詩人が、罪の赦しと苦悩の中から救出されることを祈る内容です。詩篇の分類から見れば、この詩篇は第四類型に属している個人の嘆きの歌です。

(2)信仰の告白
 この詩篇は各行の始めがヘブル語のアルファベットに従って造られている技巧的な構造になっています。従いまして、この詩篇の最初の部分で、括弧の中に「アルファベットによる詩」と説明が付いています。イスラエル民族がバビロン捕囚から帰還した以後の時代には、このような形式を取った詩篇が多いと、言われています。従いまして形式による制約がありましても、罪の赦しを哀願するこの祈りは先ず信仰の告白から始まっていることが、非常に重要です。1~4節で次のように言っています。
 「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることとのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。」
 この詩篇の作者は、神がわたしの救い主である、という揺るがない信仰を持っています。神に対して、「わたしの神よ」と呼びかけています。5節では、「わたしを救ってくださる神」と信仰を言い表しています。
聖書の神に対する信仰は、わたしたちが神を求める前に、神がわたしたちを愛し、わたしたちを知り、わたしたちを罪と悲惨から救う方として、ご自身を現されたことから始まっています。その神の救いの行為に対する応答として、信仰が与えられているのです。この詩人は信仰に堅く立って、「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望みます。」と呼びかけています。
 そこにおいて、わたしたちの心を神に向かって高く上げなければなりません。祈りとはわたしたちの心を神の御前にまで高く上げることです。讃美歌21の18番は、「心をたかくあげよう」という主題の讃美歌です。1節では、「こころを高くあげよう!主のみ声にしたがい、ただ主のみを見上げて、心を高く、あげよう」と歌っています。この詩人が「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」と言っているのは、18番の讃美歌のように、「ただ主のみを見上げて、心を高く、あげる」ということなのです。
 同時に、祈るわたしたちは、自分自身を神に示すことが必要です。祈りとはわたしたちの心の思いをすべて神に申し上げることです。神の御前でわたしたちの魂の覆いを取り去ることです。そうするならば、わたしたちは自分が何者であるかが認識できるのです。その結果、わたしたちは一層真剣に祈願するようになります。
 ここで、詩人を悩ませている敵とは具体的に何を指しているかは、明瞭ではありません。多分、窮地にある彼に対して悪意をもって一層苦しめてやろうとしている者、そして自分は義人であると自負している高慢な者を意味しているのではないか、と思われます。しかし、この詩人は自分が窮地に陥り、災いを受けているのは、彼らの仕業ではなく、実に自分自身の罪に対する神の罰として、この災難が自分に臨んでいることを、痛切に認識しているのです。
 それゆえに、彼は真剣に神に罪の赦しを哀願しています。このことは、7節でよく表されています。
 「わたしの若いときの罪と背きを思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。」
 ここで、詩人は自分の罪を、神の律法に違反したこととして考えています。自分が若いときは律法に対する理解が足らず、律法を無視して来た点が多々あった、と反省しています。そして過去における律法に違反した生活が、今日の彼を窮地に陥れている原因である、という認識です。このことを自覚して、彼はひたすら神に赦しを求めているのです。
 神様に向かって、「わたしの若いときの罪と背きを思い起こさないでください」とは、神様に若いときの罪を赦してくださいという意味です。なぜならば、赦されるということは、神の御前で彼の罪が取り去られることに他ならないからです。
 そして、罪の赦しを求める根拠は、ひたすら神ご自身の性質にあります。7節の後半でこのように告白しています。
 「慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。」
 また、11節で、次のように告白しています。
 「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。」
 つまり、これは神ご自身は慈しみ深い方である、絶対的な愛をもって罪人に対面し、罪人を赦す方である、という告白です。この性質の神ご自身が、詩人にとって罪の赦しを祈願することのできる唯一の根拠なのです。それ以外には何の根拠もありません。そして、神こそ赦しの永遠の根拠なのです。その神ご自身に依り頼んで、自己の罪の赦しを祈願しています。
 さらに、ここで神様が罪の赦しを与えられることは、罪の罰が取り去れれるというだけでなく、再生の道があたえられるというより積極的な意味があります。それゆえに、祈りは持続した祈りでなければなりません。この点につきまして、この詩人は15節で次のように言っています。
 「わたしはいつも主に目を注いでいます。」
 この告白は、彼が常に祈り続けていることを現しています。主イエスも続けて祈ることの必要を教えられました。ルカによる福音書18:1で、イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、「やもめと裁判官」の譬えをされた、と書いてあります。そして18:7節で、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか。」と仰いました。ここで裁きとは、貧しい者を悪の抑圧から救出するために下される神の判決であります。
 
