2012-03-25(Sun)

神との対話 2012年3月25日の礼拝メッセージ

神との対話
中山弘隆牧師

 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
出エジプト記19章16~19節


 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
ヨハネによる福音書12章20~33節




(1)異邦人が神に近づく時の到来
 今朝の聖書の箇所には、過ぎ越しの祭り集まってきた巡礼者の中に、ギリシャ人たちがいて、「イエスにお目にかかりたい」と申し出たと書いてあります。
 「さて、祭りのとき礼拝をするためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」(12:20~21)
 彼らはギリシャ人でありますので、普段はユダヤ教の会堂に出席し、唯一の真の神を礼拝していた人たちでありますが、割礼を受けてユダヤ教徒にはなっていない人たちです。
彼らがエルサレム神殿で行われる過ぎ越しの祭りの礼拝に参加するときに、異邦人の庭に入ってその礼拝を守りました。エルサレムの神殿における礼拝は、過ぎ越しの祭りの場合に、大祭司が神殿の中に入り、しかも、神殿の至聖所に入る特別の礼拝が行われました。
一般のユダヤ教徒は神殿の前の庭に立って、神殿の中で行われる礼拝を見守っていました。そして大祭司が至聖所の中から出て来て、祝福を与えるのを待っていたのです。
その神殿の庭は内側の庭と外側の庭があり、ユダヤ教徒は内部の庭に入り、ユダヤ教徒でない神を信じている異邦人は外部の庭に入りました。そこには内部の庭と外部の庭との間に低い壁があり、壁に異邦人は内部の庭に入ることを禁じると言う警告文が記されていました。
このような状況はユダヤ教の時代における神の啓示と救いは、確かに神が与えられたので、霊的な意味を持っていたのですが、しかし神の究極的な啓示と救いはまだ到来していないことを示しています。
 それに対して、主イエスの神の国の宣教活動は、主イエスを通して、神の究極的な啓示が与えられ、主イエスが宣言される罪の赦しを通して神が臨在し、病人は癒されました。そのような主イエスの業は恵みに溢れた神の支配が世界の中に開始していることを示しました。
 つまり、主イエスの宣教活動は、神と人間との根本的関係の樹立を目的としており、本質的に既にそこではユダヤ人とギリシャ人の区別は撤回されていました。それにしても、主イエスが地上におられた間は、まだ神と人間との人格関係を樹立するために果たさなければならない重大な使命が残されていました。それが十字架の犠牲による人類の罪の贖いであります。
 しかし、今や十字架の死による人類の贖いが、歴史の中の出来事となる時が到来したのです。このような状況の中で、唯一の神を信じる敬虔なギリシャ人がイエスのもとに来て「イエスにお目にかかりたい」と願ったことはまことに象徴的であります。

(2)人の子が栄光を受ける時
 このとき主イエスは次にように仰せになりました。
 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23~24)
 人の子とは、イエスがご自分を言い表すために用いられた名称で、神の主権を代行する終末的な人間です。この人の子が栄光を受けると言うことは、十字架に付けられることを意味していました。
これはわたしたち人間には、非常な驚きです。またこの世の人々には全く不可解なことです。なぜならば、この世の者が求める最高の栄光とは、この世の最高の名誉と権力の座に就くことでありますが、それは神の栄光ではないのです。神の栄光とは、この世の人たちが極めて屈辱的で悲劇的な出来事であると考える十字架の死であります。
なぜならば、十字架の死においてのみ、神の救いが実現するからです。神が人間と共に住むために、人間のもとへ下られた神の下降は、十字架においてその頂点に達したからです。
また、一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶように、イエスが十字架の死を遂げられるならば、そのことによって、イエスの中にある命が多くの人を生かすようになるのです。
これが神の前に通用している霊的原理です。救い主としてのイエスの使命は、この原理に従って、ご自身の中にある霊的生命をすべての人間に与えることでありました。
しかし、その使命を果たすために、主イエスは恐れと悲しみと苦しみを経て行かなければなりませんでした。これは人間には到底不可能です。人間は十字架の死に耐える力と勇気を持っていません。しかし、その力を神から受けることができるのです。
実に、人間に不可能なことを可能にさせる力は神のみが所有しておられます。「人間にはできないが、神にはできる。」ということがイエスの信仰でした。「人間にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と仰せになっています。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』と言おうか。しかし、わたしは正にこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12:27~28)
この祈りには、血の汗を流すまで熱心に祈られたゲッセマネの園での祈りと同様に、イエスの苦闘があります。
「今、わたしは心騒ぐ」という言葉には、その苦闘がよく現れています。「騒ぐ」と言う言葉は、ギリシャ語で「タラソー」と言いますが、心が「動揺する」「愕然とする」「恐怖に襲われる」と言う非常に強い衝撃と苦しみを意味しています。
その中で、イエスは父なる神に必死に祈られたのです。イエスはわたしたちと同じ人間でありましたから、当然に十字架の死を避けたいと言う人間として自然な思いがありましたので、父なる神の御心に従うために、自分自身と戦わなければなりませんでした。
誰でもイエスのように33歳の若さで死ぬことを望むはずはありません。まして、十字架の上で死ぬことを願う者は一人もいません。実に、イエスは人類の罪を贖おうと意図しておられる神の御心を確認し、神への従順を貫くためには、苦闘を経て自己を乗り越えることが必要でありました。その苦闘は祈りの中で行われました。
「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』と言おうか。」
ここで、「何と言おうか」と言う言い方は、ギリシャ語の修辞的な疑問文でありますので、「何というべきか」「何といえるか」という意味で、その答えはこの内容を断定的に「そうではない」と否定する強い言い方なのです。
「父よ、わたしをこの時から救ってください」という人間として当然の願いを否定するイエスの確信を表しています。イエスは祈りの苦闘の中で、この確信に達せられたのです。
「しかし、わたしは正にこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られた時には、最早イエスの心の動揺は過ぎ去り、確信と平安と父への信頼に満たされて、祈られたのです。
そのイエスの祈りに対する神の答えが与えられました。
「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(12:29)
ここで、父なる神が主イエスの十字架の死によって、神の栄光を現すと仰せになりました。この父なる神の御言葉がイエスの祈りに対する明確な回答であります。
この神の答えは、そばにいた者たちの耳には、突然天から雷鳴が轟いたように聞こえました。それに対して、イエスの心には、神の御言葉が鮮明に響き渡ったのです。
そのようにして、イエスが祈り終わられた時には、自分が十字架の死に突き進んで行くなら、悪と闇の力を徹底的に打ち滅ぼす神の出来事が起こること、そして人間の罪の力に対する決定的な勝利が与えられることを確信されました。それゆえに、すべての人にイエスの命が与えられることを確信されたのです。
これまでも、主イエスの生涯の展開は、イエスの祈りとそれに答えられた神の御声に支えられて来ました。否、イエスの生涯そのものが祈りであったと言えます。それは父なる神との対話でありました。
イエスは御自分が置かれている状況を深く心に受け止め、観察し、思索し、そして祈りにおける神との対話の中で、父なる神のご計画を知らされ、自分に与えられた使命を自覚し、確信されたのです。さらに、そこから決断と実行が生まれたのです。