(3)福音的な信仰
 次に、11節で詩人は次のように告白しています。
 「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。」
 ここで、詩人は自分の若いときの律法に違反した罪の自覚をはるかに超えて、「罪深いわたしをお赦しください」と哀願しています。
それは律法に違反した個別の行為ではなく、それらを通して現されているもっと内面的な、道徳的、人格的な罪意識によるのです。神の御前に自分は罪深い人間である、と言う自覚です。神の愛、神の恵みに心から感謝して、応答しようとしない罪深い人間、言い換えれば、高慢で利己的な自分の姿を直視していることから生じる自覚です。そして自分は神の真実を知らない人間であるという自覚です。ここに律法主義の水準を超えた、福音的な信仰が芽生えています。
 主イエスは、神殿の前で徴税人とファリサイ派の人が並んで祈ったという譬え話をしておられます。この譬え話もルカによる福音書18:9~14にあります。自己の罪は自分の善行で償うことが出来ないほど大きいことを知り、ひたすら神の憐れみと真実によってのみ、赦されることを願った徴税人の姿を、イエスは次にように表現されました。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようとはぜず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。そしてイエスは仰せられました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(18:14)
 この詩人もそのような罪人として、赦されました。
 「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。」
これはただひたすら神にのみ依り頼んで罪の赦しを哀願する心の叫びです。しかし、正にこの祈りは聞き上げられたのです。それは神様の心の中心に、憐れみを喜ぶ意志が働いているからです。神様の正義の中心に憐れみが働いているからです。
 次に、ここから詩人は神を賛美しています。8~9でこのように賛美しています。
 「神は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示して下さいます。
裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えて下さいます。」
 この詩人は、神様が自分の罪を赦して下さったことを知り、神を賛美しています。罪を赦されたことは、罪人に神の道を示し、主の道に導かれることに他ならないのです。このことを詩人は体験し、神を賛美しているのです。
 新共同訳では、「神は恵み深く正しくいまし」という文と「罪人に道を示して下さいます」という文は並列されています。しかし、この二つの文の間に「それゆえ」という接続の言葉が口語訳では入っています。
「主は恵み深く、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪人に教え、へりくだる者に公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。」
これは原典のヘブル語でも、また七十人訳のギリシャ語でも、「それゆえに」という接続詞が記入されています。聖書の内容から言えば、非常に大切な言葉です。要するに、神が恵み深く、正しい方であるから、罪人に歩むべき道を教え、導かれるのです。わたしたちは祈るときに、神様はご自身の人格的な、霊的な、威力をもって、わたしたちに対面しておられるのです。そして聖書の御言葉をもって、ご自身がわたしたちの心中に臨在され、わたしたちを教え、導かれるのです。
 それゆえに、神様正しい生き方を律法の中に示し、それを行うように命じられるのです。そのとき、神様はわたしたちの意志と理性によって、律法を実行することを命じられるだけではなく、それと同時に神様が律法の命令を実行する霊的な力と認識を与えてくださるのです。さらにわたしたちの中に働く、霊的な力と認識は、実は神様ご自身の働きなのです。神様ご自身が、わたしたち人間の中に、しかも、神様が神として働いてくださるのです。正に、このことが神は恵み深くかつ正しい方であるという信仰告白です。
 なお、詩人にとって、このことは心からの願いなのです。4~5節はその祈りの言葉です。
 「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。」(25:4~5)
 神様の与えられたモーセの律法の中に神に従う道が示され、わたしたちがそれを行うように神様が命じられました。詩人はこのことを十分に心得ていましても、まだそれだけでは不十分だと気づいています。どうしても神様ご自身に教えられ、導かれることが必要でありますので、「あなたのまことにわたしを導いてください」と祈り求めているのです。
神の「まこと」とは、生ける人格としての神様ご自身です。わたしたちと対面し、わたしたちの人格の中に、御言葉をとおして、ご自身がはたらいてくださる生ける神様の現実を示して下さい、という心の底からの願いなのです。なぜならば生ける神様の現実こそ、わたしたちが神の御心に従うことを可能にするからです。しかし、このことが本当に事実となりましたのは、神の御子である主イエス・キリストの到来によってであります。
主イエスの愛、無私なる態度、一点の汚れもない清い人格をわたしたちが想起するとき、わたしたちの心が神の光で照らされるのです。そして、主イエスの行動と考え方、心の思いをわたしたちが常に自分の心に抱くとき、主イエスが神としての力と霊的生命をわたしたちの中に注入してくださいます。それによって、わたしたちが喜んで神に従うようにしてくださいます。
従いまして、この詩篇の祈りは、究極的に、神様が主イエスを通して聞き上げてくださったのです。




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