従いまして、イエスの祈りは単なる言葉ではありません。あるとき、イエスは弟子たちに対して、次のように祈りについて教えられました。「あなたがたが祈るときには、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7~8)
イエスは御自分の祈りにおいて、父なる神の御心と自分に与えられた使命を知ることが常に課題でありました。それゆえ、神の意志を単純明快に知ることを求められたのです。なぜなら、神の意志と働きは無限に深く広く、人智をはるかに越えていますが、それは理論ではなく、実践すべきものでありますから、実に単純明快なものであるはずです。
これはわたしが想像することなのですが、イエスの祈りはごく短い言葉によって行われたと思います。しかし、短い言葉の祈りと、次の祈りとの間には、実に長い時間に渡るイエスの思索と実践とが横たわっていたと思います。イエスは思索しつつ、実践しつつ、神の御心を求める苦闘の中から、その結晶として短い言葉にまとめられた祈りが生まれて来たのではないでしょうか。
それゆえに、イエスの単純明快な短い祈りの言葉には、無限に大きな意味と力とが宿っています。従いまして、イエスの単純明快な言葉とそれを裏付ける行為、つまりイエスの人格的存在がわたしたちに父なる神を完全に現し、わたしたちを神との交わりに招き入れるのです。

(3)イエスの確信
それでは、イエスが父なる神から与えられた使命を認識し確信された手段は、祈り以外にあったのでしょうか。確かにありました。それはその時代の聖書である旧約聖書です。
イエスは旧約聖書を通して、父なる神の意志を尋ね、神の御言葉を聞いておられました。そこで、わたしたちはイエスが旧約聖書の中で神が民に約束されました究極的な啓示と救いをどのように理解されたかを知ることができます。
それは十字架の贖いの死を預言したイザヤ書53章の御言葉をとおして、イエスは御自分に父なる神から与えられた使命を理解し、洞察しておられたという事実です。
「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」(53:11)

この御言葉は人類の罪を贖うために、人類の罪を自らの上に担って、神の裁きを受ける人類の代表者について、神の忠実な僕について、人類の中でただ一人正しい義人である者の犠牲について語っています。
イエスの確信はイザヤ書が語っている「苦難の僕」の使命を果たす者が自分であると言う理解に基づいています。
イエスはその確信を次の言葉で弟子たちに語っておられます。マルコによる福音書10:45の御言葉がそれです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
新約聖書の背景となっているヘブライ的な用語では「すべて」と言う概念を「多い」と言う言葉で表現しました。従いまして、「多くの人の身代金」とは、「すべての人のための贖いの供え物」と言う意味です。ここで身代金と訳されています原語のギリシャ語の「ルトゥロン」は、「贖いの手段」と言う意味です。その背景はエルサレム神殿における罪の贖いのためにささげられた犠牲の動物の血を意味していました。それに対して、「身代金」とは奴隷の身分から解放されるために支払う代金でした。
「すべての人の贖いの供え物」というこの御言葉こそ、イエスが神から与えられた使命と使命に対するイエスの認識と受諾と従順と献身を適切に現わしています。
このイエスの認識と献身により、イエスはご自身をわたしたちすべての人間と結びつけ、ご自身を与えられました。この無限に意味深い永遠の出来事が主イエスの十字架の死なのです。
この主イエスとわたしたちの連帯により、わたしたちも主イエスと共に十字架の死において、罪人としての古い自分に死んだのです。同時に、主イエスの義と命を与えられている新しい自分に生きる者となったのです。このわたしたちの新しい生き方が主イエスと共に生きることです。
神は主イエスの贖いによって、日々罪の赦しをもって、わたしたちに出会い、わたしたちを神に仕える新しい人間として召し出してくださるのです。
主イエスがわたしたちの罪を背負って、死んでくださったので、罰せられるべきわたしたちが罰を免れたというのではありません。そのような利己的な人間の願いを満たすために、尊い神の御子イエスがご自身の命を犠牲にされたのではありません。そうではなく、わたしたちが神の御前に生きるためなのです。
御子イエスの義と命を受け、神の御前に立ち、神に仕え、わたしたちが互いに仕え合い、隣人に仕えることによって、神の御栄を賛美するためであります。
このことをレントの期間を過ごしている今、とくに良く認識する者でありたいと願います。



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